Scene.3-4





 あの悪夢のような日から一週間が過ぎた。

 土日こそ、やらかしてしまった事実の恥ずかしさに悶絶して転げまわりたい気分だったけど、

 月曜、火曜と授業に追われるようになってからはそんな気持ちも冷めてきた。

 現実を見つめられるようになったのか。それとも、川崎センセからの評価を諦めることにしたのか。

 水曜、木曜と経過していくと、そのことについて考えないように努めていた。

 だから私は、ただラッキーだったと思うことにした。見つかったのが川崎センセで、よかったじゃないかと。 

 他のセンセだったら今頃家庭訪問されて厳重注意の挙句、謹慎処分なんてことも有り得ない話じゃない。

 そんなことしたら私の立場が危うい。

 だからいいんだ。これで。

 …………………。

 ………本当に?

 何処か割り切れない気持ちを抱えていた――そんな金曜日の夜、鳴沢から電話があった。

「もしもし」

「もしもし、水上か?」

「どうしたの、何か用事?」

 また何かトラブルでもあったのか。心配になってそう訊ねると、ヤツはあっさりと否定した。

「いや、そういうんじゃないけど――明日の予定の確認をね」

「ああ、そう」

 わざわざ電話でするやり取りでもないだろうに、珍しい。

 私は自分でも気の抜けた返事だな、と思いつつ頷いた。

「ユリカ――斉木さん凄いよ。あの瀬野がかなりご執心みたいで、あれから二日に一回……いや、それ以上のペースで予約していくんだ」

「へぇ……二日に一回、か。凄いね」

「適当な相槌だな」

 自分は関係ないと言わんばかりの受け答えには、流石に鳴沢も苦笑した。

「でもこれで――斉木さんもりっぱな稼ぎ頭だな。逃げられないようにしないと。何ていったって、あの瀬野を掴んだんだから」

「そうだね」

 瀬野は結構面倒臭いタイプの客で、お得意様なのは有り難いけど、その分女の子に求めるモノも多くて気を遣うのだ。

 一度、新しく入った子を写真指名した時、口調や礼儀作法なんかに不満を覚えたらしく――おそらくギャルは嫌いなのだろう――、

 その女の子を怒鳴りつけたりして、隣で待機の私達はかなりヒヤヒヤしたものだ。

 おそらく斉木さんは、彼にとって申し分の無い相手なのだろう。この指名率からもそれが伺える。

 彼女、言うまでも無く美人だし清楚だし頭もいいし――そりゃ、気に入られるわ。

「水上、どうかしたか?」

「え?」

 不意に鳴沢がそう訊ねる。

「最近、あんまり元気ないように見えたから。今も、何か上の空みたいだし」

「………そんなことないよ」

 内心、痛いところを突かれたと思った。

 金曜の夜は大抵、翌日の古文の予習に取り掛かっている時間なのだ。

 それなのに、私は古文どころか他の教科のテキストを開くこともなく、ただベッドでぼんやりと過ごしているだけ。持て余すような暇はない筈なのに。

「もしかして、気にしてるのか? 川崎センセのこと」

「えっ―――」

「でも誤魔化せた上に黙ってくれるって言ってたんだろう? それならいいじゃないか。水上の所為じゃないんだし」

「あ、ああ……そうなんだけど……」

 吃驚した。何だ、そういうことか。

 一瞬、私が誰にも言わないで独りで燻ぶっていたことを、鳴沢が見抜いたのかと思った。

 先週の土曜、ホテルから出る際川崎センセに見つかってしまったことは、鳴沢の他三宅や神藤にも伝えてある。

 三宅には少しなじられたけど神藤や鳴沢は仕方ないという風で、特に鳴沢はその前日の電話のこともあり、幾らか責任を感じているようだった。

「過ぎたことを言ってもしょうがない。川崎センセを利用できるって分かって良かったじゃないか。その収穫の方が大きかったと思うけど」

 確かに、今後も『Camellia』を続けて行こうと思ったら、先生方の動きには注目してなきゃいけないワケで。

「寧ろ見つかったのが川崎センセで良かったくらいだよ。パトロールのことも聞きだせる程仲良いセンセなら、色々流してくれそうだし」

「うん……」

 鳴沢はそう言うけど、私はもう川崎センセと気軽に話せる自信が無かった。

 だって彼はもう――私のことをヘンなヤツだと、そういう風にしか認識してないだろうと思うから。

 考えてみればすぐに分かる。クラス委員の癖して知らないオジサンと援助交際してるところを見つけて。

 家に連れ帰ってきたら、今度はその父親と若い女性がその―――シてるところと遭遇、なんて。なかなか出来る体験じゃない。

 センセもさぞ動揺したことだろう。なのに彼は表向き私に嫌な顔一つ見せなくて、それが逆に辛かった。

 本当はどんな風に思われてるんだろう。私は、彼の心にどう映っているのか―――。

「水上?」

「あ、うん」

「よかった、聞こえてたか」

 単に黙りこくっていただけだったのだけど、鳴沢は電波障害とでも思ったのかもしれない。

「じゃあ、そういうことだから。……繰り返すようだけど、あんまり気にするなよ」

「うん。わかった」

 鳴沢はそう言い残して電話を切った。

 明日の確認というよりは、川崎センセの話だけして終わった気もするけど……。

 
『繰り返すようだけど、あんまり気にするなよ』

 最後の彼の言葉が耳元で蘇る。

 もしかして鳴沢、私の心配をしてくれていたのだろうか―――なんて。

 まさかね。自分で可能性を考えながら、ぷっと噴き出していた。

 けどまぁ、確かに? 私の心証は良くして置いたほうがいいとは思っているのかもしれない。

 鳴沢だけじゃなく、三宅と神藤の弱みを握っているのは私なんだし。

 ――心配無用、気にしてなんかいない。気にしてなんていられない。

 鳴沢の言うとおり、過ぎたことを気にしたってしょうがないのだ。

 もしあの時ホテルの前で川崎センセと遭遇しなければ、なんて……考えたって意味が無い。

 意味が無い。意味が無い。分かっているのに――。

「………馬鹿馬鹿しい」

 それでも心の片隅で、あの日が川崎センセの担当じゃなかったら。

 予約のホテルを『Rose』にしなければ――……なんて想像してしまう自分が滑稽だった。

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「よーし、来週までに今の部分の現代訳をノートに纏めて提出な。それじゃ、今日はここまでだ」

 川崎センセの爽やかな声で授業の終わりが告げられると、私は早々とテキスト類を纏めて教室を出た。

 土曜日ラストの授業、『古文2』が終了したら後はフリーだ。

 いつも授業後の質問を欠かさなかった私は、授業中、センセへ顔を向けることさえも抵抗があった。

 ―――怖かったのだ。

 うっかり目が合った時に、彼がどんな反応をするのか。私に対して嫌な感情を持っているとしたら、それが垣間見える気がして。

 自意識過剰なのかもしれないとも思う。実際は、妙な出来事だったと思っているだけで、私のことなんてさほど気にも留めてないかも……と。

 でもそれも、結局はセンセ本人に確かめてみないと分からないことなのだ。

 そんなことを考えながら下駄箱でローファーに履き替えたところで、後ろから肩を叩かれる。

「鳴沢……?」

「やっと追いついた。歩くの速いんだな」

 彼は苦笑しながら、「これ」と目の前に手を差し出してきた。

「……あ」

 その中に握られていたのは、ペンケースの中に入れたと思った私の消しゴム――落としてたんだ。

 近くの席の彼が気付いて、わざわざ持ってきてくれたのだろう。

「落としたよって言っても、気付かなかったみたいだから」

「ごめん。ありがとう」

 私は素直に礼を言って、消しゴムを受け取る。

「鳴沢はこれから塾だっけ?」

「ああ。水上は?」

「私は普通に、帰るだけ」

「そうか――自宅学習派? あんまり塾に行くって話、聞かないよな」

 言いながら、鳴沢が歩き出すものだから、何となく私もその横に並んだ。

「塾のあの雰囲気、好きじゃないの。自分のペースでやった方が効率いい気がして」

「ふうん。ていうことは、水上は頭が良いってことか」

「どうしてよ?」

 私より成績の良いヤツに言われると突っ掛かりたくなる。私が図らずも荒っぽく切り返すと、

「……つまり、もともとの作りっていうか、賢さって言うか」

「それを言ったら鳴沢には敵わないじゃん。何、嫌味?」

 まさか本気でそう受け取ったワケじゃないけど、受験期に不用意な発言は控えてほしい。

 冗談っぽく笑み混じりに聞くと、横から覗いた鳴沢の表情が曇った。

「――僕が本当に賢かったら、こんな死に物狂いで塾なんて行かないよ。水上みたいに、自分のペースでやりたいと思う」

「じゃあそうすればいいじゃん。全校テストの結果、三教科総合でうちのクラスじゃ一番だったんでしょ? 充分賢いよ」

 以前、小宮センセがそう彼を誉めていたことを思い出して口を尖らせた。

「うちのクラスじゃ、だろ」

 ところが鳴沢はちっとも満足していないようだった。

 だから何がダメだっていうのか。そりゃ、上を目指すのは全然悪いことじゃないし、寧ろそう思えるほうが良い。

 けど、上を見たらキリがない。成陵で上位にいるってことは、全国模試に置き換えると相当な高レベルということだ。

 ……大学なんて入ってしまえばこっちのモノなんだから、合格圏に辿りつければ満足、くらいの気持ちで構えてればいいのに。

 医学部ってそんなに競争率高いのかな。いや、それとも―――。

「もしかして、ママに『ケイちゃん、頑張ってね』ってプレッシャー掛けられてるとか?」

「何だよ、急に」

「ママの期待に応えたい〜とか、そういうことなのかなって」

 彼の『弱み』を思い出して、からかい半分に訊ねてみる。

 鳴沢がママに何て呼ばれてるかは知らない。そもそも、鳴沢のママがどんな人なのかも知らないのだ。

「あー……やっぱりそういう風に思われてたのか」

 鳴沢が居心地悪そうに襟足のあたりを無造作に撫でた。

「そういう風も何も、買った商品が物語ってたもん。マザコンの鳴沢くん?」

「あんまり大きい声で言わないでくれ。まだ校内なんだから」

 校門を潜る所で、彼がうっとおしそうに非難したのを私が面白がって、

「ほら、もう外だよ。で、どうなの? やっぱ鳴沢ってマザコン?」

 とか、ノリで訊いてみる。

「―――さぁ、よく分からない」

「分からない? 何で?」

「僕、母親いないんだ。物心ついてからずっと」

「…………」

 予想外の台詞が返ってきたものだから、私はどう返事をしていいのか躊躇してしまった。

「そういう意味では、マザコンかもしれないな。僕を産んですぐに不仲になって、離婚したって聞いた。

母親と話した記憶がなくて顔も思い出せないから、会ってみたかったって気持ちはある」

「………そうだったんだ」

 私は、悪乗りしたことを反省した。きっと彼も、おいそれと他人に話したくない内容だったんじゃないかと思う。

「でもまあ、あのDVDは自分用に買ったものだから、何も言い訳できないな」

「…………」

「ちなみに、そんなに面白く無かったよ。あまり年上は好きじゃないみたいだ」

 母親を知らないから、逆に興味をそそられたということなんだろうか。こともあろうかAVに。

 それって、何か間違っているような気がしないでもないけど……。脱力して突っ込もうとした時、

「きっと、母親は離婚するとき、僕を産んだことを後悔したと思うんだ。バツイチの上に子持ちなんて不都合に決まってる」

 鳴沢が不意に、真面目な声音でそう口にした。

「うちは幸い父親の収入がそれなりにあったから、あまり不幸な思いをすることはなかったけど……でも、時々不安になる。

僕が誰にも望まれなかったような気がして」

 私は鳴沢の言葉を聞きながら、うっすらと存在していたシンパシーのようなものが膨れ上がるのを感じた。

「僕は誰かに求められたいっていうか、認めてもらいたいのかもしれない。そのためには、もっと勉強をして、医者になって――」

「何となく分かるよ。その気持ち」

 私は彼の言葉を遮るようにそう言った。

「私もね、母親いないの。鳴沢のトコと一緒で、離婚したんだけど――たまーに会ったりはしてるから、私の方がマシなのかな」

「…………」

「でもね、個人的には会えない方がいいなって思う。向こうの家庭の話とか嬉しそうにされると、ちょっとジェラシー?」

「向こう?」

「お母さん、ずっと昔に再婚したから」

 鳴沢が私の代わりにちょっと寂しそうな顔をしてくれる。

 私と彼の生き方や振る舞い方が近い理由が漸く分かった。単純に、私達は似ていたのだ。

 どうすれば一番可愛がられるか、傍に置いて貰えるか、誉めて貰えるかを本能的に悟ってしまった。

「けどね、鳴沢。私は自分に引け目なんて感じてない。悪いのはそんな風にした周りの大人たちだもん。

だから私は周りに認められたいとは思わない。傍に居るのは、腐った大人ばかりだから」

 父親や吉川さん、そして『Camellia』の顧客の顔が浮かんでは消えていく。

 周囲に愛され、求められるために優等生を演じる鳴沢。

 周囲を嫌悪し、そこから逃れるために優等生を演じる私。

 結果は一緒でも動機は全く違うのだ。

「――水上は、強いんだな」

 鳴沢はため息と共にそう吐き出して、緩く首を振った。

「僕はそんな風に自分を正当化できない」

「だって私は何も悪いことしてないもん」

「………援交は立派な犯罪だよ。勿論、斡旋もね」

「それは――まぁ、そうだけど。何、その言い方、『Camellia』に不満でも?」

 いいアルバイトになってるって言ってた癖に。妙に諭すような口調の鳴沢が気になって訊いてみる。

「……いや、不満なんて。ただ、抵抗感がないと言えば嘘になる。バレた時のことを考えると、リスクが大きすぎるから」

「バレないようにすればいい話だよ。首尾よくやってれば、マズいことにはならない。今だって、多少のピンチはあれど上手くいってるじゃない」

「でも、これから本格的に受験勉強に入るだろう。そうしたら、どうするんだ? 平行してやっていく自信が、僕には無いよ」

 堅実な考え方の鳴沢らしい意見だ。特に医学部狙いの彼には、『Camellia』は負担になってしまうだろう。

 けどそんなの知ったことか。

「あれ、鳴沢。もう忘れたの? 事実かどうかは置いておいて、私はアンタの『弱み』を握ってるんだよ。拒否権なんて、最初から無いんだから」

「手厳しいな」

 私が厭らしくも例のことをチラつかせると、彼は苦笑しながら頷いて、

「――勿論、分かってるよ。言ってみただけだ。僕たちは水上には逆らえない……ただ」

 いつの間にか、駅前の大通りに差し掛かっていた。

 地下鉄に乗る私と、おそらく私鉄に乗るだろう鳴沢が分かれる場所だ。

「水上は、自分がやってることの恐ろしさっていうか――そういうの、本当に分かってるのかなって思うときがある」

「……何、それ」

 足を止めた彼の声音が改まったものに感じられて、私の語勢が僅かに弱る。

「正論を振りかざすつもりは毛頭ないけど、僕らがやってることって誰がどう見ても犯罪だ。分かるだろう?」

「それが何だっていうの」

 そんなこと、わざわざ言われなくたって分かってる。

 鳴沢の言わんとしていることが何なのか……真意が掴めなくて、私は苛立った。

「……………」

 私の様子を窺う彼は、暫く考え込むように口を閉ざした。けれど。

「……いや、それならいいんだ。じゃあ、僕はこっちだから」

「……うん、じゃあ」

 言いたいことを押し込めたような、少し諦めたようなニュアンスを残して、鳴沢の影が遠くなる。

 『水上は、自分がやってることの恐ろしさっていうか――そういうの、本当に分かってるのかなって思うときがある』

 私はどうしてか立ち止まったまま、その言葉の持つ意味を探していた。