Scene.3-5
鳴沢の言動の意図が分からず、蟠った感情を持て余して帰宅した私は、
自宅マンションのキーを回したところで、眉間に力が入る。
「……」
…………鍵が、開いている。
この時間、土曜といえども父親は会社に居る筈だ。
嫌だ、泥棒!?
なんて危ぶんだのは一瞬。中に居るのは、おそらく私にとっては泥棒よりも厄介な――……。
「あら〜、智栄さん。おかえりなさい」
「……よ、吉川さん」
扉を開けた先には、持参しただろうエプロンやスリッパでパタパタと動き回る吉川さんの姿があった。
長い髪を一つに束ねて、洗濯物を積んだカゴを抱えている。
「吉川さん、何して……」
「社長に頼まれたんですよぉ。智栄さんも受験生なので、そろそろ勉強に集中したいだろうからって」
……なるほど。いよいよ吉川さんを私の母親にしようって心積りなのか。
私の世話をするっていう名目で、こんな風に水上家へフェードインさせるつもりなんだろう。
「そうなんですか。何だか、申し訳ないです」
内心では冷静に分析しながら、私は眉を下げてそう言って見せる。
「いえいえ、私も智栄さんの力になりたいんですよ〜。これからはこのお家で、お食事もお掃除も頑張りますので、宜しくお願いしますね。
何か用事があったら遠慮なく言ってください〜!」
「ありがとうございます。すごく助かります」
テンプレート通りのお礼を口にしながら、私はまっすぐ自分の部屋に向かった。
八畳のプライベートスペース。今後、気を緩めることができるのは此処しかないようだ。
スクールバッグをベッドの上に投げると、チェアに腰を下ろしてぼんやりと宙を見つめる。
今まで洗濯物は父親の分は父親が。私の分は私が、とそれぞれ各自で管理するようにしていた。
最初は父親が私の分も一緒に回してくれていたのだけど、中学校に上がってブラジャーを着け始めた位から
下着を見られることに嫌悪感を覚えるようになり、それ以降は自分の分は自分でというのがウチの暗黙のルールだった。
それを―――父親の頼みとはいえ、他人である吉川さんが担当するようになるっていうのは、どうにも心地よくない。
彼女が悪いワケじゃないことも分かっているし、好意だっていうのも理解しているつもりだけど……。
プライバシーを侵害された気持ちは否めない。いや、はっきり言うと不快でしかない。
今更、母親なんて要らない。ていうか、母親だなんて思えないし、そう振舞われたって困るだけだ。
だからとは言え、ストレートに伝えるのは賢くない。父親の手前、表面上では吉川さんと友好的に付き合うべきだろう。
とすると、暫くはこの状況を甘んじて受け入れるしかないということか……。
ふと、先ほど別れたばかりの鳴沢が脳裏に浮かんだ。
鳴沢のところは父一人、子一人。話に聞いた感じじゃ、お父さんに女の人の影はないらしい。
お医者さんってやっぱり忙しいんだろうか。それとも、もう結婚には懲りたということなのか……。
こういう悩みがない部分では、鳴沢が心底羨ましいと思う。
『水上は、自分がやってることの恐ろしさっていうか――そういうの、本当に分かってるのかなって思うときがある』
「だから、何だって言うのよ」
ヤツが最後、意味有り気に呟いた言葉が耳に残っている。
『正論を振りかざすつもりは毛頭ないけど、僕らがやってることって誰がどう見ても犯罪だ。分かるだろう?』
そんなことは言われずとも分かり切っている。売春斡旋は犯罪。誰かに見つかればアウトだ。
今の法律じゃ、私達のやっていることは許されないのかもしれない。
でもだから何だと言うのか?
身体を売ってお小遣いが欲しいという女子高生と、性欲を満たすためにいたいけな女子高生を買う大人。
暴論と言われればそれまでだけど――私は、ヤツらほど腐ってはいないと自負している。
寧ろ、反面教師にしている位なのだ。ソッチ側に行くようなことがあってはならない。
性欲だの衝動だのに踊らされたり、溺れたりするのは論外だ。私は、そういう人種に成り下がりたくない。
だからこそソッチへ堕ちた人間を利用して、もっと聡く生きていきたい。
事実、『Camellia』の利用客数は増え続けているということは、それだけ女子高生との関係を望んでいるヤツが多いということを表しているじゃないか。
安易に身体を差し出す女の子も女の子だ。私達は何も無理強いして彼女たちにシゴトをさせているワケじゃない。
彼女たちが自分で身体を売ることを選択しているだけであり、私達は客と女の子を――需要と供給を繋いでやってるに過ぎない。
『Camellia』が悪だと言うならば、そういう状況を作り上げてる周囲こそが悪だと、私は思う。
それなのに―――。
椅子の上で膝を抱えつつ、先ほどの言葉を反芻する。
『自分がやってることの恐ろしさっていうか――そういうの、本当に分かってるのかなって』
鳴沢の口調が責め立てるような響きを持っていたものだから、変に気持ちがグラついてしまう。
『Camellia』は確実に利益を増やしている。最近では斉木さんという強力な新人も現れて、まさに順調といった具合だ。
存在バレに怯えたりもしたけれど、それも一段落したことだし……。
鳴沢のヤツ、私に揺さぶりをかけてくるなんて、一体何が不満なんだろうか。
『Camellia』の三人は、最初こそ嫌々私の指示に従っていただけだったけど、今じゃそれぞれの得意分野で要領良くシゴトを回してくれている。
本人たちもそれなりに楽しんで、というか、割り切ってこなしてくれているものと思っていたのに。
……ヤツが言っていた通り、受験のラストスパートに備えたいということなのだろうか。
確かに、鳴沢の事情を考えてやると可哀想な気もしないでもない。
ある一定レベル以上の医学部は暢気に構えて合格できるほど甘くはないのも知っているつもりだ。
でもそれは鳴沢だけの話じゃない。三宅や神藤、私だって―――……。
『智栄さんも受験生なので、そろそろ勉強に集中したいだろうからって』
私だって――そう思考を巡らせて、甘ったるい吉川さんの声音が耳に障った。
だからこそだ。受験が終わるまでには、この家を出ていけるだけのお金を手にしていなければならない。
吉川さんがこの家に馴染むのも時間の問題だ。そうなったら最後、父親が味方なのを良いことに、色々勝手をやりはじめるんじゃないんだろうか。
言い掛かりをつけるワケじゃないけど――吉川さんがどうして父親を選んだのかが分からない。
年が離れたバツイチの、しかも高校生の子供がいる男を選ぶほど、相手には困ってなさそうなのに。
つまり、こう……邪推してしまうのだ。資産が目当てなのか、とか。
もしそうだとしたら、なおさら私は彼らに関わるべきじゃない。吉川さんの性格如何では、私に不利益が生じる可能性だってある。
あんな緩そうな、おっとりした姿を見せている割には、意外と狡猾だったりしても不思議じゃない。
……とか考えていることが誰かに知れたら、妄想だって笑われるんだろうな。
けど、後悔した時には遅いのだ。あらゆる可能性を考えて行動するのは無駄なことじゃない。
鳴沢には悪いけど、私が家を離れる準備ができるまでは、『Camellia』を続けてもらうしかないのだ。
頼る相手がいない以上、自分のことは自分で守るしかない。煩わしい環境にだって負けるものか。
改めて決意をした私は、椅子から立ち上がり、気分のリフレッシュも兼ねて大きく伸びをした。
時間は有限だ。余裕のあるときこそ、予習を進めておかなければ。
私は早速放り出したバッグから筆記用具やら参考書やらを取り出し、勉強に没頭した。
・
・
・
「智栄さぁーん。お夕飯ができましたよぉ」
控えめなノックの音と共に、吉川さんの明るい声が扉の外から聞こえてきた。
夕飯。そのフレーズに手元の携帯電話をフロントウインドウを覗いた。
――もう午後七時過ぎか。
「セイちゃんも帰ってきたので、皆で食べましょう〜?」
「あ、はい。今行きます」
高めの声音でそう返して、私は首の周りのストレッチをする。
父親が帰ってきた音にも気がつかなかったとは、相当集中していたと思われる。
休憩するには丁度いい頃合い――……なんだけれども。
部屋を出てダイニングルームに着くと、爽やかな甘い香りが鼻を擽る。
「今日の夕飯はですね〜、林檎のタルトにしてみたんです〜」
父親の隣に吉川さん。向かい側に私。
タダでさえ慣れない三人での食卓は、吉川さんのとんでもない一言によって更に過酷なものになる。
林檎のタルト……だって?
言葉どおり、テーブルの上には焼きたてのタルトがワンホール鎮座している。
「タルトかぁ、美味しそうだなぁ。愛美」
「ふふ、実家の林檎が悪くなっちゃいそうだったので。それに、智栄さんはお勉強で頭を使うでしょう〜?
糖分を積極的に取った方がいいかな〜って考えたんですよ」
してやったりな彼女だが、私はぽかんと口を開けているだけだった。
だがしかし。流石はそんな彼女と相思相愛な父親のこと。
「愛美は優しいな。きちんと智栄のことを考えてくれて」
「セイちゃんの大事な智栄さんのことだもの〜。当たり前よう」
なんて、彼女と二人、よく分からないイチャラブっぷりを見せ付けてくる。
お陰で、『これは主食ではなくてデザートでは?』なんて当たり前の突っ込みを入れる気も失せてしまった。
夕食の献立は、林檎のタルトにグリーンサラダ、そしてコーンポタージュスープという何とも不思議な取り合わせ。
「智栄さんのお口に合うか心配ですけど〜……」
彼女は少々不安げに呟きながら、ケーキナイフでタルトを8等分にカットしていく。
「愛美は料理が得意なんだよ、智栄。お前もきっと気に入るさ」
「そう、それは楽しみだな」
私は口元に笑みを浮かべて見せた。
……いや、料理の味とか、それ以前の問題じゃないだろうか。とか思ったのは内緒だ。
「はい、じゃあいただきましょうか」
「……いただきます」
カットされたタルトのお皿を手前に置いてから、吉川さんの号令に手を合わせた。
そして、躊躇いがちにフォークを手に取り、恐る恐るそのタルトを口へ運んでみる。
「………美味しい」
素直な感想だった。ケーキ屋さんで食べるような出来栄えだ。
どうやら彼女が料理上手というのは本当らしい。ぽやんとした雰囲気の彼女だけど、案外、家庭的な部分があるようだ。
「気に入ってもらえました〜? 嬉しいです」
私の呟きに気を良くしたらしい吉川さんが、胸に手を当ててホッとしたような所作をした。
「はい、すごく美味しいです」
「智栄、これからは毎日愛美の料理が食べれるんだぞー、どうだ、嬉しいだろう」
「……うん、嬉しいよ。いつも食事は味気なかったから」
「もう、セイちゃんったらダメなのよ? 成長期の智栄さんに、買ってきたものばっかり食べさせるなんて」
私の発言に、吉川さんが父親を向いて口を尖らせた。
「いや、だからそれは反省してるんだよ。でも、俺も仕事があって、仕方なくだな〜……」
「仕方なくないです〜。大事な智栄さんなんだから、これからは私がきちんと栄養管理しますからねっ」
今まで、私と父親のタイミングが中々合わないこともあり、向かい合って食事を取るのは稀だった。
父親は専ら外食。私は自炊が出来ないので――高校生にもなって、恥ずかしい事なのかもしれないけど――コンビニ等で済ませることが多い。
それが父親の心の中で引っ掛かっていたのだろう。でもまぁ、私はさほど気にしていなかった。
というか正直、一人で食事をする方が気楽だった。父親と一緒に居ると神経を使うからリラックス出来ない。
……彼女がしようとしていることは、ありがた迷惑というヤツなのだ。
贅沢だと言われようがこの気持ちは曲げられない。だって私自身はちっとも望んでいないことなのだから。
だから、私の食べるスピードは自ずと速くなる。速く平らげてしまえば、あとは自分の部屋に帰るだけだ。
見る見る間に皿の中身を消費して、私は椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまです」
「あら、智栄さん、速いのね〜。まだ食べられる?」
「あ、いえいえ。これ以上食べると眠くなっちゃうので」
すぐさま私の皿にタルトを乗せようとした彼女を制しつつ、意識的に笑顔を作りながら、
「すごく美味しかったです。吉川さんがこんなに料理上手なんて知らなかったですよ」
「ありがとうございます〜。料理だけは唯一、絶対に上手くなりたいと思って努力してたんですよ〜」
と、私が褒めると彼女はご満悦の様子だった。
「私、美味しい料理が並ぶ温かい家庭に憧れがあって〜。その夢が叶うように勉強したんですよ〜」
「おーおー、愛美、そうだったのか〜」
「セイちゃんのお陰で、その夢も叶いそうね。とっても嬉しいわ」
父親が愛おしげに吉川さんの頭を撫で、それを上目遣いで吉川さんが見つめる。
「………あはは。じゃあ、私は部屋で勉強してくるから」
……アホらし。付き合ってられない。
「はい〜、智栄さん、頑張ってくださいね〜」
「智栄、あまり無理しすぎないようにな」
「はーい」
私は一礼してから自分の部屋に戻った。
扉の閉まる音と共に余所行きの自分から解放されて、その安堵感からベッドに飛び込む。
拷問だ。毎日コレが続くと思うと眩暈がしてくる。
タルトが主食ってどういうことだ。そんな献立聞いたことない。
ただでさえ胸やけしそうなのに、あの二人が纏った空気感まで糖分たっぷり甘々ときたものだから、吐き気すら込み上げてくる。
いつの間にか、私がいる前でも「セイちゃん」「愛美」なんて呼び合っちゃったりなんかして。うっとおしいったらありゃしない。
……今日あたりから、本格的に彼女も此処で寝泊まりするんだろうか。だとしたら夜中は夜中できっと――
…………。
でも、これもあと少しの我慢。
こうなったら何があっても絶対に、卒業までには一人暮らししてやるんだから――……。
そんな憤りを自分の中で消化していると、デスクの上の携帯電話が突然、震えだした。
……メール? いや、それにしては振動が長い。着信か――。
そう思って起き上がり、携帯に手を伸ばして、自分の目を疑った。
フロントウインドウには、発信元が「川崎千紘」と表示されている。
彼の携帯番号を登録した日、彼の車の中で自分の番号とアドレスを送ったのは確かだ。
けど、川崎センセが? 私に電話を? 何で?
頭の中いっぱいに疑問符が浮かんだけれど、反射的に通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
「……もしもし、水上か?」
震える声で応答すると、いつもの優しいセンセの声音が聞こえてきた。
「は、はい――……」
「ごめんな、急に掛けたりして。今、大丈夫か?」
「あ……はい、大丈夫、です」
動揺しすぎて、受話器越しの彼には伝わらないだろうに、思わず何度も頷いてしまいながらそう答えた。
「そうか。それならよかった」
対するセンセは、いつも通りの口調、いつも通りのテンション。少し笑みを交えながらそう言った。
川崎センセとはこの一週間、言葉を交わしていない。
先日の気まずさから、毎回欠かさなかった予習や授業後の質問も見送っていた。
そんな罪悪感もあり、私はどんな風に彼と会話していいのか分からずに、次の言葉を紡げない。
多分、気まずいと思っているのは私だけで、川崎センセは何とも思っていないのかもしれないけど……。
「……あのさ、水上」
「あ、はい」
少しの間の後、センセがそう徐に切り出した。
「……今の時期に林檎って、珍しくないか?」
「え!?」
センセが突然、突拍子もないことを言い出すものだから、全力で訊き返してしまう。
「あ、いや、この間さ、水上の家にお邪魔したときに林檎を頂いたじゃないか?」
「は、はい」
「でもな、林檎の時期っておそらく秋だったと思うんだよ。でも、あの――吉川さんだっけ? 実家から送ってきたって仰ってただろう」
「はい……」
「そういう細かいところが気になる性質なんだよなぁ。ちょっと不思議だなぁと思って」
素朴な疑問、と言った風な口調でセンセが呟いた。
そう言われてみたらちょっと妙だ。今日の献立も林檎のタルトだった。
旬でもないのにどうして実家から林檎が……?
「悪いな、どうでもいいことなんだけど、何でだろうって考えてしまって」
「い、いえ。でもそうですね、言われるまで気付きませんでした。あとで訊いておきます」
「ありがとう、水上。……って言うのは、まぁ口実だったりもするんだけど」
「……?」
川崎センセは続けて言った。
「今週は、一回も職員室に姿を見せなかったろ? 授業の後も、すぐ帰ったみたいだし」
「あ……」
「珍しいな、と思って。どうした、何かあったのか?」
「…………」
驚いた。センセは、一生徒である私のことを気に掛けててくれたっていうのか。
「他の授業とかで忙しかったっていうのであれば、全然気にしなくていいんだけど――タイミングがタイミングだから、な」
「…………」
「心配しなくたっていい。俺は先週のこと、誰にも話したりしていない。小宮先生にも、水上のお父さんにも」
『先週のこと』っていうのが指してるのは、援交のことだろう。
「だから、あのことを告げ口されるんじゃないかって恐れて質問に来れないんだとしたら、そんなことは絶対無いから」
あくまで優しく、諭すような口調の川崎センセ。
私が瀬野に身体を売ろうとしたこと。それをバラされると案じて彼を避けていると、そう思われているのだろうか?
「……違います。川崎センセを疑ってるワケじゃありません」
言いながら、その可能性があることをすっかり忘れていた。
教師である彼は、見た事実、聞いた事実を上司に報告する義務がある。
いくら私が『誰にも言わないでくれ』と訴えたからと言って、それを鵜呑みにして黙秘する必要はないのだ。
でも―――私は最初から、川崎センセの言葉を信用していた。彼が『言わない』と誓ってくれるのなら、きっと『言わない』のだろうと。
川崎センセならきっと、嘘をついたりしない。生徒との約束は守ってくれるに違いない、と思い込んでいた。
つい先刻まで『あらゆる可能性を考えて行動するのは無駄なことじゃない』なんて考えていた私なのに―――……。
辻褄の合わない自分に、私自身が吃驚していた。
「それならいいんだ。もしかしてそれを気にしてるのかなって思ったから」
「…………」
「……水上?」
私はつい口篭ってしまった。
援交のこともそうだけど、私としては非常識な父親やその恋人――更には、二人の情事を見られたことの方が気まずかった。
そして、そんな環境にある私のことを、悪く思われたんじゃないかという不安も……。
「………なあ、水上。もしかして、俺、何か失礼なことでもやらかしたか? 傷つけるようなこと言ったとか」
「い、いえ、そんなことっ!」
私の反応がよくなかったことを気にしてか、悪くもないセンセがすまなそうにそう訊ねたのを慌てて否定する。
「川崎センセは全然、悪くなくて。寧ろ、ごめんなさい、変なところ見せちゃって」
「……変なところ?」
「……うちの父親と、吉川さん。まさか、家であんな――あんなコトになってるとは思わなくて」
自分で言ってても嫌な汗が噴き出てくる。私だってまさか、ああいう恥ずかしい場面に出くわすなんて思ってもみなかったから。
「………ああ、そういう意味か」
「ごめんなさい。あの、それに無理矢理引き止めちゃったりして、センセにはかなりご迷惑をかけたと思うんですけど」
「いや、別にそんな……」
「あの二人、ちょっと変わってて、その、常識破りっていうか、マイペースな人たちなので。だから逆に、センセが不快な思いをしてたらごめんなさい!」
「…………」
センセの言葉を遮るように謝り倒すと、私の勢いに圧倒されたらしい彼が無言になる。
私も、言うことだけ言ってしまったら、何を発していいのか分からなくなってしまい……。
「…………」
この間がいたたまれない。やっぱり、私……ヘンなヤツだって思われてたのかもしれない。
敢えてセンセが避けていたかもしれない話題を自ら言ってしまったことを悔みながら、次の言葉を探していると……。
「もしかして水上は、俺に気を遣ってくれてたのか?」
と、カラッとした明るい声音でそう訊ねた。
「でもな。自分が大変な時に、他人のことなんて考えなくたっていいんだぞ。俺には、よっぽど水上の方が心配だ」
「……私が、心配?」
「ああ。……水上が辛そうだったのは、俺も知ってるし。ホテルから逃げてきたことだってあるだろう」
と、幾分声を潜めてセンセが言った。
パニックして記憶が曖昧だけど、私は先生の前で泣いてしまったんだっけ。
「あ、あのっ、ごめんなさい――そう言えばすっかり取り乱しちゃって……!」
改めて思い出すと、羞恥心で顔が熱くなってくる――センセには見えないのが救いだ。
「だから、謝らなくていいんだって。落ち着け」
顔を見るまでもなく、私の動揺は伝わっていた。クスクスと笑う彼がやんわりと私を制した。
「……水上は本当に偉いんだな。でも、いつも肩肘張ってなくたっていいだろうに」
「…………」
「まだ高校生なんだから、感情が先行するのは当たり前だ。あんまりにも大人びてたら、それはそれで可愛げないぞ」
「センセ……」
「エレベータの中で話してくれたことが本音なんだろ?」
『……ヘンな家って、そう思ったでしょう?』
『高校生の子供がいる父親の癖に、娘とさほど変わらない若い女の人を自宅に連れ込んで、あんなことして……。
それを娘やその先生に気づかれても、恥じるどころか隠そうともしないなんて、どう考えたって変、ですよね』
「あ、あれは、その………」
センセに印象を悪く持たれてしまったかもしれないという落ち込みから、つい口が滑ったというか。
『私、本当は、ちっとも嬉しくないんです。あの二人が結婚するの、本当はすごく迷惑だと思ってて』
『年頃の娘がいるの分かっててああいうコトとか、信じられない……もう、付き合いきれないって言うか』
こういう素の部分っていうのは、自分の中の汚い感情だったりすることが多くて、
みっともないっていうか、はしたないというか――とにかく、他人には晒さない主義だったんだけど。
どうしてかあの瞬間だけは、無性に誰かに吐き出したくなってしまった。
「まぁ、正直、部屋に入った瞬間はビックリしたけど、突然伺った俺を疑いもせず歓迎して下さったし、良い親御さんじゃないか」
「………」
「だから――もし、俺に気兼ねしてるんだったら、その必要は全くないから」
「な?」と、念を押すように、電話越しに笑いかけてくれる川崎センセ。
「……あ、ありがとうございます。私、センセにヘンな風に思われたんじゃないかって、そう思って」
「やっぱりそうだったのか。……さっきも言ったけど、そんなこと全然ないから、心配するな」
センセの言葉で、ふっと心が軽くなった気がした。
この一週間、気にしないようにしようと思っては重たく圧し掛かっていたモノが、今の一言で取り除かれたような。そんなホッとした感覚。
「……今はお父さんの会社の経営だったり、お父さんの再婚だったりで水上も色々と苦労することもあるかもしれないけど……。
あんまり思いつめるなよ。役に立つかはわからないけど、俺でよければ話を聞く位はできるからさ」
「………」
「ほら、お土産も貰っちゃったしな。お返しってことで」
「……ただの林檎が、高くついちゃいましたね」
センセがおどけて言うものだから、私はついつい笑ってしまった。
「でも、ありがとうございます。……センセからそう言って貰えるなんて思ってなくて、気持ちが楽になりました」
「そっか。それなら、思い切って電話を掛けてよかったよ。……水上の受け取り方次第では、俺がストーカー扱いされる可能性もあるからな」
「そんな、ストーカーだなんて!」
「いや、今の世の中、教師の淫行で捕まってるヤツもいっぱいいるし、誤解され兼ねないんだよ。でも、最初に言っておくけど、
俺はそういうつもりは無いし、ただ……水上が他に相談出来る相手がいないならって、そう思ってるだけなんだ」
それだけは誓う、とばかりに、川崎センセははっきりした口調でそう言い切った。
「分かってます。川崎センセはそんな人じゃないって信じてますから」
「それを聞いて安心したよ――じゃあ、そろそろ切るな。『古文2』は来週ノート提出だから、忘れるなよ」
「はい。あの、ありがとうございました。
「ん。……そうそう、気が向いたら林檎のこと、訊いておいてくれよ」
余程気になるらしく、これ重要な、と強調するのがおかしい。
「はい。……じゃあ、失礼します」
私は震える手で電源ボタンを押し、電話を切った。
嬉しくて手が震えるのは初めてだった。まさか、川崎センセが私のことを気に掛けて電話をくれるなんて。
「もうヘンなヤツ確定だ」なんて打ちひしがれていたのが嘘だったかのように、優しい彼の一言で晴れやかな気分になる。
…………。
それに―――。
『……水上は本当に偉いんだな。でも、いつも肩肘張ってなくたっていいだろうに』
『まだ高校生なんだから、感情が先行するのは当たり前だ。あんまりにも大人びてたら、それはそれで可愛げないぞ』
あんなことを言われるのは予想外だった。
周囲の大人は、私が聞き分けの良い、しっかりした子であることに満足していると思っていた。
だから、心の内とは関係なく、常に耳障りの良い言葉や態度で接していればそれでいいのだろうと。
―――やっぱり、最初に思った通りだ。センセは他の大人とは違う。
センセと会話を重ねるたびに、もっと彼と話がしたい、もっと彼を知りたいと思ってしまう。この気持ちは何だろう?
じわじわと頭を擡げたこの感情の正体が分からぬまま。
私は久しぶりに、手につかなかった古文の予習に取り掛かるためテキストを広げた。
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