Scene3−1



 「確か……この辺よね……」

 住所録を片手に、私は彼の――椎名君の家を探していた。

 住所録の記載によれば、椎名君の自宅は成陵に程近い場所にあるようだ。

「こっちのスーパーマーケットの方をずっと行って……あの高いのがそうかな?」

 椎名君の家はどうやらマンションらしい。住所の一部に、『スクエア・ヒル二○四』とある。

 あの建物のことだとしたら、所謂、高層マンションっていうモノ。

 結構、いい環境で暮らしているんだ、と思った。同時に、眺めが良さそうな建物なのに、二階なんだ、とも。

 そんなどうでもいいことを考えているうち、目的のマンションの前に立ち止まる。

 エントランスの手前、住所録と同じ『スクエア・ヒル』の表記を見つけると、私はそのまま中へと入っていく。

 特別新しい建物ではないけれど、かなり綺麗な方だと思う。それはエントランスの様子からも窺える。

 ホテル並みとまではいかないまでもシンボルツリーを始めとして緑が多いし、まるでちょっとした邸宅のよう。

 そのエントランスを抜けて、奥に入るとすぐにエレベーターを見つけ、乗り込むと二階のボタンを押した。

 一階分だから、別に階段でもよかったんだけど……つい、楽な方を選んでしまう。

 程なくして二階へ辿り着くと、陽の当たる廊下を、部屋番号を追いながら歩いていく。

「二○四、二○四……」

 どうやらエレベーターの手前から二○一、二○二、となっているようだ。

「一番奥ね」

 二○四―――あった。

「え……?」

 私はぎくりと足を止めた。

 『二○四 高遠』

 表札には、間違いなくそう書いてある。

 瞬間的に、高遠先生のことを思い出さずにはいられなかった。

 見間違いかと思った私は、右目を擦った。ついでに左目も擦った。

 けれどもその表示は変わらない。

「あ……」

 もしかしたら、住所を間違えたのかもしれない。

 マンションの名前を間違えたとか、部屋番号を間違えたとか。

 きちんと確かめてここまで来たはずなのに、急に心配に思えて住所録を確認する。

 ―――やっぱり、一箇所たりとも違っていない。

 住所録を握る左手に力が篭る。

 どういうことなの?

 ここは椎名君の家じゃないの?

 なぜ高遠先生の名前が書いてあるの?

 意味の解らない状況に、頭の中で疑問符がぐるぐると回り始めた頃、目の前の扉が乱暴に開いた。

 ――!?

 驚きに声も出せず、とっさに廊下の影――扉から死角になる場所へ滑り込むようにして隠れる。

 同時、慌しいパンプスの音とよく見知った後姿が廊下を駆けていく。

 あれはもしかして……?

「センセ!?」

 扉の中からは聞きなれたハスキーボイス。

 呼んだのは、一瞬自分のことかと思ってドキリとしたけれど、きっと、今出て行ったスーツの女性を指しているのかもしれない。

 ――真琴ちゃん……?

 見間違えるわけがない。

 あれは真琴ちゃんだった。

 どうしてなの。どうして真琴ちゃんが此処に居るの?

「――ったく。ちょっとからかったら逃げやがった」

 開けっ放しの扉から、ハスキーボイスの男の子が出てきて、真琴ちゃんが駆け抜けていった廊下をじっと見つめている。

 それを影からそっと覗いた。

 普段と違う格好。黒いロングTシャツにジーンズだけど、雰囲気は制服の時とあまり変わらない。

 『高遠』の表札の部屋から出てきたのは、椎名君だった。

 ……益々、ワケがわからない。

 最早、思考回路がショートしかけていた私はぼんやりと彼を見つめていたけれど、次の瞬間。

「芽衣センセ……!?」
 
 気配に気がついたのか、たまたま振り返っただけなのか。

 私の存在に気がついた彼の瞳とかち合う。

「…………」

「…………」

 何とも言えない気まずさが流れたまま、私達は互いに目を瞠り、沈黙を守り続けていた。

 ・
 ・
 ・

「えっと……はい、コーヒーでいいかな?」

「ん、サンキュ」

 近くの自動販売機で買った缶コーヒーを椎名君に差し出すと、彼は小さく頷いて受け取った。

 あの後、私は椎名君に連れられるままにマンション近くの公園に来ていた。

 芝生が綺麗な、広い公園。今日は晴れて天気も良いせいか、家族連れが目に付く。

 数あるベンチの中の一つに、私達は並んで腰掛ける。

 二人きりになると、私はやっと当初の目的を思い出した。

 私は椎名君と、先日の件の話をするために、此処までやってきたんだった。

 でも――それを吹き飛ばしてしまうような驚くことがありすぎて、何から話していいのか、正直解らない。

「あのさ」

 プルタブを開けながら、椎名君が切り出した。

「とりあえず―――こないだは、やり過ぎた。ごめんなさい」

 俯いて、缶をじっと見やったまま消え入りそうな声で呟く。

「………」

 私は何も答えなかった。

 気にしてないなんて、言えない。

 それどころか許せない――と思う反面、自分のクラスの大事な生徒だからという思いもあって、複雑な心境だった。

 でも。それにしても。

 椎名君が素直に謝ってくれるとは思わなくて――ううん、謝って然るべきなのは十分解ってるけど。

 彼が根っから悪い人間ではないということに気づけた気がして、ほんの少し、安心した、かも。

「家に電話をかけてくれたのは、それを伝えてくれようとしたの?」

 私が訊くと、彼は小さく頷いた。

 いつも強気な椎名君が、こんなに大人しい姿は初めてだ。

 それだけ反省してくれてると受け取って……良いんだよね?

「…………いいわ」

 その言葉に、椎名君がはっと顔を上げて、恐る恐る私を見つめる。

「勿論、もう二度とこんなことしないって約束してくれるわよね?」

「………ん、わかってる」

 彼はもう一度確りと頷くと、手に持ったままだったコーヒーを思い出して、慌てた様に口を付けた。

 変なの。

 なんだかいつもよりも小さく感じる彼が、妙に可愛らしく感じてしまったりして……許してあげたくなってしまった。

 あんなにショックだったのに……不思議な気分。

 でもそれはきっと、今日目撃した不思議な状況が、多少なりともその分の衝撃を打ち消してしまったからかもしれない。

 私は堪らず切り出した。

「それより……あの、どういうことなの?」

 傾けていたコーヒーの缶を下ろして、椎名君が私を見遣る。

「何が?」

 私が訊きたいことは解っているだろうけれど、とぼけた様に椎名君が首を傾げてみせる。

 例の話題を避けるかのようにも見えたけど、私は敢えて単刀直入に訊ねた。

「表札……ううん、訊かなくてもわかるでしょう? 椎名君の家のはずなのに、『高遠』って書いてあったわ。

それに、私の見間違いじゃなければ、まこ……千葉先生も居たでしょう」

「気になる?」

 彼は諦めたように短く訊ねた。

「き、気になる」

 反射的にそう答えると、素直だな、なんて呟きながら、彼がいつもの意地悪げな表情を浮かべる。

「そういや芽衣センセは高遠のコト好きなンだよな」

「ちょっ……」

「今更隠したりしても遅いし。てか、こないだ聞いたじゃンか」

「………」

 やだ、そういうこと言われるとまた顔が赤くなっちゃう。

 この赤面癖、どうにかしたい。

 いつのまにか、彼のペースに巻き込まれてしまっていることに気がついても、どうにもできない。

 結局このパターン……情けない。

 図星を突かれて黙り込むと、彼は一度小さく舌打ちをした。

 まるで私の反応が気に入らないとでも言いたげで――煽ったのは彼のほうだというのに。

 でも気を取り直したのか、至っていつもの調子で口を開いた。

「ま、芽衣センセは担任だし。黙っててもバレると思うから言うけどさ」

「……?」

「表札が『高遠』になってるのは、オレと高遠が一緒に住ンでるから。勿論、芽衣センセが思い浮かべてる高遠のことな」

「一緒に住んでる!?」

「そ。オレと高遠って、兄弟なの。当然、血の繋がった」

「!?」

 あまりに衝撃のある言葉をサラっと言うものだから、一瞬何のことかよく解らなかった。

「芽衣センセ、驚きすぎ。今のカオ面白かったンだけど」

 話の整理ができなくて、置いてきぼりにされてる私を指差しながら、彼は楽しそうにケラケラと笑い出す。

 彼の言うとおり、驚きすぎて変なリアクションをしてしまったんだろう………そんなに笑うこと無いのに。

「で、でも兄弟って……私そんなこと一言も聞いてないわ」

「当たり前。だって高遠もオレも内緒にしてるから」

 彼の話だと、学校側には兄弟であるということを伏せているみたいだった。

 理由は、高遠先生が身内贔屓をするのではとあらぬ疑いをかけられるのを嫌がったことから始まるみたいだけれども、

 どうせ三年間しかいないのなら、隠し通す方が楽だと判断したんだろうと思う。

「住所録に載せた住所が間違いだったか。高遠は実家の方で載せてあるンだけど、逆にしとけばよかったな」

 住所録には現住所を互いに分けて提出したけれど、事実上は成陵に近いという理由で同居しているみたいだった。

 まさかセンセが来るなんて、と小さくため息を吐いてみせる彼。そして。

「真琴センセまでウチにいたし。一体何しに来たンだか」

「………」

 私が気になっていたもう一つのことに、彼が触れる。

「芽衣センセ、知らない?」

 私は首を横に振った。

「椎名君は知らないの?」

「だってオレだって今帰ってきたンだし。そしたら真琴センセがウチにいて」

 どうやら彼もよく状況を把握していないらしく、目頭に軽く手を当てて考え込む仕草を見せる。

「……やっぱ、付き合ってンのか」

「え?」

「高遠と真琴センセ」

「そ、それは、ないわよ」

 確信よりも、そうでないことを祈る気持ちが、私にその言葉を言わせていた。

 それは、有り得ない。だって真琴ちゃんは私のことを応援してくれているもの。

 そんな彼女が高遠先生と付き合ってるなんて……。

「何でそー言い切れンの?」

「そ、それは……」

「『高遠センセはアタシのモノ』って?」

「ち、ちがっ……」

「ジョーダンだって」

 私が言葉に詰まったり、慌てたりしてる様子を愉しみながらも、でも、と急に改まった口調で彼が言う。

「オレの直感だけど、真琴センセはウチに泊まってた気がする。いくら同僚って言っても、オトコの部屋にオンナが泊まる時っていうのは

 それなりの関係があンじゃない?」

「………」

 彼の意見は間違っていない。

 もし。
 
 もし、真琴ちゃんが椎名君の家――つまり高遠先生の家に泊まってたとしたら。

 真琴ちゃんは、一体どういう理由であの部屋に居たんだろう。

 胸の奥に、重たい鉛がずうんと乗っかったみたいに、苦しくなる。

 嘘よね? 真琴ちゃん。

 そんなことないよね――?

 不安に支配されつつある私を気にもとめず、椎名君は

「あとで怜からかってやろ。反応スゲェ楽しみ」

 と、目を細めて笑った。

 『怜』――そう、高遠先生の名前。

 どうやら彼は普段、兄のことを名前で呼んでるらしい。それだけ親しみを持っているということなんだろうな。

「……仲よさそうね」

 気分が落ちてしまわないように話題を変えるべく呟いた言葉に、椎名君はくっと喉を震わせて笑う。

「そ? ま、オレは怜なンて大嫌いだけど」

 照れ隠しのそれではなく、冷たい印象を抱かせる口調。

 他人事ではあるけれど、何だか胸が痛む。

「どうして?」

 私には解らなかった。

 もし、私が椎名君の立場だったら、高遠先生のようなお兄さんが居たら、寧ろ自慢に思える気がしたから。

 品行方正。温厚篤実。眉目秀麗。非の打ち所のない完璧な兄。

 羨ましいことこの上ないっていうのに。彼は何が不満なんだろう?

 不思議がる私を見て、椎名君は酷く不機嫌そうに眉を顰めた。

「どうしてって? どうせ――芽衣センセはアイツが何でもできるスゲェヤツだって思ってンだろ?」

 嫌悪の感情丸出しに、吐き捨てるような言い方。

 脳裏にその嫌悪する男性でも浮かんだのか、小さく首を振ると、

「芽衣センセは騙されてンだよ。アイツはそンなに完璧な人間なンかじゃない」

「騙されるって、そんなこと無いわ」

 考えるより先に、つい言葉が先を吐く。

 普段の様子もそうだけれど、着任し立ての時に掛けて貰った優しい言葉や、仕事でフォローしてもらった時のこと。

 私は一つも忘れていない。

「――――何でだよッ」

 言い返したことが悪かったのか、それとも私の態度が気に障ったのか。

 椎名君は舌打ちをすると、弄んでいた缶の中身を一気に嚥下し、空になったそれをベンチの上へたたき付けるように置いた。

 カァン、と大きな音が響く。そして、眉間に皺を刻んだまま立ち上がる。

「椎名君……?」

 気分を害すようなことをしてしまったのは、解ったけれど。

 何を言えば彼の気持ちが治まるのか、私には見当もつかなかった。

 困惑して彼を見上げると、彼は悔しげにきゅっと唇を噛んだ。

「どうせセンセにとっては、オレにヤられかけたことより、怜が他のオンナと付き合ってるかもしれないってコトのがショックなンだろ?」

 それだけ言い捨てると、椎名君はそのまま踵を返してマンションの方向へと歩き出してしまう。

「し、椎名君!」

 名を呼んでも、振り向く気配はない――怒ってしまったんだろうか。

 どうして?

 私……そんなにいけないことを言った?

 
『どうせセンセにとっては、オレにヤられかけたことより、怜が他のオンナと付き合ってるかもしれないってコトのがショックなンだろ?』

 
彼の言葉がリフレインする。

 確かに高遠先生と真琴ちゃんの話はショックだった。

 でも、それがどうして椎名君を怒らせるの?

 気持ちの整理に来たはずだったのに、余計に心をかき回された気分になった―――。