Scene.6-3
「智栄さん、起きてますか〜? 朝ですよ〜?」
扉の向こうから、ノックとともに吉川さんの声が聞こえてくる。
その甘ったるい響きが煩わしくて、私は無言のまま頭までシーツを被った。
「あの、起きているようでしたら、少しでも何か食べたほうがいいですよぉ」
気休めだけど、彼女の、脳に突き刺さるような声音が幾分和らいだ気がする。
「ここ二日、お部屋に篭って、何も口にしていないでしょう〜? お身体の具合は大丈夫なんですか?」
吉川さんの言うとおり、私は一昨日の夜にホテルから帰宅して以降、ほとんどこの部屋で過ごしている。
心配する父親と吉川さんには、「そっとしておいてほしい」と告げ、部屋の中にも勝手に入ってこないよう、釘を刺したのだ。
「学校には、今日も私から連絡を入れておきましたけど……担任の先生、とても心配されていましたよ。
不調が長引くようなら、お医者さんに行ったほうがいいと思います」
二人とも、普段要求らしい要求をするわけでもない私の申し出をすんなりと受け入れてくれたけれど、
授業の欠席が二日も続けば、流石にそのままというわけにもいかない。
昨日の朝とは違い、深刻そうに訴える吉川さんの様子を感じ、ただでさえ塞いだ気持ちがより憂鬱に落ちていく。
あの夜――三宅たちの裏切りに遭った私は、川崎センセに全てを打ち明けた。
私が援交を斡旋するサークルのトップだったこと。
三宅や鳴沢や神藤が私の手伝いをしていたこと。
更には、男性会員は、父親の会社の顧客名簿から情報を抜き取り集めていたことや、
男性会員に斡旋する女の子は、三宅を使って成陵の女子生徒に声をかけ、勧誘していたことなど。
――全てを、包み隠さず洗いざらい話した。
川崎センセは始終驚いた表橋を浮かべ、言葉を失くしていた。
無理もない。周囲には真面目で通っている私が、成陵に広まる醜聞の一端を担っていたのだから。
次第に青ざめていくセンセの顔を見て、私は自分の恋が終わったことを悟った。
恐ろしい女。とんでもない女。汚らわしい女。
センセの目に、今の私はそんな風に映っているだろうことは明らかだったから。
私とセンセはその後、言葉らしい言葉も交わさないままホテルを出た。
送ってくれるというセンセを振り切り、私は駅の方向へと駆け出したのだった。
「……何かあったら、すぐに教えてくださいね」
吉川さんは諦めて、扉の前から立ち去ったらしい。
私はふうっと息を吐いて、シーツから顔を出した。
真っ白な天井に浮かび上がるのは、川崎センセの顔ばかりだ。
「……バカじゃないの」
ぽつりと零れたのは、自分自身に対する呆れだった。
センセに『Camellia』の存在を明かしてしまったことで、まず真っ先に気に掛けなければならないのは、私自身の立場だ。
正義感溢れる彼は、おそらく『Camellia』のことを黙っていないだろう。じきに、ほかの教員や校長などの耳にも入るに違いない。
ただの援交でさえ大問題なのだ。それが校内の生徒に組織化されて行われていたとなれば、ただでは済まない。
退学で済めばいいけれど、まあ、然るべきところへ送られてしまう可能性も高い。私はもちろん、三宅たちも、売春をしていた女子生徒たちも。
『水上は、自分がやってることの恐ろしさっていうか――そういうの、本当に分かってるのかなって思うときがある』
――今更ながら、私たちは随分と危険な橋を渡っていたんだなあ。
いつか鳴沢が吐いた言葉が、再度胸を貫いた。
私の思いつきではじめたことが、他人の人生までもを狂わせてしまうかもしれない。
ほんの少し前には感じることのなかった恐怖を噛み締める。
その恐怖よりも胸を締め付けるのが――川崎センセだ。
本当に、バカみたい。こんなときでも、彼に嫌われたくないという思いが何よりも優っているなんて。
こんなにもセンセのことを好きになってるなんて、知らなかった。
これまで『Camellia』という組織を立ち上げて、後悔したことは一度もなかった私なのに、
こうなってしまった今、売春斡旋ビジネスに手を染める前まで、時を戻したいとさえ思ってしまう。
センセや、他のみんなの前でそうしていたように、ただの真面目でイイコだった私に、戻りたい。
……そんな願い、通じるはずないのに。
私は賢く生きてやる。衝動や欲望に支配されず、それらを利用してやればいい。
そう息巻いていたころの自分自身が、懐かしくすら感じた。
そして、恥ずかしいと思った。何もわかってなかった自分が、自分本位な自分が、稚拙な自分が。ただ、恥ずかしいと。
気付くのが遅すぎたのだ。
もう、川崎センセにも、三宅たちにも、『Camellia』の女の子たちにも……合わせる顔がなかった。
学校に行けば、嫌が応にも彼らと顔を合わせなくてはならない。
特に三宅や鳴沢は神藤とは同じクラスなのだ。どう頑張っても避けられない。
絶望の淵にいる私を救ってくれるのは睡眠だけだ。
私は、少しでも苦悩から解放されるべく目を閉じて、一秒でも早く、そして長く、眠りの世界に入れるように努めた。
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再び意識が浮上したのは、またしても吉川さんの呼びかけのせいだった。
「智栄さぁん、もう夕方ですよ! 起きてますか?」
朝よりも大きなノックが、耳に痛かった。さきほどそうしたように、頭からすっぽりとシーツを被る。
「お願いですから、返事だけでもしてください。もしかして具合、とっても悪いんじゃないですか?
それならお医者さんに行きましょう。私、夜間診療してくれるところを調べて、一緒に付いて行きますからぁ!」
病院に行ったところでどうにもならない。別に身体がおかしいわけじゃないのだ。
とにかく誰にも会いたくない。放っておいて。
ただそれだけの要求を、どうして守り通してくれないのか。
吉川さんは所詮、ポーズだけだ。『私を心配している』というポーズを取ることで、母親面をしたいだけ。
わかってるけど、今はそんな家族ごっこに付き合う余力がない。
「私も心配で心配で仕方がないんですよ。智栄さん、もう我慢の限界です。ここ、開けますよ?」
「っ……!」
ドアハンドルを握る音が聞こえた瞬間、激しい拒絶が駆け抜ける。
自己嫌悪で頭がどうにかなりそうなときに、煩わしさを倍増させないでほしい。
「――起きてます」
シーツを剥ぎ、ガバッと上半身を起こした私の口から、二日間、誰とも口を利いていないとは思えないほど、はっきりした言葉が出た。
……入ってこないで。
あなたは……吉川さんは、父親の恋人というだけの理由で、私のプライベートに土足で踏み込んできた。
私の立場ではそれを拒むことはできなかったし、そこは仕方ないと甘んじて受け入れた。それで十分でしょ?
――でもこの部屋は。この部屋だけは、私が唯一心を癒せる空間なの。
「……よかった。智栄さん、具合は――」
「そっとしておいてくださいとお願いしたはずです。どうか、もう少しだけ放っておいてください」
ほんの少し安堵した声音が扉の向こう側から聞こえてきた。けれど、私はそれを遮るようにして言った。
「そんな……いくらなんでも、これ以上放っておくなんてできません。体調はどうなんですか? 学校に行けないくらい悪いんですよね?
ご飯だった少しは食べたほうが――」
「お願いですから、放っておいてっ!!」
私は悲鳴にも近い声を上げ、扉に叩きつけるようにして言った。
今だけは。今だけは私に係わらないで。放っておいて。
自分の領域に踏み込まれそうになったのが引き金となり、この二日間、何処にもぶつけることができず溜まりに溜まった苛立ちや苦悩が、吉川さんに向けられる。
もうイイコでいなければとか、冷静にならなければとか、そういう気は回らなかった。
どうせ近いうちに、私や三宅たちがしてきたことが露呈する。そうなれば、父親や吉川さんも事実を知ることになるだろう。
今更取り繕ったところで無意味なのだ。彼女にも媚びる必要なんてない。
「……放っておけるはず、ないじゃないですか」
私の心からの拒絶を聞き、退いてくれるかと思っていたのに。
吉川さんは、この期に及んで、なおも私に構ってくる。
「放っておけません。私は智栄さんが心配なんです。そんな様子のあなたを、なおさら放っておけない。
……ここ、開けますね」
彼女はそう言うと、躊躇いなく私の部屋の扉を開けた。
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