Scene2−1
初恋は小学一年の時に、初めて隣の席になった男の子。勇気が無くて一言も話せないまま終わってしまった。
次の恋は六年生の時だったけど、真琴ちゃんも同じ人が好きだって知って、誰にも言わずに諦めた。
その次は中学2年。同じクラスの学級委員長。
この頃になると私はかなり消極的になり、思いを伝えようなんて選択肢が取れるはずもなく。
それからは誰かを好きになることにすら、臆病になっていった。
だって悲しいじゃない。報われない片思いほど、辛く淋しいモノってないもの。
好きになれば、ほんの〇.一ミリくらいは期待してしまう。
相手が私を好きになってくれるかもしれないっていう、空しい期待。
なら最初から、好きな人なんて作らなければいい。私も、相手も、嫌な思いをしなくて済む。
……って、自分に言い聞かせてみても、何かが満たされなかった。
ノートに垂らした黒インクみたいに、空虚はどんどん心に染みて広がっていく。
高遠先生に出会ったのは、そんな気持ちに戸惑いを覚えた頃だった―――。
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「はぁー……」
私は自分の部屋のベッドの上で、寝返りをうった。
こうして振り返ってみると、やっぱりイライラしてしまう。私って、何て内気で、気が小さいんだろう。
結局私は自分が傷つきたくないだけなんだ。
好きな人に思いを伝えて、拒否されるのが恐い。それは何となく気が付いていた。
拒否されてしまったら、私はきっと自分を責めて、それこそ地の果てまで沈むんじゃないかってくらい落ち込んでしまう。
「………それも結局、自信がないから、か」
同じことだ。やっぱり、自分が傷つくのが嫌なだけ。もう情けないったら……。
『安心しなさい、芽衣。私がその恋実らせてあげる!』
いつかの真琴ちゃんの台詞を思い出した。
最初は、「そんなことしなくていい!」って思ってたけど、今は逆。
私の性格を見越して肩を押してくれた真琴ちゃんに、感謝の気持ちでいっぱいになる。
高遠先生が好き。別にそう思っていたって良いじゃないって、少しずつだけど考えられるようになったから。
「大丈夫かなぁ、真琴ちゃん……」
ふと。苦しげな表情が頭を過ぎって、ぽつりと呟きが零れる。
今日、職員室で真琴ちゃんが倒れた。
あんなに調子が悪そうな真琴ちゃんは見たこと無くて、私は体中の血の気が引いていくようだった。
体が弱いなんて聞かないし、学生時代も病欠はゼロに等しかった――サボりはあったみたいだけど――から、吃驚しちゃって……。
新学期が始まって約1ヶ月。やっぱり、初めての教師生活は負担なのかな。私も去年はそうだったもの。
一応マンションまで送ったけど、明日、ちゃんと学校に来れるかな。心配。
早く真琴ちゃんの具合が良くなりますように。
「はぁ………」
二度目の溜息が洩れる。
幾ら不安だからって、体調の悪い真琴ちゃんに相談事なんてするんじゃなかった。余計な心配させちゃったかな。
どうしてそういう所に気が回らなかったんだろう。今更申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
『椎名君って芽衣のクラスなんでしょ? 接する機会が多い分、授業だってやりやすいよ。平気平気』
真琴ちゃんからのアドバイスはもっともかも知れないけど……上手くいくかなぁ。
私は小さく唸りながら、もう一度寝返りをうつ。そして、三度目の溜息を吐き出した。
―――椎名君と個人授業なんて、困った事になってしまった。
成陵高校の特徴の一つに『三年自由選択授業』というものがあって、必修科目以外は自分の好きな授業を取ることができる。
解かりやすく言うと、オリジナルの時間割を作るっていうか……一足早く大学の授業形態を体験するって感じなのかもしれない。
私の教える音楽科で開講予定なのは、『音楽3』の授業。
進学校の成陵では、毎年二〜五人の生徒が履修しているらしい。ちなみに去年は二人だった。
その子達は音大志望だったり、将来そっちの道に進みたいっていうパターンが多い。
私もなるべくそんな要望に答えられる様な授業作りを目指していたのだけど。
………まさか、希望者が椎名君だけだなんて。
人数はまぁ予想の範囲内だったから、それに対する驚きはなかったけれど、椎名君っていうのが何だか……。
だって椎名君が音楽方面の進路だなんて聞いてないし、進学に興味ないとすら言っていた。
二年の時の音楽は、欠席もなく出ていたみたいだけれど……。
――あれ、そういえば、二年のころの椎名くんの印象って、覚えてないなあ。
遅刻が目立つし、意識しない生徒じゃないはずなんだけど。……うーん。不思議。
それより、何で音楽なんだろう。彼は、何がしたいんだろう。
…………。
……。
もう、考えたって結論なんか出ない、か。
明日、履修の登録内容を確認するために椎名君を呼び出したし、その時きちんと聞こう。
天井の蛍光灯を見詰めながら、無意識に口元がへの字になってしまっていた。一度深呼吸をして、体の力を抜いてみる。
ただ履修したいだけなら、それでいいじゃない。悩めば悩むほど、自分が滑稽に思えてくる。
他の生徒だったらこんなに考え込んだりしなかった。きっと、相手が椎名君だから……身構えてしまうのかな。
正直言うと、相変わらず彼が苦手。接し方がイマイチよく解からなかったりする。
でも担任だからしつこく生活指導を続けているけど、その度にはぐらかされてしまって。
からかわれているんだろうな。あぁ、馬鹿みたい。
彼の、唇の端をつり上げる様な皮肉った笑いが目に浮かぶようだ。その姿を消すようにぎゅっと目を瞑る。
せめてあの意地悪でキワどい冗談をサラっと流せるようになりたいよ―――。
眠りに落ちる瞬間まで、不安な気持ちはどうしても消えなかった。
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「じゃあ、次回はグループごとに合唱のテストをします。少し延びてしまってごめんなさい、今回はこれで終わりますね」
次の日、一時間目の授業終了を告げると、私は急いで音楽室の扉を開け出て行く。
四階から三階まで、ハイヒールの音を響かせ一気に階段を駆け下りると、約束した進路指導室まで真っ直ぐ廊下を走り抜けた。
今日はグループ合唱の他にもビデオ見たりとかしなきゃならなくて、ついつい授業が長引いてしまった。
まさかとは思うけど、椎名君ったら教室に戻ったりとかしてないかな。ううん、彼なら有りうる。あとで、
『だって遅いから、来ないかと思って戻っちゃった』
とか言われないように、急がなきゃ。
短い距離でも全力で走れば息が切れる。指導室の扉の前に来たときには、もう肩が大きく上下している状態だった。
「……………」
あれ? 何だか、扉の隙間から話し声が聞こえる。
おかしいな、私は椎名君しか呼んでない筈なんだけど……他の先生か誰かが使ってるのかな?
私は息を整えながら、ゆっくりと二回ノックをした。そして
「失礼します」
と断りを入れてから、扉を開ける。
「あ、芽衣センセ」
「ごめんなさい、ちょっと授業が延びて――……」
入り口側に立つ椎名君が此方へ振り返る。その彼にお詫びの言葉を紡いだその時。
彼の向こう側に立つもう1人の男性に気が付いて、一瞬言葉が途切れる。
「どうも、月島先生」
「高遠先生……」
私はつくづくわかり易い性格だと思う。頭がぽーっと熱くなってくるのが解かる。
最初から居るとわかっていれば大丈夫なんだけど、不意打ちっていうか突然出会うと心の準備ができなくて、直ぐ顔に出てしまうんだよね。
本格的に赤くなる前に、自然な会話をしなきゃ……あ。そうだ。
「昨日は……まこ――、いえ、千葉先生の事でお世話になりました、ありがとうございます」
「いえ、たまたま近くに居ただけですし。保健室まで運んだだけですから」
まだ昨日のお礼を言ってなかったんだっけ。私が腰を折ってそう言うと、高遠先生はいえ、と軽く手を振った。
高遠先生は昨日倒れた真琴ちゃんを気遣って、保健室まで連れて行ってくれた。
やっぱり、高遠先生って優しいんだなぁと再確認。
真琴ちゃんの様子を凄く心配してるのが見てるだけでも伝わってきて、思わず真琴ちゃんになりたいなとすら思った。不謹慎だけど……。
「此処、お使いになるんですか?」
「あ、いえ。もう用事は済みました。僕はこれで失礼します」
高遠先生は軽く頭を下げると、足早に私の横をすり抜けて廊下へと出て行ってしまった。
まるでこの場から逃げるみたいにも見えたんだけど、そんな筈は無いだろうから……急いでたのかな。少し残念な気がした。
「遅かったね、芽衣センセ」
椎名君は高遠先生が去っていくのを見届けると、かくんと首を傾げて訊ねた。
残念なんて思ってる場合じゃなかった。私も仕事しなきゃ、仕事。
「あ、ごめんなさいね。授業が長引いちゃって」
「フーン、そ」
彼は一度頷いて、部屋の中央にある木製の折りたたみテーブルまで戻り、向かい合わせに二つある椅子のうち片方に腰掛けた。
その動作を追うように、私は逆側へと移動し、空いているもう一つの椅子に座った。
「で、今日も生活指導?」
「今日は進路指導です」
小さく首を振ると、彼は机に頬を押し付けるようにして突っ伏す。多分、面倒くさいなっていう意思表示なんだろうけど、構わず続けた。
「音楽3を選択しているようですけど……あの、登録上のミスとかじゃないですよね?」
多分これが一番有り得る線だと思った。んだけど……。
「違うよ。ちゃんと取った」
あっさりと否定が帰ってきた。それがどうしたんだと言わんばかりに顔を上げ、私をじっと見つめる。
「……そ、そう」
「まさか、ソレ確かめるために呼び出したワケ?」
彼は鼻で笑いながらそう訊ねる。だ、だって……解からなかったんだもん。
何となくそうだと頷けなくて、私は首を横に振る。
「今年は履修者が椎名君しかいないから……授業の組み方を相談したくて」
「授業の組み方って?」
「だから、もし音大とか狙ってるんだったらそのために―――」
詳しい説明に入ろうとしたところで、椎名君が目の前で突然、可笑しそうにケラケラと笑い出す。
…………?
「な、何?」
「芽衣センセさ。オレが音大目指してるように見える?」
「……それは」
見えるはずがなかった。うん、どう工夫して見ようとしても、彼にそんな素振りは感じられない。
でも、だからって、
『音大に行く気無いんでしょ? なら何でこの授業をとるの?』
なんて訊ける筈もないじゃない。私は困惑して口篭る。
その表情で私の言いたいことを察したらしい、彼の口から答えが紡がれる。
「ただの気まぐれ。このコマ余っちゃってさ、ラクに単位取れるヤツ探してたんだ」
『ラクに単位がとれるヤツ』
た、確かに音楽は実技が多いけど……何か嫌な感じがする。
そのラクに単位が取れる教科の教師に、面と向かって言う台詞じゃないでしょう。
「だからさ、授業はテキトーでいいから」
「テキトーって……そういうわけにはいかないわ」
流石に、弱気な私もその台詞に頷くことができなかった。
相手が誰であろうと、私は音楽教師なんだからそれなりの授業はやらせて欲しい。
「じゃ、センセに任せる。そういうコトでいい?」
「……え、ええ」
それくらいなら、彼なりの譲歩として認めてしまっても言いと思うあたり、やっぱり弱気な私らしい。
仕方ないよね。授業方針からもめて居たんじゃ身が持たないもの。この手の男子生徒が怒ったら途轍もなく怖そうだ。
「よし、キマリ、な」
そう言うと、彼がにっこりと微笑った。その唇が綺麗な弧を描く。
もしかしたら、こんな揶揄の無い笑いを見たのは初めてなのかもしれない。
………。
あれ、ちょっと不思議な感じがするのは何でだろう。
初めて、じゃないのかな。まるで何度も目にしたことがあるような……。
うーん……?
「何? オレの顔ヘン?」
あまりに私が凝視するものだから、彼は少し不快そうに眉間に皺を刻んだ。
「え、ううん、ぼーっとしてて……ごめんなさい」
私は急いでぶんぶんと手を振ると、素直に謝る。
きっと昔のクラスメイトに似てるとか、そんなのだ。昔の記憶って結構覚えているものだし。
「そう言えばさ」
「何?」
私の態度のことなどすっかり頭から抜けたらしい椎名君は、ふと思い出したように顎を撫でながら言った。
「真琴センセ、どうかしたの?」
「え?」
「昨日、お世話になったとかって」
ああ。そっか、生徒たちは真琴ちゃんが倒れたのを知らないんだっけ。
あの後、授業はちゃんとこなしてたみたいだし。保健室に行ったのは、授業中だったものね。
「昨日、ちょっと職員室で倒れたんだけど、それで高遠先生に保健室まで連れて行ってもらったの」
「フーン。でも、今日ガッコに来てたよね」
「真琴ちゃんが?」
「うん」
そっか、真琴ちゃん、どうにか学校には来れたんだ。
大事に至らなくて本当に良かった。私はホッと胸を撫で下ろす。
「さっきまでココで高遠と二人、何かコソコソしてたけど」
続く椎名君の言葉が放たれたと同時、僅かだけれどその胸に今度は痛みを感じた。
「コソコソ、してた?」
「ンー、なンかアヤシイ感じだった。恋人ってフンイキ?」
―――――。
「……まさか、そんなことは無いから大丈夫よ」
昨日、真琴ちゃんを家に送って話をしたもの。それは無いはず。
真琴ちゃんは古文の川崎先生に興味があるって言ってたし。何より私の気持ち、知ってるから。
私の事を応援してくれてるんだもの。
「もしかして真琴センセってカレシ持ちとか?」
「違うけど、好きな人がいるみたいよ」
相手の名前は伏せたけれど、私と真琴ちゃんの関係を知っている椎名君には信憑性があったみたいだ。つまらなそうに頷いた。
心配する必要なんて無い。真琴ちゃんと高遠先生が付き合ってるなんて、ただの椎名君の勘違い。
………でも。
椎名君には笑いさえ交えて否定した言葉に、何処か自信が無かった。
真琴ちゃんを信用していないわけではないし、椎名君の言葉を鵜呑みにしてるわけでもない。
きっと、心の中に棲む卑屈で悲観的な『私』が怯えている。ただそれだけ。
「で、芽衣センセは?」
「え? きゃっ!」
いつの間にか、身を乗り出すみたいに顔を寄せた椎名君が、視界にアップで映っている。
えぇ? 何? ち、近いっ――
驚いた私は反射的に後ろに退こうとするけど、がしっと両肩を掴まれて叶わない。
「答えないと放してあげないー。芽衣センセは?」
唇同士が触れそうな程の至近距離で彼の吐息が囁きかける。
随分勝手なことを言う。とにかく放して!
誰かと、しかも生徒とはいえ男の人とこんな風に接するのなんか初めてだから、心臓が壊れそうなくらい脈打ってるのが解かる。
これ絶対、椎名君に聞こえてるよ! ……動揺する自分が恥ずかしい。
「な、何が?」
「センセは恋人いる?―――ホラ、目ェ逸らさないでって」
彼そう訊ねながら、肩を掴む力をやや強める。少し痛みを感じて、すっかり泳いでいた視線を彼のそれと交わらせる。
くっきり見えているのにぼやけてるような、変な感じ。
―――だから、近いよ! 顔が! お願いだから、見詰めないで。
「そんなの……どうでもいいじゃない!」
「訊いたら面白そうじゃん」
「わ、私は面白くないっ」
すっかり裏返ってしまっている私の声を聞けば、恋人が居ないどころか、男性とは縁遠いって直ぐに解かると思う。
それなのにわざわざ訊いてくるってことは、やっぱり私をからかってるんだ。
悔しい。悔しいけど、反論できない……極々目の前の皮肉った笑顔が、いつもの3倍くらい憎らしく見える。
「え、面白いよ、絶対」
そう言うと、彼は片手を肩から外し、そっと私の顎を持ち上げるように掴んだ。
!!
「ちょっと、待っ―――」
このまま唇が重なってしまうのではないかと危惧した瞬間、二時間目の開始を知らせるチャイムが部屋に響いた。
「あ、オレ、次授業だ」
何事もなかったかのように、彼はさっぱりと私を解放して、椅子から立ち上がった。そして、
「じゃ、音楽のことよろしくね?」
なんて、ちゃんと話の本題を最後に押えながら、そのまま教室へと戻って行ってしまった。
他の生徒のとは一足送れて、彼のサンダル履きにした上履きの音が廊下を歩いていく。
「…………」
私はというと、暫くの間固まってしまい、次の授業に遅刻してしまった。
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