Scene.4-2
「お早う、真琴ちゃん」
「お早う、芽衣」
翌朝の職員室、私は笑顔で真琴ちゃんを迎えていた。
遅刻ギリギリの真琴ちゃんだから、私よりも出勤が遅いことが多い。
真琴ちゃんの方もまた、私に挨拶を返してくれる。
きっと傍から見てみればいつもどおりの、普通の会話。
「今日は何だか天気が良くないね。此処の所、ずっと晴れだったのに」
「そうだね。雨、降るかな」
曇り空が広がる外の景色を気にしているふりをしながら、何でもない風に言ってみる。
そうしたら、やっぱり真琴ちゃんも同じように少しだけ首を傾げて見せた。刹那。
『――――――――ぁああああ!!』
不意に、昨日見てしまったあの光景が頭を過ぎった。
この場所で、職員室で――学校の中なのに、あんな恥ずかしいことをしてた真琴ちゃん。
しかも相手は、あの高遠先生だったなんてね。
私を応援してくれるって言ってたじゃない。
私の恋が実るようにって……。
真琴ちゃんが今、こんなに涼しい顔をしているのが、許せなくなってくる。
「降るかもね、あ、そうだ真琴ちゃん」
でもここで余計なことを言ってはだめ。
重くもたれるような苛立ちを感情の奥底に封じながら、精一杯明るく本題に入った。
「何?」
私はわざと、真琴ちゃんの不安を煽る様に声を潜める。
「あのね……校長先生がね、真琴ちゃんのこと呼んでたの……何か、心当たりある?」
「え?」
真琴ちゃんの綺麗な顔立ちが翳ったのを見逃さなかった。
「今、校長室にいらっしゃったから、行った方がいいよ。何だろうね」
「…………」
「真琴ちゃん?」
「……え?うん、そうだね。何だろう」
心当たりはある。そんな気持ちが手に取るようにわかった。
流石の真琴ちゃんも、昨日のことが校長先生に知られれば危険なことくらい解っているんだと思う。
動揺で、私の言葉に頷く仕草もどこか落ち着かない。
「……じゃ、私行って来るね」
「うん」
少し片手を振って見せて、彼女を見送ったら、自然とため息が洩れた。
罪悪感が全く無いといえば嘘になる。
校長先生に呼ばれた原因を作ったのは、私。
昨夕のうちに高校へ電話をかけて、
『そちらの学校の高遠先生が、千葉先生に淫らな関係を強要しているらしい。教育委員会にも報告しようと思う』
というような主旨で、真琴ちゃんと高遠先生の関係を、高遠先生から告げられた通りに伝えた。
真琴ちゃんよりも遥かに早く高校へと到着していた高遠先生は、既に召集済みのはずだ。
彼の言い分が正しいものなのか偽りなのかは、もう興味がなかった。
元々、この報告は、騒ぎにするようなつもりもなくて、自分の気持ちを昇華したかっただけなのだし。
どちらにしても、真琴ちゃんが私を裏切ったという事実に変わりはないのだから。
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私って、どうかしている。
そんなことは誰に言われるでもなく解っていたことだった。
親友の真琴ちゃんを陥れるような真似をしていることも、承知の上。
でも止められない。
このままじゃ、考えれば考えるだけ、悪いほうへ悪いほうへと気持ちが移っていく。
――――もう限界。
真琴ちゃんも高遠先生も、苦しめばいい。
私が苦しんだ分だけ―――。
2人に対する憤りが増す一方で、ズキンと心が痛む。
そんな私を俯瞰しているもう一人の私が、自分本位にしか考えられない現状を恥じているのかもしれない。
……こうなってしまうのが、もっと辛い。
相反する気持ちの中で鬩ぎ合う私の姿が、滑稽に感じてしまうから。
気がつくと、窓に幾筋か水滴が掛かっている。
どうやら空はいよいよ機嫌を損ねたらしく、雨が降り始めたみたいだった。
その軌跡が昨日流した涙を思わせて、余計気持ちが重たくなる。
「それじゃ急ぐのでお先に」
「あぁ、プリント刷っていかなくちゃいけないんだった。間に合うかな」
授業開始前、窓から振り返れば、周囲の先生方は一限の授業の準備で忙しそうにしていた。
会話の一部をぼんやりと耳にしつつ、段々と人数の減っていく部屋の中を眺めていた。
「月島先生」
「……はい?」
急に声を掛けられて、慌てて正面に意識を戻すと、健康的な肌色が目に飛び込んできた。
川崎先生だった。
「何か考え事でもしてましたか。……一限は空きですか?」
彼は笑みを含ませて、少しからかうように言ってから、そう訊ねる。
「いえ、そういうワケじゃないんですけど……でも、あ、はい。空きです」
「なるほど、始まりはゆっくりがいいですよね。フレックス制とやらがうらやましい限りです」
にこにこと邪気のない笑顔を浮かべてそう言うと、じゃ、と片手を振りながら教材を持って扉へと向かっていった。
その話しぶりだと、川崎先生は一限の授業が多いのかもしれない。
それにしても、私が川崎先生と話す機会なんてあまり無いから、少しビックリしてしまった。
あれ――――でもそういえば。
つい最近、何処かの会話で彼の名前を聞いたような……。
『……川崎先生でしょうか、ね』
『精々、「彼」じゃないようにと祈るんですね』
……昨日の職員室だ。
どうして彼の名前が出てきたんだろう。
あの二人と彼が何か関係あるのかな。
いつだったか、真琴ちゃんが川崎先生のこと好みのタイプだって言ってたことはあったけど……。
思考を巡らせようとして、私は首を振った。
やめよう。それを考えたところで、やっぱり意味はないもの。
真琴ちゃんと高遠先生のことは、紛れも無い真実なんだから。
……何を考えても最終的にはそういう結論になってしまう。
それを当然とも寂しいとも思いながら、私はいつの間にか誰も居なくなった職員室を出て、廊下の窓を覗き込んだ。
雨は徐々に強くなってきている。
今頃真琴ちゃんと高遠先生は、何を話しているんだろう。
どういう気持ちで居るんだろう……。
訳も無く、裏庭の青葉が水滴を弾くのを視界に映していると、一限の予鈴の音がした。
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予鈴が鳴って間もなく、職員室へ足音が近づいてきた。
硬いハイヒールの音――おそらく真琴ちゃんだろうと、そちらを振り返る。
思ったとおり、何処か疲れた様子の彼女が其処に居た。
「真琴ちゃん、次授業あったっけ?」
さっきと同じ。何も知らないそぶりで訊ね、続ける。
「急がないと、1階のクラスなら間に合わないよ?」
「あ……うん」
ほんの少し前に会ったも特別に元気が良いわけではなかったけど、
今は元気どころか憔悴している様子が窺える。
真琴ちゃん自身も、それを隠せないでいるみたいだった。
「どうかしたの、真琴ちゃん。あ、そうだ、校長先生……何だって?」
自分でも、意地悪だと思ったけど。
どんな風に返答するのかが気になって、答えを促した。
「…………」
「真琴ちゃん?」
どうやって答えようか――真琴ちゃんが悩んでいるのがよくわかった。
ねぇ、どうするの? 真琴ちゃん。私に本当のことを話す?
それとも、今までみたいに隠し続けるの?
私は彼女の唇が何を発するのかを冷静に見守りつつ、気持ちの何処かで本当のことを話してくれれば、と祈っていた。
私に包み隠さず、全部本当のことを話してくれれば。
彼女の口から真実を聞けば、無理やりにでも納得できるかもしれないと思ったから――。
「え、っと……共同授業のことで、ちょっと……」
そんな小さな期待は、次の瞬間打ち砕かれた。
校長先生に呼び出されて、事情を聞かれてもなお、誤魔化そうとするの?
こんな状態になっても――隠しきれると思ってるの?
私が、何も知らないって……知られてないって、そう思ってるの?
もう、真琴ちゃんの考えてることが解らない。
解らない。
何も解らないよ!!
「嘘」
私は真琴ちゃんの言い訳を遮る様にして言い放った。
「授業なんて嘘でしょ? ……言えないなら、私が言おうか?」
今までずっと思っていたけど、口に出せなかった言葉が、感情が、次々と溢れて来るのがわかった。
「高遠先生との関係、訊かれたんでしょ?」
真琴ちゃんの瞳が大きく見開かれる。
「まさか本当に……真琴ちゃんと、高遠先生が……なんて」
やっぱり私の言葉は真実を射抜いたようだった。
その証拠に、みるみるうちに真琴ちゃんの顔から血の気が引いていく。
「……め、い……」
弱く掠れる様な声音が響く。
やっぱり、本当なんだ。真琴ちゃんは、高遠先生と―――
職員室の一件で明らかになっていることだけれど、彼女がそれを認めたということがショックでたまらなかった。
「どうして否定してくれないの!?」
気がついたら、私はそう声を荒らげていた。
今まで、必死に隠してたじゃない。私が気づかないのを良いことに……。
どうして?真琴ちゃん。
どうしてよ……?
「信じてたのに………私、真琴ちゃんのこと、信じてたのに」
「芽衣……」
「私のこと、ずっと騙してたの? ―――笑ってたの? 私が些細なことで一喜一憂していたのも」
「…………」
制御できない感情が、次から次へと口から零れては瞼が濡れる。
「何か言ってよ!!」
そう責めても、呆然とした様子で言葉を紡がない真琴ちゃん。
じれったさにぎゅっと拳を握った。
私は全く気持ちが収まらないままに続ける。
「何で高遠先生とあんなこと――しかも、よりによって学校で、職員室で、あんなことしてたの!?」
「ごめん……ごめんなさい―――」
その時の光景が頭を過ぎったのかもしれない。
職員室の話を持ち出すと、真琴ちゃんは辛そうに眉間に皺を刻み、睫を震わせながら呟いた。
けれど、やり取りに引っかかるものを感じたのだろう。
「職員室………?」
怪訝そうに呟きを落とした。
「芽衣、今、職員室って―――え、でも、何で芽衣がそれを………」
私は、真琴ちゃんにそう言われて初めて、自分の失言に気づいた。
職員室の話は、当事者か告発者、それか校長先生しか知らないはず。
それなのに私がそのことを知っているということは、つまり―――
「職員室に電話を掛けたのも……芽衣、なの……?」
「―――――」
反射的に俯いてしまう。
―――真琴ちゃんに、気づかれてしまった。
そう。あの時職員室を通りかかったのは私。
そして、それを校長先生に告げ口したのも私。
真琴ちゃんの同僚であり、親友である私がしでかしたこと――
「どうしてそんなことっ……」
「――――っ………」
真琴ちゃんがそう言いたくなるのは当然かもしれない。
私からの裏切り。
これで私と真琴ちゃんの関係も、跡形もなく壊れてしまうだろう。そう覚悟したとき。
「……センセ達、どしたの?」
ここしばらく、聞き慣れたハスキーボイスが割って入る。
何故か、言い争っていた私達の直ぐ後ろに、居るはずのない彼、椎名君の姿があった。
私たちの空気を察してか、声音は少々控えめな気がした。
泣いている姿を椎名君に見られるのが恥ずかしくて、慌てて頬の涙を拭う。
そんな、生徒の前という意識がきっかけになって、私と真琴ちゃんの間に流れる空気をほんの少し、柔らかく変えていく。
「椎名君、どうしたの?」
まずは真琴ちゃんが、平素を装って訊ねる。
すると、椎名君は何言ってるんだとばかりに顔を顰めながら、
「どうしたも何もねェよ。次の時間、ウチで保育だろ? 教師のクセに、サボってんなよ」
となじるようにに洩らす。
「あ……」
そうだ。真琴ちゃんはこれから授業だったんだ。
私も彼女も解ってはいたけれど、すっかり頭から消えてしまっていた。
「ごめんなさい、今行きます……えっと、芽衣」
慌てた素振りで椎名君に言いながら、改めて私に向き直る。
「……許して欲しい、なんて虫の好いことは言わない。理由は有るにしろ、芽衣が見てしまったことは事実だから」
「…………」
「でもね。私は……芽衣を裏切る気は無かったの。芽衣は大切な親友だもん、本当だよ。これだけは信じて欲しい。
……もう、私の言葉なんて信じられないかもしれないけど。じゃあ……授業、行くね」
ちゃんと、真琴ちゃんの目を見てその台詞を聞くことができなかった。
彼女はそう言い残して、一度職員室の中へと戻ると、教材を抱え廊下の先に消えていった。
「………」
足音が聞こえなくなったのを確認してから、床から顔を上げる。
そこにはまだ椎名君がいた。
真琴ちゃんと教室へ戻ったと思っていたのに……。
私は敢えて教師然として、
「椎名君も戻って」
と短く指示した。
けれど、彼は応じるどころか、何処か冷めた目で私をじっと見つめていた。
「聞こえなかったの?ほら―――」
「サイッテー」
吐息交じりの掠れた声に、心臓を鷲づかみにされた気分だった。
「なっ……」
「今のはナシだろ、どー見たって」
私と真琴ちゃんのやりとりを聞いていたということが窺える台詞。
彼は私から目を逸らすことなくそう言った。
自覚していたことだけど、改めて指摘されると辛い。
私が何も言えないで居ると、椎名君が続ける。
「トモダチなんじゃないの?真琴センセは」
「………」
……そう。真琴ちゃんは私の大切な親友。
なのに私は――その親友に酷いことをしている。
でも――
「……先に裏切ったのは真琴ちゃんなの」
親友の真琴ちゃんは私に嘘をついた。
こんな大それたことをしでかしてなお、収まらない憤りが、私の中には根をはって存在していた。
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