Scene.1-1
「それじゃ水上、号令を」
教卓の前に立った担任の小宮センセに名を呼ばれ、小さく息を吸い込む。
「起立、礼」
私の機械的な言葉に、残りの三十四人の生徒が倣って立ち上がり、頭を下げ、ばらばらと着席していく。
「おはようございます」
朝一番に聞くには気持ちのいい、低く優しい声音が教室に響いた。
小宮センセは、テレビやラジオで誰もが耳にしたことがあるだろう森本ナントカばりの癒し系ボイスの持ち主。
一日一回、ホームルームの時間に癒されてるのは私だけじゃないだろうと思う。このクラスの特権だ。
「さて、出欠を取る前に、連絡事項が二つあります」
そんな心地いい筈のセンセの声が、全然心地のよくないことを告げ始める。
「一つ目は、言うまでもないことだが受験生としての自覚を持ってほしいということです。
クラスの面子は変わってないから実感はあまりないかもしれないが、
もう高校三年生の四月を迎えたわけですから。それぞれ、志望校合格目指して努力を怠らないように」
この成陵高校は三年間クラス替えがないシステムになっている。
その分クラス同士の結束も固くなる――場合もあるだろうけれども、私みたいに他人にあまり関心のないタイプには、関係ないことなのかもしれない。
まあどちらにしろココは超進学校だから、受験生にもなれば皆、自分のことで精一杯。更にも増してどうでもいいことになりそうな予感。
……しかし、朝一のホームルームでわざわざそんな当たり前のことを言うなんて。
各教科の先生から口酸っぱく言われていたことだけに、ただでさえ煩わしい『受験』ってフレーズがどんどん重たく感じてくる。
コッチは食傷ぎみだよ、センセ。
「もう一つは――ウチのクラスには関係ないことだと思いたいんだが」
小宮センセは少し困ったように眉を下げつつ、小さく息を吐いた。
あまり口に出したくないのか、それともどうやって伝えようか悩んでいるのか、少し言い淀むけれど、センセは直ぐに咳払いをして続けた。
「この成陵高校の女子生徒が援助交際をしている、という話が職員会議で上がりました」
私は瞬間的に、右隣に背を正して座っていた鳴沢啓斗(なるさわ けいと)へ視線だけ向けた。
鳴沢の方も、俯いていたからか聞き手の中指で眼鏡のフレームの位置を直しつつ、眼差しを私へ向ける。
「勿論この中のメンバーがそれに係わっているとは思わないが、今のこの時期、そんなことをしている場合ではない筈です。
自分から介入していかないこともそうだが、周囲でそういう話を耳にした者は私まで申し出てください」
なるほど、五十代のセンセにとっては口にするのが憚られるワケだ。
内容こそ短いものの、確りとした口調でクラス全員に告げて、センセはホームルーム終了の合図を鳴沢に送った。
「起立、礼」
今度は鳴沢が号令をかけると、幾分クラスに賑やかさが戻る。
その始業前独特の空気の中、小宮センセは私達二人の席の近くに寄ってきて、
「鳴沢と水上。昨日の古文の小テスト、百点だったそうだぞ。しかも学年で二人だけだそうだ。
流石クラス委員といったところだな。……川崎先生もかなり誉めてたぞ」
「ありがとうございます」
私は控えめにそう言い、鳴沢は軽く頭を下げた。
「この調子で頑張りなさい」
目じりの皺を深くするようなにこやかな笑顔と共に、センセは教室を後にした。
タイミングを合わせたつもりではないけれど顔を見合わせて、私と鳴沢は小さく笑う。当然、テストなんかのことじゃないく、滑稽だったからだ。
ごめんね、小宮センセ。
まさかそんな私達二人が例の援助交際に絡んでるなんて、きっと夢にも思ってないよね。
でもね、申し訳ないんだけど、このクラスでソレに係わってるのは私達だけじゃないんだよ。
もしセンセがそれを知ってしまったらどれだけ驚くだろうと想像しつつ、
そんなことはありえない。あってはいけない、と思い直して、次の授業の準備に取り掛かった。
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「まさかもうセンセ方がご存知とはな」
放課後、高校から少し離れたファミレスの一角。
窓の外から入ってくる日差しよりも室内灯の方がだいぶ眩しくなる時間帯、向かいの席でアイスコーヒーを啜る鳴沢は声を潜めた。
「……外に漏れるってことは、誰か女が喋ったとしか思えない」
私は温かい紅茶を傍らに置いたまま、差し向かいに座る三宅聡史(みやけ さとし)を責めるように見た。
「えー? マジ? クチ軽そーなコはあンまり誘ってないつもりなンだけどなー……」
その視線を受け取るや否や、摘んでいたフライドポテトを「いる?」なんて私に差し出そうとする。
「いらない。……でもそうとしか考えられない。誰かチクったって考えるのが普通じゃない?」
三宅は私のキッパリとした拒否に苦笑しながら、それを自分の口に運んで首を傾げる。
「でもさー、そしたら自分の内申だって危ないワケだぜ? 自分の首絞めたりするかなァ?」
「三宅の言うとおりかもしれない」
鳴沢が頷いて言った。
「受験生ともなれば、内申に傷がつくのは誰だって困るだろう。チクって自分のしたことバラされたら女だって困るはずだ」
「そーそー、そう思うだろ、鳴沢」
冷静に自分の考えを述べただろう鳴沢の台詞を助け舟だと思ったのか、三宅はホッとしたように笑い、隣に座る鳴沢の背中をばしばしと叩いた。
……相変わらず調子のいいヤツ。
「………」
痛い、とでも訴えるでもなく、鳴沢が呆れたようにその叩かれた背を自分で撫でていると。
「……こないだの女の子じゃないかなぁ、と思うんですけど」
今まで隣に座っていたものの、手をつけないままのココアと睨めっこをしていた神藤駿一(しんどう しゅんいち)が初めて口を開いた。
その声音は小さくあまりはっきりしないが、意見に自信がないのではなくこれがデフォルト。
「こないだの女の子っていうと、どの子?」
私は普段あまり自己主張しない彼の意見を拾ってみることにした。
「D組の……村井さんて子」
「あー、彩夏チャンね。いやー、それはないでしょ」
私が応えるより速く、三宅が手をひらりと振りながら口を挟んだ。
「彩夏チャンは今頃カレシと仲良しこよしなンだからさー、わざわざ自分で壊すようなことしないべ?」
「……それは、そうかもしれない、ですけど」
神藤は再びココアを見つめ、黙り込む。根拠はないのかよ、根拠は。
しかし、村井彩夏、ねぇ。つい先日の出来事を思い出す。
「……一応、誰にも言わない、とは言ってたけどどうかな。カレシと早速別れたとか?」
「いやーないない。オレそんなこと聞いてないし」
私が適当に投げた仮定が、あっさりと三宅に否定されたところで、じゃあ、と鳴沢が口を開いた。
「そうでなければ、男の方……かな」
すると、三人が一斉に私を見た。私は焦って、
「それこそ無いよ。こっちだって厳選して、政治家とか社長さんとか芸能人とか、バレたら一波乱も二波乱もありそうなヤツにしかこの話は振ってない」
と、少し早口にまくし立てる。その辺のミスは犯していない筈だ。
「………」
「………」
三宅も鳴沢も行き詰ってしまったようで、神藤同様、頼んだメニューと睨めっこ状態。
「まさか」
その間を破るように私が言う。
「あんた達の誰かから洩れたってワケじゃないでしょうね」
その言葉に三人の表情が露骨に困惑した。
「……や、やだなーもー。オレ達を疑ってるって? 冗談キツイぜ」
三宅だけがその後、いつものようにおちゃらけて首を横に振った。
「『Camellia』が表に出たら……僕だって、凄く、困りますっ……学校とか、親とかにバレたら……」
想像するのも怖いという風に、少し青い顔になった神藤が呟く。
よくよく見ると眦が赤い――泣きそうなのかコイツは。
「僕らがチクるなんて無意味だろ、『Camellia』の御利益に与れなくなる。それに」
やれやれ、と肩を竦めつつも、鳴沢は、射抜かれるのではというほど鋭い視線で私を見た。
「僕らそれぞれが水上に逆らえないって、水上自身が一番よくわかってるんじゃないのか」
彼の少し皮肉を込めた言葉に、三宅も神藤も頷く。
「……そうだね。愚問だった」
そう、彼らが私に逆らえる筈がない。
私を怒らせたら彼らが困るのは目に見えている。
私たちは全員、成陵高校3−Aの生徒ではあるけれど、彼らとの関係は対等じゃない。
わかってはいるけれど……元々、人を信用できない気質だからか、つい疑ってかかってしまう。
「どっちにしろいーじゃん。『Camellia』の存在がバレたワケでも、オレらが絡んでるコトがバレたワケでもない。
単にガッコから近いラブホ選んでたコトが敗因かもしれないンだからさ」
「………そ、そう……ホテルに入るところか、出るところを見られたのかも」
三宅の発言に神藤が頷く。そうか、それっぽい現場を見られたのが原因かもしれないのか……。
「女の子のために、学校から近い場所が『シゴト』しやすいかなと思ったんだけど……それでバレたんじゃ元も子もないか。少し離れたところで探してみる」
ホテルについては私の管轄。ぬるくなった紅茶を一口啜ってそう言った。
「次の『シゴト』はいつ入ってるの?」
「ちょっと待って」
スケジュールを把握しているのは鳴沢だ。
鳴沢は足元に置いたバッグから、手のひらに収まるくらいの薄いメモ帳を取り出して、それを開いてみせる。
頼りない厚さだけど、これくらいの方が短期間で処分しやすくて……つまり管理の証拠が残りにくくていいんだそうだ。
「……明後日に二人、かな」
「了解、明後日までにはどうにかする。あ、そうだ、神藤」
私は、隣でやっとココアに興味を示し始めたらしい神藤を呼びかける。
「新しい子が一人入ったんだけど、今週中に撮影の方よろしくね」
C組の子、と付け足すと、神藤はこくんと静かに頷いた。
「……じゃ、話も済んだみたいだから、僕はそろそろ塾に行くよ」
大方、話がついたところで鳴沢がバッグを拾い上げて立ち上がる。
「お前昨日も塾だったじゃん。週何回行ってるワケ?」
メモを仕舞う所作を眺めながら、三宅がそう訊ねる。
「今は月金で週五だけど」
「マジで!?」
涼しい顔で答える鳴沢に三宅が目を丸くした。
「……さっすが秀才のクラス委員」
「僕は天才じゃないからね。努力しないと駄目なだけだ」
コインケースから五百円玉を一枚取り出すとテーブルの上に置き、鳴沢はそのまま店を後にした。
「……僕も今日は……塾があるので……」
神藤も鳴沢に倣って五百円玉を取り出すべく財布を開いたのだが、
「えっと……千円札しかなくて……」
「ハイハイ、釣りな。ちょい待てよ――細かくてもいいよな?」
三宅が神藤の分も請け負うつもりらしく、サッと釣銭を用意して、オドオドしている神藤に手渡した。
「あ……どうも、ありがとう、ございます」
「お前さァ、いつまでも他人行儀だな。もーっと気楽に話せないのかよ?」
「ご、ごめんなさい……」
「別に責めてねーよ。お前と普通に会話するにはデジカメが無いと、か?」
「デジカメがあったらあったで会話にならないでしょ。夢中になりすぎて」
私が神藤をからかうように言うと、三宅が楽しげに笑い声を立てた。
「……じゃあ、僕も塾に行くので。お疲れさま、です」
「はいはい、またね」
「お疲れー」
私と三宅は頭を下げて去っていく神藤を見送った。
「アイツ面白いなァ、ツッコミ所満載ってか――まァ、絶対友達にはならないタイプだけど」
三宅が何気なく呟く言葉に同調した。私も、こんな風に会ったりしなければ神藤とは疎遠だったろう。
でもそれは、差し向かいにいるコイツを相手にしたって同じ。
――チャラチャラした軽い兄ちゃんっていうのは、あんまり仲良くしたくない。
「私にとってはアンタも絶対友達にならないタイプだけどね」
「うわ、水上ってば言うねー。……オレはこンなに水上を好きなのに?」
わざわざ隣の席――さっきまで神藤が座っていた場所に移ってきてまで、そんな馬鹿を言い出す三宅。
「オレは水上のコト、割とタイプだと思ってンのになー」
「やめてよ気持ち悪い。そんなこと言ったってアンタの『弱み』は忘れてやらないよ?」
私の手を取ろうとする三宅を振り払い、冷たい言葉を選んで突き放す。
三宅の思惑なんて手に取るようにわかる――私に取り入って、あの『弱み』を無かったことにしたいんだろう。
私はその辺の女とは違う。そんな手には引っかからないんだから。
「……はー、水上には敵わないなァ」
三宅は諦めた様子で元居た場所までわざわざ戻り、食べかけだったフライドポテトを消費し始める。
私達は友達じゃない。仲間とも違う。強いて言えばクラブの部員みたいな関係だろうか。
『シゴト』以外での彼らには全く興味はないし、彼らもそれぞれに対してそう思っているだろう。
現に鳴沢と神藤は、クラスは違えど同じ塾に通っているのだから、一緒に向かってもよさそうなものだけれど、
彼らはそういう気安い関係じゃない。それは相手が三宅に変わったって一緒。
でもだからこそ都合がいい。表では、全く係わり合いのない者同士だと思われているから、接点があるのではと疑われるなんてありえない。
クラスでもバラバラのグループに属する私達を繋ぐもの――それが、『Club
Camellia』。
そして、その『Camellia』の指揮を執っているのが、私、3−Aのクラス委員、水上智栄(みなかみ
ちさか)なのだ。
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