Scene2−3



「しい……なく……」

 きちんと呼べずに彼の名が掠れる。

 怯える私を気にも留めず、椎名君は私の白いブラウスのボタンに手を掛けた。

 その手を払おうとするけど、あまりのショックに私の手は思うように動いてくれなかった。

 為されるがまま。視線だけを動作一つ一つに絡み付ける。

「好きなヤツだと思えばいいじゃん。目ェ閉じてれば?」

「………っ」

 彼の唇から放たれる冷たい言葉に、ぴしゃりと頬を叩かれたような気がした。

「そンなに自分がヤられるトコ見てたいなら、別にいーけど」

 私の絶望的な表情を見て、彼は笑い声すら洩らしながら言う。

 そして、三つ目のボタンまで外したブラウスの中に手を差し込んで、下着越しに胸へと触れた。

「や、めて……」

 辛うじて、拒否の言葉だけは口にすることができた。

 おかしいよ。

 どうしてそんな酷いことが言えるの。

 どうしてこんな酷いことをするの。

 本当は叫びたい気持ちでいっぱいだったけれど、怒りよりも恐怖の比重が大きくて、呟き程度の声にしかならない。

「いーだろ。センセも楽しめばさ。誰にも言わないし」

 胸に触れた手は、ゆっくりと膨らみを掴むようにやわやわと揉みしだいている。

 ……慣れてるんだ。こういうの。

「っや……だ……」

「そのうち気持ち良くなるよ」

 彼の言葉に反し、その行為は私に不快感しか与えなかった。

 ――気持ち良くなんかなるはずない。だって、こんなに怖いのに。

 自分の生徒が怖いなんて、情けなかった。情けなかったけど、

 男性に対する免疫の無い自分に、彼の起こした行動はあまりにも辛かった。

 それだけは飽きたらず、いとも簡単に背中へと手を回しブラのホックを外してしまう。

「センセ、思ってたよりもスタイル良いじゃん」

 邪魔の無くなった胸元から、腹部のラインまでさあっと撫でながら彼が言った。

 そして、私が逃げられないように片腕で押えながら、ゆっくりと首筋へと口付ける。

「あ……」

 軽く吸い上げられると、チリっとした痛みが走る。

 洩らした声を聞きつけた彼が、見上げるような視線を送ってくる。

 そして、ニッと勝ち誇った微笑を浮かべた。

「センセ、ショジョなんでしょ?」

「…………」

 確信を帯びた物言い。

 ほんの少しだけある自尊心を傷つけられた苛立ちはあったものの、気が動転していた所為もあり、何も答えることができなかった。

「優しくしてやるからさ。暴れンなよ?」

 密やかで、吐息混じりの掠れた声。

 唯一働いていた思考回路が、その言葉の意味に警笛を鳴らす。

 彼は、この先を続けるつもりなんだ。

 多分。ううん、絶対に。

 駄目――――そんなの、駄目。

 このままじゃいけない!

 これ以上は、絶対にいけない!!

「やあ……っ!!」
 
 やっと、凍ってしまっていた抵抗心を取り戻した私は、弾かれたように彼の体を押し返そうとする。

 一瞬、驚いたような素振りを見せたものの彼は直ぐに、逆に押さえ込もうと、背中に回した手に力を込めて

 自分へと引き寄せようとする。

「暴れるなって言ってンだろ!」

 彼が初めて上げた怒鳴り声は、私の動作を封じ込めるのに充分だった。

 びくっと肩が震えると同時、腕の力が抜けてしまう。

 そして再び、首元にちゅ、と音をたてて口付けると、そこから喉、鎖骨と順々に降りていく。

 最初は羽根が触れるように柔らかだったその動作も、私が大人しくしていなかったせいか

 乱暴で、力任せなものになる。

 嫌。

 このまま、こんな風にされるなんて、嫌。

 椎名君、どうして?

 どうしてこんなことするのよ……?

 頭の中にぼんやりと、大好きな人が浮かんだ。

 ただ傍で見ているだけしかできなかったけど、私の尊敬する大好きな男性。

 その彼の姿が霞んで見える。

 もしこのまま、椎名君に奪われてしまったら、もう二度とその人を想い続けられないような気がした。

 『初めて』を大切にする、なんて、若い女の子にしか似合いそうもない台詞だけど、

 せめて。

 せめて、自分の愛してる人と結ばれたかったなんて思うのは、いけないことなの?

 ……遠くに、行ってしまう。

 お願い。

 待って、行かないで。

「―――高遠先生……」

 その人を呼び止めるように、縋るように自然と口を吐いた。

 その名前に、私の身体へ愛撫を施す椎名君の動作が止まった。

 恐る恐る、といった感じでじっと私の顔を覗きこむ。

「高遠……?」

 小さな声でそう言うと、無言で私を拘束していた手を解く。

 そしてほんの僅かな間、彼は酷く傷ついたように表情を歪ませた。

 けれど、直ぐに。

 「芽衣センセの好きなヤツって、高遠か」

 彼は自嘲的に笑いながらそう言うと、私を床に置き去りにしたまま立ち上がる。

「…………」

 私の方はただ呆然と、急に態度の変わった椎名君の所作を見ているしか出来ないでいた。

 その私の瞳を見つめたまま、彼はぐっと拳を握り締めると、

「―――ごめン。今更だけど……冗談。やりすぎた」

 怒りや悲しみどころか、言葉にある謝罪の感情すら何も無い声音で呟くと同時。

 逃げるように音楽室から出て行ってしまった。

「うっ………」

 彼の足音が消えた後、私はもう一度泣いた。

 つっとこめかみを伝う温かい雫を、手の甲で必死に拭おうとする。

 涙が、止まらなかった。泣いてはいけないと思うほど、後から後から零れてくる。

 でもその理由がわからなかった。

 怖かったのか。悲しかったのか。驚いたのか。辛かったのか。

 ううん、もしかしたら全部なのかも知れない。最悪の事態を免れた安堵もあったんだろうと思う。

 張りつめていた緊張が一気に解け、情けなくも暫くそうしていた。

 一頻り泣いてから。

 何気なく視線だけを動かし時計を見遣った。

 まだ授業の終了時刻までに二十分はある。

 ――あぁ、ちゃんと授業できなかったなぁ。

 頭の片隅でぼんやりとそんな事を考えながら、漸く私は上体を起こした。

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 その出来事の丁度次の日から、ゴールデンウィークが始まったけれど。

 私は外に出ることもせずに、家の中で独り鬱々としていた。

 体中の力が抜けてしまったかのように、ただただじっとして。

 この黄金週間には感謝せずにはいられない。

 こんなボロボロの精神状態で学校なんかに行かずに済んで、本当によかったと思う。

 実は一昨日の夜、真琴ちゃんから電話があったんだけど、とてもじゃないけど出れるような気分じゃなくて。

 たとえ出れたとして。

 あのこと――椎名君のことを口走ってしまいそうで……結局掛け直しもしないまま、放って置いてしまった。

 だって、今の私じゃ話し相手になんてなれないよ。ただでさえ新生活で疲れてる真琴ちゃんを、更に疲れさせるだけだもん。

 それに、相談の内容だって……。

「どうかしてる」

 頭に浮かんだ椎名君の顔を掻き消すように呟くと、胸が痛んだ。

 誰が聞いたっておかしい。自分のクラスの男子生徒に、襲われかけた?

 ――――言えない。言える筈、ない。

 真琴ちゃんにも、誰にも言えないよ。

 もう、どうしたらいいのかわからない。

 こんがらがってしまった頭を一時的に解放するべく、私はテレビの電源を入れた。

 ここ数日、それの繰り返しだったりするけど。

「――時刻は八時半です。では気象情報です……」

 朝になったんだ。

 相当堪えているのか、眠れなくて。二、三時間ごとの短い睡眠を繰り返して、生活のサイクルが狂ってしまっている。

 と、階段を上がってくる音が聞こえた。

 スリッパの音。きっとお母さんなのだと思った。

 足音は真っ直ぐ私の部屋へと向かってきて、そこで立ち止まった。続けて聞こえる、ノックの音。

「芽衣? ダイエットだか何だか知らないけど、そろそろ何か食べたら?」

「うん……でも、食欲なくて」

 普段放任なお母さんも、なかなか下に降りてこない私を心配してるみたいだった。ドア越しの声が不安げだ。

 申し訳ないけど、食べたくない。食べる気がしない。

「そう? 身体壊さないでね」

 家族にだって、当然話していない。口が裂けたってできない。そんなこと。

「……あ、そうそう。さっき生徒さんがら電話があったわよ。椎名さんって、芽衣のクラスの」
 
「え!?」

 下へと向かおうとしたお母さんが、ふと思い出したように立ち止まって言った。

 ベッドの上で寝転がっていた私は、文字通り跳ね起きた。

 普段なら有りえない位の速さで。転がりながらドアへと辿り着き、勢い良くドアを開けた。

 思わず、エプロン姿のお母さんに這い寄る。

「ど、どうして呼んでくれなかったのっ!?」

「あら、だって寝てるだろうと思って……そしたら、大した用事じゃないのでって言って、切っちゃったんだもの」

「……………そ、そうなの」

「じゃあお母さん、これから支度してお祖母ちゃんの家に行くから。留守番よろしくね」

 涼しい顔してそう言うと、お母さんはスリッパの音を響かせながら階段へと向かっていく。

 椎名君から私に、電話があった?

 
『大した用事じゃないのでって言って、切っちゃったんだもの』

 きっとあの日のことだと瞬間的に確信すると、ドアのノブを握って、大きく扉を開ける。

「お母さん、待って!」

「え?」

 階段を降りようとしてたお母さんが、此方に振り返る。

「私も出かけるから! 鍵かけていってくれる?」

「はいはい、わかったわよ」

 笑顔で頷くと、そのままお母さんは下へと降りていった。