Scene.1-1



「じゃ、真琴ちゃんの成陵採用を祝して、乾杯!」

 向かい合わせに座る芽衣の掛け声と共にカチャン、とグラスの音が二つ重なって、響いた。

「あ、真琴ちゃん、じゃもうダメだよね、『千葉先生』って呼ばないと」

「別にプライベートの時は問題ないでしょ? 何て呼んでも」

「そっか、そうだよね」

 私はクスクスと笑いながらグラスの中の赤紫色をこくんと喉に流し込む。

「このワイン美味しい。当たりだね」

「ホントだね〜、折角のお祝いだもん、奮発してよかった。……真琴ちゃん、本当におめでとう」

「ありがと、芽衣。」

 芽衣は自分の事のように喜んで、私を祝福してくれる。

 良い子だなぁと、芽衣と友達で良かったなぁと……改めて思う。

 
 私は、千葉 真琴(ちば まこと)。

 この春からめでたく私立成陵(せいりょう)高校で家庭科を教えることになり、

 今日はそのお祝いに、親友であり来春からは同僚になる月島 芽衣(つきしま めい)と二人きりで祝っているところ。

 芽衣とは小学校時代からずっと一緒。

 内気な芽衣と、無鉄砲な私の組み合わせは意外とバランスが取れているとは周りの友人の言葉。

 芽衣は大学卒業後直ぐに受けた『私学適性検査』――公立で言う教職採用試験のようなもの――で好成績をとり成陵高校に採用決定。

 一方私は同大学で遊びすぎていたために、一年出遅れるハメに。

 ともあれ1年の差はついたものの、偶然にも同じ成陵の教職員として働ける事になって、私も芽衣も飛び上がるくらい喜んだ。

 人生の半分以上を一緒に生きている私達は、離れている時間の方が少ないんだ――やっぱり芽衣がいないと、何か違う。

「まさか、また芽衣と一緒とはねー」

「ね、真琴ちゃんと一緒なんて、もう運命だよね、なんて」

 芽衣の言葉が可笑しくて、私はまた声を立てて笑う。

「けどほんとに、採用してもらえたこと自体奇跡なんだよねー。今、採用率落ちてるって言うのにさ」

「うちの学校、『埋もれてしまうには有能な若い力』を取るって熱心に語ってたものね〜。此れからは若い先生じゃないとナントカって」

 その言葉を聞いて、確かにと思った。

 右派な感じのなお爺ちゃん教師が世に多い中、うちの校長は結構話がわかる柔軟なオジサン――失礼だけど――だし。

 教育にも熱心で、まだまだ退職は遠いっていう頼もしさを感じる。

「とにかくその校長のお陰で、成陵で働けるわけだしね……そうだ」

 私は傾けていたグラスをテーブルに置いた。

 芽衣もつられた様にコトンと音を立てて、それを同じ場所に下ろす。

「何?真琴ちゃん」

「芽衣は私よりも先輩なんだからさ。学校の事、色々教えてよ」

「学校の事?」

「うん」

 芽衣は唇に指を添えて、うーんと考え込む。

 実際授業の時に解かるのは確かなんだけど、初めての仕事場だし、どんな環境なのかは知っておきたい。

「急に言われても……施設とかは当然知ってるだろうし、他に言う事なんか……あ、そうそう」

「うん?」

「基本的には進学校だから、私達の担当の教科なんかは結構軽視されがちかもしれないね」

「何よそれ、どういうこと?」

「えっとね……実は、去年からも職員会議で出てたんだけど」

 芽衣が説明してくれたことを纏めると、こういう事らしい。

 この私立成陵高校っていうのは学力の養成に凄く力を入れている学校で、全国的に有名な進学校だということ。

 私でさえ、流石に此れくらいは知ってた。でも私が受け持つのは家庭科だからあんまり関係なかったりもするんだけどね。

 けど最近、有名大学への進学率が少しずつ落ちてきていて、それを改善するため、

 来年から芸術系等の、所謂大学入試で実力を問われない教科の授業時間を削り、

 その分国語や数学等の主要教科に回そうという話が進んでいるらしい。

「でもね、私はそれに反対なの。自分の教科が削られるからってだけじゃなくて、

今のカリキュラムを終わらせるのでさえ大変なのよ?」

 音楽科教諭の芽衣は、その話し合いに巻き込まれているらしくウンザリした表情を浮かべる。

「いーじゃない、授業時間が減るんだから。楽できると思えば」

「真琴ちゃんだって被害被るんだよ。家庭科でしょ」

 何となくな科白が口を吐くと、芽衣がすかさず突っ込みを入れた。

「あぁ…それは嫌かも」

「でしょ?カリキュラムキツキツで授業だし、生徒たちにとってもこういう授業、大事だと思うんだよね」

 私は大きく頷いた。

 人間、勉強だけ出来れば良いってもんじゃないっていうのは、何処でも言われていることだ。

 まぁ確かに家庭科だの音楽だのっていうのは入試では絶対役に立たないけど、長い目で見た場合、人生においては必要不可欠だと思う。

「それに実際のところ、美術科の先生と数学科の先生の喧嘩が発端で出た話し合いだって聞くし……公私混同って何だかなぁ、もう。」

「うわぁ、それは酷いね」

「確かに進学校を謳い文句にしてる高校にとって、一理あるんだけど……喧嘩ならプライベートでやって欲しいよね」

 最近の大人は――って人の事言えないけど――ロクなのじゃないとは思ってたけど、

 他人に物を教える立場の教師が分からず屋ってことも有るんだなぁ。凄まじい。

「で、成陵にはそんなアホみたいな教師しか居ない訳? 先行き不安だなぁ」

「そっ、そんなことないよ!!」

 突然、芽衣がぶんぶんと髪を振り乱すように首を振った。

 その過剰な反応に、思わず目を瞠る。

「あっ、ううん……何でもないの、ごめんね」

 訝しげに見詰める私の視線に気がついた芽衣は、顔を茹蛸みたいに赤くしながら俯いてしまう。

 ―――ははーん。

 この反応は、もしかして。

 ピンときた。芽衣がこんな態度をとるような話題なんて一つしかない。

「へぇー?芽衣ってば職場恋愛中なんだ? 彼氏はどんな人?」

「違うよっ、高遠先生は彼氏じゃないもん! ……あっ」

 興奮した芽衣は、聞きたかったことをペロリと喋ってくれた。口を塞いでいるけどもう遅い。

 可笑しくて笑いがこみ上げてくる。

「あはは、芽衣ってば可笑しい〜。そこまで言っちゃったならもう全部話してよー。高遠先生ってどんな人?」

「し、知らないよっ、私そんなこと言ってないもん」

「あれー? 今聞いたけどなぁ〜。高遠先生、高遠先生、高遠先生、高遠先生、たかと」

「も、もういいよっ、い……意地悪だなぁ真琴ちゃん! やめて、言うからやめて」

 流石に名前を連呼されるのは嫌だったのか、少し瞳を潤ませながら芽衣が喚いた。

「た、高遠先生……高遠 怜(たかとお りょう)先生っていうのは、化学科の先生で、優しくて、良い人なの……」

 私はその『高遠先生』の話を聞きながら、顔だけではなく首まで真っ赤に染めながら話す芽衣の顔をじっと見詰めていた。

 くりんとした黒い瞳に、やや丸い鼻、口角が少し上がった薄い唇。

 加えて顎が小さい芽衣は、非常に童顔で、10代でも確実に通りそうだ。

 それを助長しているのが丸いシルエットのボブの髪型で、今時カラーリングもナシ、黒のままっていうのが真面目な芽衣らしい。

「それだけじゃ何にも伝わってこないんだけど…優しいだの良い人だの、全部抽象的じゃない。歳は?」

「に、27」

「へぇ、丁度良いじゃない。身長は?」

「えっと…180近く、あると思う」

「まずまずね。体形は?痩せ型?筋肉質?」

「え、うーん、普通、だけど……どちらかというと、痩せ型、なのかなぁ」

「成る程ねぇ、じゃあ顔は?」

「ま、真琴ちゃん!」

「ん?」

 思いつく限りの質問をぶつけていると、やや声を張って芽衣が制した。

「真琴ちゃん、容姿の事しか訊かないのは何で……?」

「へ?ああ、ごめんごめん」

 そりゃ、私の最大関心事が容姿だったからに他ならないんだけど。

 私的には、なかなか好みな外見かもしれないなぁ等と思いつつ、小さく謝り再び芽衣の話に耳を傾ける。

「私は容姿は如何でも良いの。そんなの抜きにしても高遠先生は良い人なんだもん」

 そう語る芽衣の表情が輝いていて、私には凄く眩しく感じた。

 そっか、今まで気がつかなかったけど……。

 芽衣は可愛くなった。

 元々『顔立ちが幼くてカワイイ』っていうのはあったけど、そうじゃなくて。

 恋愛をしている女性特有の、綺麗さ、強さ、優しさ……全部を兼ね備えた表情。

「じゃあその高遠先生と付き合っちゃえばいいじゃない」

「なっ、ま、真琴ちゃん!?」

 事も無げに私が言ってみせると、芽衣はさっきしたみたいに大袈裟に首を横に振った。

「どうして?芽衣は可愛いし、見込みあるって。高遠先生に恋人とかいるの?」

「そ、それは……居ないみたい、だけど」

「けど何よ?」

「私、自分に自信ないもん。高遠先生につり合う様な人間じゃないよ」

「は?」

「だ、だからいいのっ、付き合えなくても、思っていられれば私は十分だもん」

 もうこれ以上の追及はよしてくれというように、芽衣が両手で顔を覆ってしまう。

 何それ。

 芽衣ったら、全く……昔から、妙に往生際悪いところあるんだから。

 そういう私は、芽衣にとっては思い切り良すぎるのかもしれないけど、欲しいものは獲られる前に獲らなきゃ。

 ……っていうのはちょっと乱暴すぎるって言われちゃう、かな。

 でも諦めるのは勿体無い。折角、同僚っていう一番近いポジションについてるのに。

 ――ん?同僚?

 そうか、その手があった!

「安心しなさい、芽衣。私がその恋実らせてあげる!」

「ええっ!?」

 私だってこれから同僚になるんじゃない!

 超が付くほど内気な芽衣のために、キューピッドになって上げようなんて、いい案でしょ?

 何て親友思いなんだろ、私。自分で自分を褒めちぎっちゃいたいくらい。

「私は本気よ、新学期から頑張りましょうね、芽衣。勝利を誓って、乾杯!」

 かちん。

 私は、テーブルの上の芽衣のグラスに自分のそれを合わせると、残っていたワインを全部飲み干した。