Scene.4-1
私は、ずっと真琴ちゃんのことを親友だと思ってた。
かけがえのない、たった一人の親友。
でも、そうだね。真琴ちゃんが私のことをそう思ってくれてるなんて確証は、何処にもないんだ。
私だけがそう考えてたんだとしたら――なんて私は、愚かなんだろう。
授業と授業の合間……ひょっとしたら授業中も頭のどこかで、真琴ちゃんと高遠先生のことを考えていた。
めずらしく今日は、朝以来真琴ちゃんと顔を合わせる機会がなかったのが、良かったのか悪かったのか……。
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一日の授業がやっと終わった。
音楽室の鍵を閉め、手持ちのバッグから携帯電話を取り出して時間を確認する。
何だかんだで17時近くになってしまったみたいだ。今日は、もう帰ろう。
「あ」
そうだ。明日までに用意しなきゃいけないプリントがあったんだ。
資料、何処にあったかな―――そうだ。
「職員室……」
……あまり気が進まなかった。
真琴ちゃんが其処にいないとも限らないからだ。
けど、直ぐに思い直した。私が意識しすぎているだけで――真琴ちゃんはきっと普段どおりに接してくれるはず。
そんな風に自分に言い聞かせ、私は職員室へと向かった。
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職員室へ向かう少しの時間でさえも、二人の姿が浮かんでは消える。
もう頭がどうにかなってしまいそうだ……考えれば考えるだけ辛いのはわかっているけれど、
二人について何かを考えずにはいられない。
切り離すことが、できない。
『――だからさ、裏切られてたのかもよ?芽衣センセ』
嘘よ。
そんなの、嘘。
直ぐに否定はしてみるけれど、自分で導き出したその答えを私自身が信用できない。
私は、裏切られたの?
真琴ちゃん、教えて。
なんて……自分でそう切り出す勇気もない癖に。
「やぁ……離してっ……―――っ」
収拾のつかない思考回路を持て余していると、廊下の先から女性の声が聞こえた。
それも、普通の話し声じゃない。
苦痛に呻く様な、くぐもった声。
教室の位置関係からして、間違いない。
聞こえる先は、今まさに私が向かおうとしている職員室だった。
扉が少し開いているところを見ると、そこから音が洩れたんだろう。
「………?」
何……?
「……川崎先生でしょうか、ね」
何処かで聞いたことがある声音だった。でも記憶の中のそれとは一致しない。
『あの人』とは違う――何処か、冷淡な響きがある。
けれどももしかして、と思うより先に、次の言葉が紡がれる。
「ということは、そろそろクライマックスということですよ。千葉先生」
「―――――ひ、っ………!!」
「!!」
私の方が声を上げてしまいそうで、慌てて両手で口を塞いだ。
次いで、湿った水音と共に、女性の声がより鮮明に聞こえてくる。
「精々、『彼』じゃないようにと祈るんですね」
「……ぁっ……」
それまであたりまえのように形成されていた世界が、ガラガラと音を立てて崩れようとしているのがわかった。
室内の人たちに感付かれないよう歩調は変えず、其処へと向かう。
職員室の中に居るのは、きっと………。
「ぁ、ああっ!!」
「声、聞こえますよ?」
―――見てはいけない。聞いてはいけないと心臓が警笛のように高鳴る。
でも、確かめずにはいられない。
この目でその予感を断ち切るまでは……。
心の奥深くで、それは叶わないだろうことを感じつつ、薄く開いた扉から、そっと中を覗き込んだ。
「―――――」
其処には予想通り、あの二人がいた。
きゅっと締まった足首にブルーのショーツとストッキングとを纏わせた女性。
その彼女を支配するように、スーツ姿で黒髪の男性が覆い被さっている。
いつもは凛としているはずの彼女の……乱れた衣服。上気した頬。どこか甘ったるい吐息。
そして、優しげで柔和な眼差しをしていたはずの男性は、ノンフレームの眼鏡の奥に猛禽類のような鋭さを滲ませていた。
よく知っているけれども、私の知らない二人の姿。
私の大切な親友と、好きで好きで堪らなかった想い人の――……。
「――――――――ぁああああ!!」
私が聞いたことのない、真琴ちゃんの声。
あまりの衝撃に、倒れてしまいそうだった。
―――偶然とはいえ、こんな場面に通りかかってしまうなんて……。
彼女の一際大きい嬌声を最後に、『行為』は終わったらしい。
これ以上こんな光景を見たくない。そう思って、立ち去ろうとした時。
「……――ど、して……芽衣を、裏切るの……」
着衣の乱れも直さず、荒い呼吸で、不意に真琴ちゃんが訊ねた。
一瞬、私の存在に気づかれたと焦ったけれど、言葉を向けた先は私ではなく高遠先生のようだ。
『私のこと、好きだって言ってくれたの』
朝のやり取りが頭によぎり、私には直ぐに真琴ちゃんの言葉の意味が解った。
彼の答えが知りたくて、視線を向ける。
彼は一瞬、驚いたような表情を浮かべた。彼にはその言葉の意味が解っていないのかもしれない。
そう。私が今朝吐いた嘘を、高遠先生は知らないんだから。
……でもどうして、そんなことを訊いたんだろう?
「―――川崎先生もお戻りにならないみたいですし、俺はこれで」
彼女の質問には答えることなく、スーツのポケットから取り出したハンカチで手を拭うと、
床へ放るような所作でそれを置いた。
「それ、使うと良いですよ。――濡れたままでは気持ちが悪いでしょうから」
高遠先生らしからぬ、吐き捨てるような言い方。
二人がそういう関係なのだとしたら、なおさら冷たい対応に思えた。
『何故?』――と更に疑問符を浮かべていると、高遠先生は迷いなくこちら側の扉へと向かってくる。
いけない、と思ったけれど――
此処で繰り広げられている出来事を受け入れ切れない私は、直ぐに立ち去ることができなかった。
「――――」
「…………」
ガラリ、と引き戸の音がしたかしないか、私と彼は鉢合わせになってしまう。
彼は私を認識して酷く困惑したような表情をしたけれど、それもほんの一瞬。
直ぐに、何も無かったかのように歩き出し、やがてその背は遠くなっていく。
私は、まだ室内に居る真琴ちゃんに気づかれないよう、その背を追った。
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「―――軽蔑したでしょう」
「…………」
夕日が沈む時間帯、シルバーのセダンは成陵の通用門から街へと走り出した。
運転席には大好きな高遠先生。助手席には私。
それが憧れだったはずなのに、もう気持ちが弾んでいた前回とはまるきり状況が変わってしまっていた。
高遠先生は一言そう訊ねると、小さく、長く、息を吐く。
私は答えられなかった。今見た出来事を、咀嚼して考える事ができない。
頭が受け付けようとしなかった。
「自分でも、人間として最低なことをしているのはわかってます」
彼がどんな顔で、どんな感情でそれを告げているのかは解らないのは、私が頑なに俯いている所為だ。
彼の気持ちを察するのが怖い。
これ以上、私の知らない高遠先生が垣間見えてしまうことが、堪らなく恐ろしい。
怯えにも似た気持ちがじわじわと体中を支配する。それから逃れたい一心で、きつく目を閉じた。
「こんなこと、訊くのも野暮ですが……僕が、怖いですか?」
控えめな口調。言葉の端々に、私への気遣いを感じた、気がした。
「……そんなこと、ないです」
「貴女の親友をあんな目に合わせていたのに?」
そう言われて、先程の真琴ちゃんのあられもない姿が瞼の裏に張り付く。
振り切るように、私は彼を見上げた。
「――どうして……あれは、一体っ……どういうことなんですか?真琴ちゃんと高遠先生の関係は――」
「千葉先生に落ち度はありません」
赤信号でブレーキを踏みながら、彼がほんの少し目を伏せた。
「僕の勝手な衝動で、千葉先生を脅迫して関係した。そういうことです」
「!?」
耳が壊れたのかと本気で疑った。
「嘘、ですよね?」
廊下から聞こえた会話内容や、彼から真琴ちゃんへのそっけない態度がリンクして、彼が吐いた言葉を裏付ける。
ついさっきこの目で確認したことなのに、それでも私は否定したかった。
信号が青になり、車はまた前進し始める。
目的地は、私の家。私を送ってくれながら、彼は職員室での出来事を話し始めた。
「前にも、お話したことがあります。僕は残酷な人間だと」
『僕は、貴女がいう程出来た人間なんかじゃありません。卑劣で、非道で――残酷、なんですよ』
確かにその言葉には心当たりがあった。
私が高遠先生に失恋したあの日、どうしても納得がいかなかった台詞。
「千葉先生は本意ではないんです。一方的に僕が彼女にああいう事を繰り返してきた――何度も」
眉間に皺を刻みながら、彼が呟く。
「……いつから、なんですか」
「彼女が着任して間もなくです。彼女が、ラブホテルのパトロールの担当になった時から……」
「そんなに前から……」
血の気が引く思いだった。
……知らなかった。そんなに前から、二人の関係があったなんて。
真琴ちゃんは、そんな素振りも見せなかった。
体調崩したり、少し痩せたなって思ったことはあったけど……でも……。
私の思考はそこで一旦フリーズしてしまった。
その後、家まで送ってもらったけれど、あまりやり取りを鮮明に思い出すことが出来なかった。
憧れの高遠先生との会話に集中できないことなんて、今まで一度たりともなかったのに。
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「もう、わからないよ……」
昨日と同じ、ベッドに突っ伏した体勢でいると、唇から消化しきれない思いが零れ出す。
「高遠先生と真琴ちゃんが……」
職員室で見た光景が嫌でも視界にちらつく。
学校の職員室で、あんな―――無防備な姿で。
耳元で、真琴ちゃんの息遣いや嬌声が再生されて、衝動的に耳を塞いだ。
あんな真琴ちゃんは知らない。私の知ってる真琴ちゃんは、もっと毅然としてて、頼りになって――。
『――――――――ぁああああ!!』
あれじゃまるで……悦んでるみたいじゃない。
「!」
私、何考えてるんだろう……。
あの時真琴ちゃんがもし、悦んでいたとして――
真琴ちゃんと高遠先生が愛し合っているとして――
さっきの高遠先生のカミングアウトが、全部演技だとしたら――
そうよ。高遠先生があんなことするはずない。
もしそうなら、真琴ちゃんはきっと私に相談してくれてるはず。
だって私達は十何年もの付き合いのある親友じゃない。
頼りにならない私だけど、真琴ちゃんならきっと私に助けを求めてきてくれるはずだもの――。
ねぇ、そうでしょう? 真琴ちゃん。
混乱する思考回路を必死に働かせながら、私は涙を流していた。
わからない。
何も信じられない。
『――だからさ、裏切られてたのかもよ?芽衣センセ』
『そうそう、案外最初から真琴センセ、怜のコト横取りする気マンマンだったのかもな、なんて』
いつかの椎名君の言葉が突然頭の中に響いた。
……そうなの?
そんなに高遠先生が好きなの?
私の気持ちさえ捨て置いても構わないほどに、彼のことが好きになったの?
そう思ったら、体の内側から悲しみや当惑とはまったく別の感情が駆け上がってくる。
「ひどいよ……真琴ちゃん」
憤りという名のその感情が、私の内部を満たしていくのにそれほど時間はかからなかった。
真琴ちゃんは、私じゃなくて高遠先生を選んだ。
私を裏切って、高遠先生と―――。
意識すればするほど、私が彼女に対して元々持っていた羨望や劣等感がない交ぜになって、余計に感情が昂ぶる。
真琴ちゃんは平気なのだろうか。
私がこんなに辛い思いをしているのに、何も感じないんだろうか?
それとも、それすら彼女にはどうでもいいことだって言うの?
完全に、負の感情のスパイラルに陥った私には、冷静な判断能力は無く。
翌日の騒動の切欠を作り出すまでに、追い詰められてしまっていた―――。
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