Scene1−3




「入院された三橋先生の替わりに、正式にこのクラスを受け持つ事になった月島です」

 体育館からの移動の名残でざわつく生徒達を教卓越しに見詰め、ぺこりと頭を下げた。

 3−C、35人のクラスメイトを前に、緊張してやや声が震える。いけない、しっかりしないと。

「このクラスは昨年度から副担任をしていましたし、授業も受け持っていました。頑張りますので宜しくお願いします」

「はーい」

「こちらこそよろしくお願いしまーす」

 一番前のセンターに座る、ツインテールと活発そうなショートカットの女子生徒達が元気にそう返事をしてくれる。

「芽衣センセでよかった。誰が担任になるんだろうねって心配してたから」

 ツインテールの子が笑いながら言うと、周りの生徒も頷いてくれる。

 この学校の生徒は、若い先生のことを名前で呼ぶみたい。親しみを込めてくれてるのだろう。

 よかった。この反応だと、少なくとも煙たがれてるんじゃないみたい。

「三橋先生みたいには出来ないかもしれないけれど、精一杯やるので、協力してくださいね」

「はーい」

 疎らに明るい返事が返って来る。眺めの良い教卓から見渡すと、言葉にしなくても殆どと言っていい生徒が頷いてくれた。

 うん。どうにか、やっていけそう。

「じゃあ、早速出欠をとりますから、名前を呼ばれたら返事して下さい」

 安堵の息を吐きながら、私は出席簿を開いた。

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「……尾野君、久住君、河野君……」

 私が名前を呼ぶと、教室のあちらこちらから短い返事が返って来る。

 去年に引き続き『副担任』っていう、特に事情が無い限りは現れないような無難なポジションにつくんだと思ってたのに、

 まさか教員生活二年目で、受験生のクラスの担任をするなんて。

 三橋先生の体調が思わしくないとの連絡が入ったのが、今日の始業式から一週間前。

 元々この学校は三年間クラス替えが無い上に、手の空いている先生がいなかったため、私は繰り上がり方式に担任へという流れになった。

 初めての担任で受験生なんて……ああ、不測の事態とはいえ、こんなことだったら前もっていろいろ準備とかしておけばよかった。

 人付き合いは得意な方じゃないのに、生徒と、しかも受験を控えてナーバスになってる3年生ときちんと接していけるか自信ないし……。

「椎名君………椎名君?」

「あ、センセ。椎名はいませんー」

 教室の一番後ろの席に座る男子生徒が、すぐ隣の空いた机を軽く叩いて示す。椎名君の席らしい。

 一番窓際の其処は、始業式である今日唯一の空席だったので目には付いていた。

「椎名君は、お休みかな?」

「さぁ? カナリ朝弱いから、まだ寝てるんじゃないンすか」

「はは、またかよアイツ」

 どうやら椎名君と親しいらしいその男子生徒の声に、周りがゲラゲラと笑い出す。

「……えっと、はい。とりあえず椎名君は遅刻、と」

 名簿の『椎名隼人』の隣に、斜線を入れる。

 三橋先生がたまに愚痴を零していたから何となくは知ってる。椎名君は遅刻魔なのだ。

 幾ら朝に弱くても始業式からいきなり欠席って、どういうことなんだろう。

 椎名君はちょっと他の子たちと違うところがある。

 というのも、成陵はこの辺りでは言わずと知れた進学校で、卒業生の大多数が有名大学に進学している。

 生徒たちは皆そういう目標を掲げているせいか、目立った問題を起こしたりはしない。所謂『良い子』が多い。

 受験のために内申書を気にしているんだろうけど――本当、こういうパターンは、稀なのだ。

 そういえば最近、女子生徒が援助交際をしているっていう噂が出ているみたいだけど、私が思うにそれは興味本位とかじゃなくて、

 受験勉強や周囲の期待のプレッシャーに耐えられなかったりして、心のバランスが崩れているんじゃないかと思う。

 毎日彼女たちと接しているけれど、物事の良し悪しの区別が付かないような子達には見えないし……。

 でもその噂が本当なのだとしたら、当然、すぐに止めるべきだ。傷つくのは彼女たちなんだから。

「センセ、もう椎名着いたらしいでーす」

「え、本当?」

 先程の男子生徒がひらりと手を上げて言った。

 この学校は携帯電話の持ち込みが許可されているから、今の間にメールか何かで連絡をとったんだろう。

 こちらからは見えないけど、彼は下を向いているし。

「なンかー、寝坊したらしーですよ」

 男子生徒の言葉に、やっぱり、というような声が周囲から聞こえてくる。

「来た来た。はやく来いよ椎名ー!」

 彼は立ち上がると開いた窓を覗き込み、丁度真下にいるらしい椎名君にそう呼びかける。

 この教室の窓からは校庭を見渡せる。正門からは校庭を通って入ってくることになるので、彼には椎名くんの姿が見えてるんだろう。

「……椎名君、到着ね」

 私は先ほど遅刻と表記した出席簿の斜線の上に、もう一本線を入れようとして――それが遅刻を意味するマークなのだ――止めた。

 ついでに斜線も消しておくことにする。今日は初日だから多めに見よう。と。

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「つーか、何か用ですか?」

「用があるから呼んだんです。椎名君、そこに座って」

 眉を顰める椎名君を窘めながら、一番前のセンターの席を指差す。

 始業式後のホームルームが済んで、私は椎名君に教室で待っているように言った。

 用っていうのは、去年から三橋先生が気にしていた遅刻回数と授業態度についての指導。

 早いうちにやっておかなければ、との使命感に火がついたのだ。

「……何?」

 怪訝な顔をしながらどかっと椅子に座り込むと、身長が百七十センチ後半だろう彼の視線は急に下がる。

 普段は特別不良っぽかったり怖い雰囲気は無い。

 けど、突然の呼び出しに気分を害したのか不快そうな表情の彼に怯んでいた、百五十六センチの私は、

 見下げられる威圧感のようなものが消えて少しホッとした。

 彼が座ったのを確認すると、私も隣の席に腰掛け、彼と向かい合う。

「分かっているとは思うけど、少し遅刻の回数が多いみたいですね」

 私は資料にと頂いた2年の時の内申書をめくりながら言った。

「このままじゃ受験にも響いてきてしまうし、なるべく早いうちに改善を―――」

「オレ、朝弱いンですよね」

 椎名君は悪びれた様子もなく、面倒そうに茶髪を掻きながら言った。

 私立の割りに成陵は校則が緩い。髪の色はよほど度を過ぎていなければ自由だし、女の子で化粧をしている子も多いし。

 それだけ学校は生徒の事を信頼している。ほとんどの生徒はその信頼に応えていると思う。けど。

 ―――彼は、きっとその『ほとんど』の中には入っていない。

「そうだとしても、やっぱり遅刻はマイナス要素よ。折角、理系科目のレベルが高いのに、それじゃ勿体無いわ」

 調査書の中に記されるそれらの科目の評価に目がいく。

 十段階評価で、数学2B、物理は八。化学に至っては九だった。

 もちろん、これよりいい結果を残している子はいるけど、そういう子達は塾に熱心に通っていたり、休日は自宅でカンヅメしている筈。

 それだけ成陵で安定した成績をとるのは難しい。

「ならセンセが起こしてくれる?」

「え?」

 私はきょとんと彼を見つめる。

「センセが毎朝ベッドの中で起こしてくれンだったら、考えてもいーけど」

「………!」

 予想もしていなかった切り返しに言葉が詰まる。

 ……な、何を言い出すんだろう?

 そんな私の様子を見つめつつ、表情を意地悪に歪めた彼が楽しげに笑った。

「嘘ウソ、ジョーダン。つか、フツー本気にしないって」

「……別に本気になんてしてないけど」

 そう言いながら、恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じる。

 やだ、これじゃ真に受けましたって言ってるみたいなものじゃない。

 高校生の男の子の冗談に狼狽するなんて、情けない。

「顔赤いよ、センセ」

 椎名君は声を立てて笑いながら、向かい合う私の頬へと手を伸ばしてきた。

 反射的にパシリとその手を払う。払ってから、生徒相手に全く余裕の無い自分に気がついた。

「し、椎名君がそういう事言うから悪いんでしょう? えーと、とにかく、遅刻と授業態度については……」

「芽衣センセってさー」

 私が必死に生活指導をしようとしているのに、彼はそんなの関係ない風に、椅子の背もたれへ寄り掛かりながら遮る。

「ずっと前から思ってたンだけど」

「……?」

「男に免疫なさそうだよね」

 ぐさっと胸に何かが刺さった。ような、気がした。

 彼は叩かれた手をワザとらしく擦りながら、「違う?」と視線で問うてくる。

 私は咄嗟に答えを返すことができなかった。

 今の彼の言葉は―――まさに、その通りだったから。

「あ、やっぱり?」

 私の反応に確信を得たらしく、椎名君は言いながら納得したように数度頷いてみせる。

「じゃあ、誰かと付き合ったことないワケ?」

「………」

「ノーコメント? じゃあ、キスしたことは?」

「……!!」

「それもノーコメント? なら、セッ―――」

「椎名君!!!」

 続く言葉を掻き消すように、自分でも吃驚するくらいの大きな声が教室中に反響した。

 彼は、眉間に皺を刻みながら方耳を塞ぐ。

「うッせェなー……」

「い、いい加減にして! 私は、そういう事を話したいわけじゃないわ」

「ンじゃ何?」

「生活指導です! このままじゃ、本当に進路に響いちゃうでしょう」

 彼のペースに巻き込まれるわけにはいかない、と、自分に言い聞かせながら強く言い放つ。

「別に」

「別にって、大学には行くつもりなんでしょう?」

 椎名君は他人事のように興味なさげな言葉を返すと、話の終わらないうちに席を立った。

「別にオレ、大学とかどうでもイイからさ。放っておいて」

「ちょっ……」

「バイバイ、芽衣センセ。また明日」

「椎名君!」

 彼はそう言って、緩慢な靴音をたてながら教室から出て行ってしまった。

 取り残された私は大きく溜息を吐く。

 三橋先生が手を焼いていた理由が解かった様な気がした。

 椎名君は私が一番苦手なタイプの生徒なのかもしれない。

 何処か他人を揶揄するように眇める視線、口調。それに―――。


 『男に免疫なさそうだよね』

 『じゃあ、誰かと付き合ったことないワケ?』

 
頭の中で彼の言葉が再生されると、胸の中が真っ黒いモヤモヤしたものでいっぱいになる。

 
……言い返せない。その通りだもの。

 だって仕方ないじゃない、そういう環境で育ってきたんだだから

 でも、どうしてそれを椎名君に指摘されなければならないの?

 数多いコンプレックスの1つを突付かれて、私は凄く嫌な気分になった。

「………」

 いや、でもこれくらいで腹を立ててる場合じゃない。

 私は椎名君の担任なんだから、寧ろ

 
『別にオレ、大学とかどうでもイイからさ。放っておいて』

 
こっちの方を気にしなきゃ。どうでもいいなんて言われても、放っておけない。

 名の知れた進学校である成陵は、卒業生の98%以上が大学進学を希望する。

 この値は他高校にも類を見ない。つまり、ほぼ全ての生徒が大学を見据えて我が校に入学してくる。

 それなのに。

 『大学とかどうでもイイからさ』

 彼の人生に関わることだもの。彼自身のために、どうにかして考えてもらおう。

 そう、私は彼の担任になったんだから。

 私は真っ黒いモヤを吐き出すように一度深呼吸をしてから、もう直ぐ始まるだろう職員会議のために立ち上がった。

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「……免疫が無くたって、いいじゃない」

「え? 芽衣、何か言った?」

「ううん、何でもない。気にしないで、真琴ちゃん」

 私は茹で上がったパスタの入った鍋の火を止めながら首を振った。

 職員会議の後、私は真琴ちゃんの家に遊びに行っていた。

 就職したことで家を出た真琴ちゃんは独りに慣れないらしく、夜になるとよく私を誘ってくれる。

「それにしてもさ、高遠先生って凄いんだね」

 ベッドでアザラシみたいにごろごろしながら、真琴ちゃんが言った。

「でしょ? 真琴ちゃん、私の気持ち解かってくれた??」

「うん、まぁね」

 今日の職員会議でも、高遠先生ってば流石だったなぁ。やっぱり、憧れる。

 いつも仲が悪いことで有名な山内先生と結城先生のケンカを宥めて、会議の進行をスムーズにしてくれた。

 本当、頼りになるんだから。

 私はパスタを鍋から上げて、いよいよ調理に入ることにした。

「真琴ちゃん、オリーブオイルどこ?」

「んー、コンロの下の戸棚開いたとこにあるよー」

「んもう、真琴ちゃんてば、家庭科の先生なら作ってくれたっていいのに〜…私、そんなに上手くないんだからね」

 真琴ちゃんの作るゴハンは美味しい。

 だから今日も食べられると思ってワクワクしてたのに、ジャンケンで負けちゃって、私が作ることになった。もったいなかったな。

「いーじゃない、作ってよ。楽しみにしてるからさぁ〜」

 真琴ちゃんは他人に頼みごとをするとき、こういう、あからさまな猫なで声を出す。

「不味くてもしらないからね〜?」

 戸棚から出したオリーブオイルをフライパンにひいて、ガーリックとタカの爪を入れる。

 メニューをペペロンチーノに決めたのは、パスタならきっと失敗しないで作れると思ったから。

 ガーリックの香りがオリーブオイルに移ったところで、フライパンの中にパスタを混ぜた。

 あーあ……それにしても。

 椎名君に言われた言葉を引きずってる自分が情けない。

 確かに、確かにね、24歳にもなって男の人が苦手とか言ってる場合じゃない。そんな人、なかなかいないよ。

 現に真琴ちゃんだって……今は居ないみたいだけど、学生時代にそれなりに恋愛はしていたみたいだったし。

 気にはしていたけど改めて注目してしまったら、彼の言葉は頭の中でぐるぐる回り続けた。

「そうそう、それで高遠先生だけどさー」

 思い出した風に真琴ちゃんが続けた。

「――なかなかカッコよかったし、ホント、私、芽衣との仲応援するからさ」

「え? あぁ……うん」

 その言葉にちくんと胸が痛む。

 高遠先生。

 高遠先生は、私みたいにオクテな人間と付き合いたいって思うだろうか?

 ……そんなこと、ありえないよね。

「そうしてくれるのは嬉しいけど……」

 溜息と共に、語尾が淀む。

「けど何よ? まだ『私と高遠先生じゃつり合わない〜』とかそんなこと言うつもり?」

「だ、だって……」
 
 「呆れた」と真琴ちゃんの口調が荒くなり、私は言い訳みたく言葉を繋いだ。

「ほ、本当のことじゃない。真琴ちゃんの方がよっぽど似合うよ」

「ちょっと、どーしてそこで私が引き合いに出されるのよ?」

 それが良くなかったらしく、真琴ちゃんはわざわざキッチンまでやってくる。

 調理をする私の後ろ、動作はアザラシのままのそのそと手のひらを床につけて。

「高遠先生は、私なんかより大人っぽい真琴ちゃんの方が絶対好みだと思うもん。」

 もし私が高遠先生だったら、間違いなく私より真琴ちゃんを選ぶと思う。美人だし、社交的だし、明るいし。

 きっと、私と一緒に居るよりも、真琴ちゃんと一緒に居た方が楽しいと思うから。

 『男に免疫なさそうだよね』

 『じゃあ、誰かと付き合ったことないワケ?』


 ……それに。どうせ私は恋愛経験なんてないし。私と一緒にいたってつまらない。

「だから……」

「あー、もう、また始まった!」

 真琴ちゃんはウンザリした様子で言い放つと、付いていた両手を離して正座した。

 そして大きく息を吸い込んだと思うと、

「高遠先生はあんなに人間できてるんだから大丈夫。そりゃあ付き合ってくれるとは百パーセント言い切れないけど、
 
でも芽衣が好きだって言ったら絶対喜んでくれるに決まってる! 保障するよ。芽衣は良い子だもん」

 ハッキリキッパリと一息で言い切った。そして、ニコッと笑顔を浮かべた。

「真琴ちゃん……」

「本当本当! さ、出来たなら食べよう? 私、お腹すいちゃった!」

 真琴ちゃんは立ち上がると、出来上がったフライパンのパスタを覗き込んで言った。

 ――いつもこうやって、悲観的になる私を励ましてくれる真琴ちゃん。そんな彼女にずっと助けられてきた。

 私には、掛け替えのない、こんな素敵な友達がいる。無条件に私を信頼してくれている親友が。

 それは私のコンプレックスを埋めてくれるものであり、簡単に得ることの出来ない大切な財産なんじゃないか。

 そう思うと、自分にも誇れるものがあるような気がして、少し落ち着くことができた。

 ありがとう、真琴ちゃん。

「うん、今お皿用意するから待ってて」

 お腹をすかせた親友に振り向いて、私もにっこりと微笑んだ。