Epilogue



「本当に、本当に申し訳ありませんでした!」

「いや、あの、ですから、もう充分ですので」

 もう何回そうしたか覚えていないほど、私は深々と頭を下げると、

 流石に少しうんざりしたような声音で、高遠先生がそれを制した。

 彼もそう宥めるのは何度目になるのか――もう数えるのも嫌になるくらいだろう。

 幸い、平日夕方のカフェは適度な雑音に包まれていて、私達の会話が他人に筒抜けになることはなく、

 場所もわざわざ隣駅を選んだだけあって、成陵の関係者の顔もなく、私達は余計な気を使うことなく話ができるのだけど、

 だからかこれ以上ヒートアップすると怪しまれそうな私の勢いに、高遠先生も参ってきているのかもしれない。

 小さく息を吐いて、このやり取りを収束すべく、意を決したように私の瞳を見つめた。

「ええと、さっきもお話したんですが、元はと言えば俺が原因なので、月島先生のことを責める資格はないですよ」

「………」

「それに、何度も謝られると、俺も千葉先生や貴女に謝り続けなければいけません――無論そうするつもりではありますが」

 その一言を聞くと、まだまだ溢れ出てきそうな謝罪の言葉をぐっと飲み込んだ。

 私自身がずっとこの調子だと、高遠先生と真琴ちゃんの関係も前進しないのだから。

 二人の気持ちが折角通じ合った今、謝り続けることは彼らの負担になってしまう。

 頭ではわかっているんだけど……。

「それにね、月島先生。俺は貴女に感謝してます」

「感謝、ですか?」

 彼ははい、と頷き、手元のコーヒーカップをソーサーから持ち上げながら、

「一つは、俺の愚行を止めるきっかけを下さったこと、もう一つは、俺の気持ちを彼女に伝えるきっかけを下さったことです」

 そう言うと、ついさっきシュガースティックを五本も入れた甘ーいコーヒーを一口、啜った。

「あのままの関係が続いたら、俺はもう彼女に気持ちを伝えることを諦めていたかもしれないので」

 多くは語ってくれなかったけれど、彼は真琴ちゃんへの気持ちを仕舞い込んでしまおうとしていた。そういうことなんだろう。

 つられるように、私もダージリンティー――私は一本しか砂糖を入れなかったけど――を啜っていると、

「いや。もう一つ、ですね。彼女と俺のことを支持してくださることには、感謝しています」

 笑顔でもあり、申し訳なさそうでもある表情を浮かべながら、今度は彼が深々と頭を下げた。

「いえ、そんな―――正直、まだ寂しい気持ちはありますよ」

 私は紅茶のカップを下ろして軽く手を振り、視線を俯けた。

 あれはまだほんの数日前のことだったけれど、いろいろな事が一度にありすぎて、頭の中で整理がついてない部分もある。

 そんな私の様子に、彼の不安げな視線を感じつつ、

「でもそれはきっと、真琴ちゃんが高遠先生に取られてしまうような、そんな風に勘違いしたせいかなって思うんです」

 その彼の瞳をじっと正面から見つめ返して言った。

「自分でも、子供じゃないんだし、と思うんですけど……今までずっと一緒だった真琴ちゃんが、どんどん離れて行っちゃう気がして。

勿論、私が高遠先生に憧れてた気持ちは本当なんです。けど……きっと私がショックだったのは……」

 私が考えながら、たどたどしい口調で言うのを、彼がそっと制した。

「分っています。千葉先生からも伺いましたよ――千葉先生も、貴女のことをとても大事にしている。

前にも少し言いましたけど、俺はそんな貴女方が羨ましいと思います」

 そう言い、彼が少し眩しそうに微笑った。

 以前感じた、壊れそうな頼りないそれではなく、優しい笑顔。

 ああ、そう――私は高遠先生のこんな顔をずっと見てみたいと思っていたんだ。

 願わくば、彼の隣で、彼のこんな表情をずっと見ていたいと……。

 でも、やっぱり、その相手は私じゃなかった。

 彼の笑顔が変わったのは、きっと、真琴ちゃんと気持ちが繋がり合えたから。

 まだ心の中で燻ぶる気持ちが、やっと吹っ切れそうな気がしたとき。

「――と、そろそろ時間、ですかね」

 高遠先生は腕時計と睨めっこしながら、残りのコーヒーを慌てて飲み干した。

「お急ぎですか?」

「いえ。ちょっと席を替われと煩い奴がいたので」

 その言葉の意味が分らない私を見遣り、苦笑しながら立ち上がる。

「さっきからメールで、隼人が『早く替われ』とせっついてくるんですよ。

うっかり、今日、月島先生とお会いすることを洩らしてしまったら、ストーカーのようにしつこくメールが来るもので」

「し、椎名君が?」

 思わず、動揺で声が裏返る。

「早く帰ってレポートでもやるように言ったのですが、食い下がってきかないんですよ。

迷惑なようなら、もう黙って帰ってしまっても大丈夫なので」

 困ったように肩を竦める彼に、いえ、と首を振った。

「私自身の気持ちを気づかせてくれたのは、椎名君なんです。そういえば、ちゃんとお礼を言ってなかったし――」

 彼の言葉がなかったら、私はまだ、自分の感情という迷宮の中で彷徨い続けていたかもしれない。

 そう思ったら、彼にもちゃんと感謝の言葉を述べるべきだという気持ちになった。

 ――純粋に、彼の顔を見たい。そんな気持ちもあったかもしれない、けど。

「……そうですか。了解しました。では俺はこれで失礼しますね」

「あの、高遠先生」

 頷いて立ち去ろうとする彼を呼び止め、私が言った。

「――本当は、真琴ちゃんにした酷いこと、まだ怒ってるんです」

 振り返りざま、高遠先生が少し表情を強張らせたけれど、私は続けた。

「その分、真琴ちゃんを大切にしてくれたなら……私は高遠先生のこと、応援します。

真琴ちゃんのこと――私の大切な親友のこと、よろしくお願いします!」

 その言葉を聞くと、高遠先生は勿論、と大きく頷いて一礼し、お店を出ていった。

「ふー……」

 私が一番彼に伝えたかったことを告げると、何だか肩の荷が下りた様な安堵を覚えた。

 これでよかった――一息つきながら、再び紅茶を啜っていると、

「怜に何かヘンなコトされてないよな?」

 スッ、と横を通る成陵の制服――着崩したそれを見て、私の心臓は跳ね上がった。

「し、椎名君」

 それを隠すように、慌てて紅茶のカップを下に置く。

 アイスコーヒーか何かを片手にやってきた彼は、ついさっきまで高遠先生が居た正面の席へと腰を下ろした。

「へ、変なことって、あるわけないでしょう?」

「さァ、わかンないじゃン? 仮でもなく犯罪者だかンな、アイツ」

 なんて口を尖らせながらストローの包みをビリビリ破いて、乱暴にグラスへさした。

「そんな大きな声で言わないでよ――」

「ジジツだし。……芽衣センセのコトだから、怜相手だからってドキドキしてるうちに遊ばれちゃうかもよ?」

「遊ばれ……って……」

 もう、そんなことばっかり言って、高遠先生の話だと突っかかるんだから……。

「あれ……?」

「ん?」

 私が不思議そうに首を傾げていると、彼もストローを噛みつつ私へ視線を向ける。

 昔は高遠先生と話すだけでもドキドキしすぎて、心臓が爆発しちゃいそうだったのに……。

 今日はそんなことなくて―――それに。

 私は向かい合う彼へと視線を向けた。

 二つの視線が重なり、私の瞳が彼の姿を捕らえる。

 ――あぁ、まただ。

 真琴ちゃんと喧嘩した後、椎名君に怒られた時。いつかの黒縁眼鏡の男の子が、椎名君だって分った時。

 あの時みたいに、私の鼓動は、彼と視線を絡めただけで速まっていく。

 まるで――高遠先生に恋していた時のように。

 
『怜じゃなく、オレを見てほしい。今はムリでも……いつか』

 案外それは、遠くないことなのかもしれない。

「ううん、なんでもない」

「……ヘンなの」

「それより、椎名君――ありがとう、ね」

 私の不審な仕草に、隠そうともせず眉を顰める彼へ、唐突に告げる。

「……は?」

「椎名君のお陰で、私、いろんなことに気づけたから。ちゃんとお礼が言いたくて」

 そう言うと、彼は面食らったように頭を掻いて、

「……別に」

 と、黙り込んでしまった。

 こういう様子は、学生っぽくて可愛いのに。

「そういえば椎名君は、どうして眼鏡やめちゃったの?」

 不意に、先日の話を思い出して、私が訊ねた。

「んー……」

 椎名君はストローからアイスコーヒーを啜りながら、少し考えて、

「俺、目ェ悪いから、レンズ分厚くて。ダサイからさ」

 確かに、かなりカタブツな印象は与えかねない眼鏡だったことを思い出して、頷いた。

 今は裸眼なところを見ると、コンタクトなんだろうか。

「芽衣センセがメガネ好きって言うなら、メガネに戻してもいーンだけど?」

 オレ、多少怜に似てるし――なんて首傾げながら、意地悪気に訊ねてくる。きっとからかわれているんだ。

 けど、私は落ち着いて、ゆっくりと首を横に振る。

「私は、そのままがいいな――そのままの、椎名君がいい」

 この高鳴る鼓動は――新しい恋への『signal』なのかもしれない、と思った。