-signalー beloved

Scene.３-３

　そうこうしているうちに、私の誕生日――五月十日がやってきた。

「月島先生、乗ってください」

「は、はい。有難う御座います」

　通用門の前に停めてあるシルバーカラーのセダンは、高遠先生の愛車らしい。

　一日の勤務を終えて太陽が西に落ちる頃、私たちは一つの車の左右へと乗り込んだ。

　勿論、運転席には高遠先生が。そして、助手席には私が。

　―――うわぁ、何だか、意識しちゃうよ。

　彼の車の助手席に座れる日が来るなんて思わなくて、座ってるのに足が震えちゃう。

　考えすぎかもしれないけど、助手席っていうのには何か特別な意味があるような……ううん。

　やっぱり、何か特別な意味があって欲しいと、そう願っているだけ、かな。

「早速向かいましょうか」

　向けてくれた柔らかい笑みは、今だけ……私が独占して、いいんだよね？

　はい、と頷づけば、セダンは学校の通りを抜けて繁華街へと走っていく。

　慣れないフルメイクの所為で、気恥ずかしさから顔を彼の方へと向けることが出来ずに俯いた。

　一目惚れして買った、水色のワンピースの裾をきゅっと握る手が湿ってくるのが解る。

　―――ちゃんと、似合ってるかな？

　私としては物凄く頑張ったつもりなのだけど、高遠先生にはどんな風に映っているんだろう？　

　他愛も無い会話を幾つか交わすけど、内容が全く頭に入ってこない。今話してる内容だっていうのに、相槌しか打てないよ。

　それを意識すると、更に緊張が増してしまうような気がして顔が熱くなってきちゃう。

　どうしよう。どうしよう。どうしよう。

　どうしたら悟られないで済むんだろう？

　あぁ、もうだめ。どうしていいのか解らない。

「…………」

「…………」

　焦りで、ついには会話が途切れてしまう。

　話したいことはたくさんあるのに、言葉に乗せることができずに戸惑う――こんなんじゃいけないのに。

　ある程度自覚はしていたけど、高遠先生の前ではこんなにも不自然な態度しか取る事ができない。

　………何だか、滑稽だ。

　折角、時間を作ってもらって、一緒に居るのになぁ―――。

　やっぱり、高遠先生は眩しいよ。

　信号に差し掛かり、ゆっくりと停車すると、私の視線を感じ取っていたらしい彼が此方を向いて、首を傾げた。

「……どうかしましたか？」

「いえっ、あの……」

　何でもない、と首を振ってみるけど、言葉が後に続かない。

　それが気に掛かったようで、形の良い眉を下げて彼が呟いた。

「何か、気に障るようなことを言ってしまっていたら、すみません」

「ち、違います！！　そんなこと、絶対無いですから！」

　さっきより三倍ぐらいの速度で首を振った。

　違うの。高遠先生が悪いんじゃないの。……本当に、私ったら何をしてるんだろう。

　私こそ、高遠先生の気分を悪くさせてしまってるんじゃないだろうか。

「それなら、良かったです。もう少しで着きますので」

　彼はにっこりといつもの笑みを浮かべると、青になったのを見計らって車を発進させた。

　…………。

　こんなに近くに居るのに、こんなに遠い。

　大好きな高遠先生のすぐ隣だというのに、何処か淋しさを感じていた。

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　高遠先生が連れて行ってくれたレストランは、ベイブリッジが一望できる素敵な場所だった。

　お料理もオシャレで美味しくて、デートには最適なスポット。

　彼は其処で何と、私に誕生日プレゼントをくれた。

　中身は、小さな丸型のケースに入った、ブリザーブドローズ。色は白と黄色。もう、本当に感激した。

　程良い距離感。

　花束だとキザすぎるし、かといってジュエリーとかだともっと親しい間柄って感じがしちゃうし、こういうの選ぶのって大変だと思う。

　それなのに凄くスマートに選んで下さったんだなと思って、改めて彼を見直した。

　……そういえば前に、何かの拍子で花が好きだってことを言った気がする。

　勿論特別な意図なんて無い、他の先生も含めた他愛のない雑談の中で。

　もしそれを覚えてくれてたのだとしたら尚更嬉しい。早速、お部屋に飾ろうと心に決めた。

　でも、残念なことにその他は殆ど覚えてない。

　私に気を使って、高遠先生は話を幾つか振ってくれたのだけど、キチンと拾うことはできなかった。

　流石にこのままでは当初の目的は果たせそうに無い、と思い切って、

　『宜しければ、この後近くのバーでお話しませんか？』

　と、誘ってみたら、直ぐに了承して貰えて、ほんの少し潮風を浴びた後、今はそのバーのカウンターに腰を下ろしている所。

　店内は落ち着いたシックなイメージ。照明も明るすぎず、暗すぎずないい感じ。

「月島先生、何にします？」

「ええと、オレンジブロッサムを」

「僕はフロストバイトを」

　カウンター越しにバーテンダーさんへと告げると、はい、と頷いて早速カクテル作りに取り掛かってくれる。

　こういう、カウンターバーに来るのはとっても珍しい。

　昔、真琴ちゃんと食事をした帰りに寄ったことがあるけど、雰囲気に飲まれそうになって早めに出てきちゃったし――学生時代だったからかな。

　しかも今日の私には、告白をしなければいけないという課題もある。

　レストランの時よりも、遥かに高鳴る鼓動を押さえているうちに、私たち2人の前にはそれぞれカクテルグラスが差し出された。

　私は無難に、オレンジ色の親しみやすいそれ。

　高遠先生は――初めて聞く名前のカクテルだったから、どんなのかと思ったけれど、硬い感じの名前に反し真っ白くて綺麗。

　ふんわりした柔らかい印象は、彼の人となりを表しているようでもあった。

　でも、結構、ううんかなり甘そうだなぁ……こういう選択は、ちょっと意外かも。

「……無粋な事を伺っても良いですか？」

　その雪のようなカクテルを口に運びながら、高遠先生が訊ねた。

「は、はい」

「誕生日に、僕を誘って下さったのは……どうしてですか？」

　！！

　私の方から切り出そうと決めていた内容を、不意に彼から告げられると心臓が撥ねた。

「あの……」

　逃げ出したい衝動に負けそうになる。

　此処で伝えなければ、いつ伝えられるの？

　こんなチャンスは二度と無いかも知れないのに。

「―――」

「つ、月島先生？」

　臆病な気持ちを奮い立たせる為に、私はカクテルグラスを掴むとその中身を一気に嚥下した。

　高遠先生が目を丸くして私を見遣る――自分でも吃驚するような行動。

　でも今は、驚いてる場合じゃない。

　グラスを置くと、小さく息を吸い込んだ。

「私、去年からずっと、高遠先生のことが好きでした」

　心配そうに此方を覗き込む双眸をちゃんと見つめ返して、そう告げる。

「ずっと、ずっと大好きでした。

……教員一年目で慣れない私をさり気なくフォローして下さったり、気さくに話しかけてくださったり。

そういう高遠先生の優しくて誠実な姿に憧れてました。教師としても、人としても――――私にとって理想の男性、なんです」

　一度溢れ出した言葉は止まることなく、私の口から零れていった。

　それにつれ、火が噴き出そうな程に頬が熱くなるのを、アルコールの所為だと思い込んで続けた。

「最初は、貴方を見ているだけで十分でした。たまに話しかけて下さった時なんかは、物凄く幸せで――

でももっと、もっと貴方を知りたいと思ってしまったんです。もっと、親しくなりたいと……。だから、あの、ええと……私……」

　話している内に頭の中が真っ白になってくる。

　思いを伝えた達成感からか、少しだけ緊張が緩んだのかもしれない。伝える内容を上手く音に出来ない焦りで、片頬を覆った。

「月島先生」

　必死になって言葉を探すのを、彼がやんわりと制した。

　眼鏡の奥の優しげな瞳が、私の気持ちを理解してくれたのだと告げてくれる。

　心臓が破裂しそうだった。

　好きな人に気持ちを伝えること……それ自体が、こんなにも苦しいなんて。

　お願い、高遠先生。何か、言って。

　じゃないと、胸が壊れてしまう。

　祈るように、縋るように、私は彼をじっと見つめた。

「……月島先生の気持ちは、とても嬉しいです」

　ほんの少しの間の後、彼はにこりと微笑みながら、そう頷いてくれる。

「でも――貴女の気持ちに応えることは……出来ません。すみません」

　瞳に憂いが灯る。申し訳ないとばかりに、弱い声音で彼が告げた。

「…………」

　その言葉を聞いた途端に、ぷつりと何かが途切れてしまったような……錯覚。

　今まで少しずつ積み重ねてきた大事な大事なものが、崩れてしまったような感覚に陥って。

　同時に、両方の瞳がぼやけて、じわりと熱いものが溢れた。

　駄目。

　泣いちゃ駄目。高遠先生を困らせたくない。

　せめて涙だけは見られないように、と頭を垂れて泣き顔を隠した。

　………だって。

　こうなることは解っていた筈なんだもの。

　頭の中で今日のことを思い描いた時に、彼が私を受け入れてくれた事なんて無かったじゃない。

　だから、平気―――平気なのに。

「ごめ……なさ……」

　ぽろぽろと零れていく滴が、カウンターの下で握り締めていた拳に落ちて撥ねる。

　平気だなんて嘘。

　やっぱり、心の何処かで期待してしまってたんだ。

　彼も私のことを好きで居てくれたなんていう――都合のいいラブストーリーを。

「解ってたのに……ダメ、ですよね。私なんて……私なんか、高遠先生に振り向いて貰える筈、無いのに」

　自嘲めいた言葉が口を吐く。

　やっぱり、伝えなければ良かった。そっと心に仕舞って置くべきだったんだ。

　だってそうすれば可能性が一パーセント未満でも、ゼロになることは無かったんだから。

　自分の手でピリオドを打ってしまったという絶望感に苛まれ、また、泣けてくる。

「それは違いますよ、月島先生」

　その台詞と同時、背中に触れる温もりを感じた。高遠先生の手だ。

　彼はあやすようにゆっくりと私の背を撫ぜながら、続けた。

「貴女は女性らしくて、穏やかで、とても魅力的な方だと思います。本当ですよ。

だから、そんな悲しいことを言わないで下さい」

　私が発した言葉を確りと否定する声――やっぱり、彼は優しかった。

　恐る恐る顔を上げて、まだぼやける視界で彼を見遣れば、柔らかな笑みを浮かべてくれる。

　けれど次の瞬間、彼は震える私の背から手を離し、その表情を引き締めた。

「それに……貴女は誤解してる」

「……？」

　紡がれる、彼とは無縁な単語と共に、眼鏡越しの瞳から、感情の色が消えたように思えた。

「僕は、貴女がいう程出来た人間なんかじゃありません。卑劣で、非道で――残酷、なんですよ」

　彼の言わんとする所が理解できず、何か言葉を重ねてくれるのを待ったけれど。

「いえ。……兎に角、貴女がご自身を否定する必要は無いんです」

　一度目を伏せて、そう呟く頃には、常の彼へと戻っていた。

「……なら、どうしてですか」

　本当に『魅力的』だなんて思ってくれているのだとしたら、彼が私を拒む理由を知りたかった。

「………」

　長く綺麗な指先がカクテルグラスの底を数度叩き、それは、彼が彼自身の気持ちを落ち着かせたい様子にも見えた。

　私では駄目な理由―――。

　心の何処かでは見当がついていたのかもしれない。それは、次の言葉が発されると確信に変わっていく。

「……今」

「はい」

「……気になる女性が、居るんです」

「真琴ちゃんですか？」

　自分でも意外な程冷静に彼女の名前を出すと、高遠先生はちょっと驚いたような顔をした。

「どうして、千葉先生だと……？」

「直感です」

　……私も、高遠先生のこと好きだから。

　短く言う私へ、戸惑う様子を見せながらも彼は小さく頷いた。

　もう、吃驚なんてしなかった。

　あぁ、何だ。やっぱり真琴ちゃんだったんだ。

　興奮していた気持ちが急速に冷却されていき、私は平素の落ち着きを取り戻していた。

「ですが、彼女は僕を嫌っていますし、伝えようとは思いません」

　そう言う彼は、ほんの少し口元に笑みを湛えていた。

　諦めたような、放棄したような、そんなイメージ。

「……嫌う？」

「ええ」

　どうして真琴ちゃんが、高遠先生を嫌うというんだろう。

　理由なんて見当たるはずも無く、私は首を振る。

「そんな事無いですよ。真琴ちゃん、高遠先生のこと良い先生だって言ってましたし」

　最近の様子を見ても、彼のことを好きな可能性はあっても嫌ってるなんて有り得ない。

　睫を濡らす涙をそっと拭いながら、じっとその理由を待った。

　言葉を選ぶようにして、躊躇いがちに彼が口を開く。

「――良い印象なんて持たれている筈が無いんですよ。彼女にとって、僕は酷いだけの人間ですから。ただ、それだけです」

「………」

　『酷いって何がですか？』――なんて訊く勇気は無かった。

　其処で言葉を切るということは、先を訊ねてはいけないという意味なんだろう。

　勿論、高遠先生と真琴ちゃんの間で何があったのか、気にならない筈は無いけれど……。

　『酷い人間』

　真琴ちゃんから、それに纏わるような出来事を聞いた覚えはない。

　第一、酷いとか卑劣とか、そういうマイナスイメージなんて高遠先生には似合わないのに。

「……でも」

　困惑する私を気遣ってか、口許に笑みを作って彼が切り出した。

「月島先生のお気持ちは、本当に嬉しかったですよ」

「高遠先生……」

「貴女はご自身のことを卑下しすぎているのではありませんか」

「………」

　でも、けれど、私なんて。

　そんな言葉が口を吐くのを堪える。

「貴女を想っている人間のためにも、そんな寂しいことを言うのは止めて下さい」

「そんな人―――」

　いません。言いかけて、あの意地悪な笑みを浮かべる男子生徒の顔が浮かんだ。

　『センセ、オレ、センセのこと好きなンだ』

　あれはやっぱり、告白……だったんだろうか。

　彼のことは無意識のうちに考えないようにしていた。

　私自身、半信半疑だし、どうやって向き合えばいいのかわからなくて。

「今日の、貴女との約束について、隼人――３－Ｃの椎名に散々嫌味を言われたんですよ」

　まるで私の頭の中を覗いたみたいに、椎名君の名前を出す高遠先生。

　その時の光景を思い出したのか苦笑しながら言った。

　そして、大切なことを言い忘れたとばかりに、

「……あ、ご挨拶が遅くなりました。椎名隼人の兄です――いつも至らない弟がご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」

　体ごと私の方に向いて、丁寧に頭を下げた。

「い、いえ！そんな、迷惑だなんて……」

　しっかり掛けられています――口から零れかけた言葉を飲み込んで、両手を振った。

　二人の関係を驚かない様子に、彼は頷きながら言った。

「やっぱり、僕と弟のことはご存知だったんですね」

「ええ、椎名君から直接……」

「そうでしたか。……『月島先生に何かしたら許さない』と」

「え？」

「隼人が言ってました」

　くっくっ、と喉を鳴らして笑いながら、高遠先生が続ける。

「――アレはアレなりに、貴女を慕っているんですよ。……いや、すみません、勿論、月島先生にはいい迷惑でしょうから、よく言い聞かせておいたんですけど」

「私を？」

　彼はは確りと頷いて、あの、触れたら壊れてしまいそうな危うげな笑みを浮かべて言った。

「魅力のある貴女だからだと思います。……もっと、自信を持って下さい」

「――ありがとう、ございます」

　それだけでもう充分だった。

　大好きな高遠先生の言葉だから、嬉しかったし、素直に受け取ることが出来たのだ。

　―――この人を好きになって本当によかったと、心から思えた。

　・
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　けれどその気持ちは、高遠先生にお礼を言って別れ、家にたどり着いてから、だんだんと薄れていく。
　
　素敵な誕生日を過ごすことが出来た―――そう思っていた筈なのに、

　『――貴女の気持ちに応えることは……出来ません』

　独りになってしまえば、叶わなかった恋心が、再び涙を思い出させる。

　大好きだった高遠先生。勿論、今もその気持ちは変わらない。

　いつか、彼の隣を堂々と歩くことを夢見ていた。

　でも違うんだ。その場所は私の場所じゃなかった。

　その場所に相応しいのは―――……。

「どうしてなの、真琴ちゃん……」

　卸したてのワンピースにも構わず、ベッドに突っ伏しながら音にすると、自己嫌悪に陥る。

　きっと真琴ちゃんは悪くない。それは解ってる。解ってるのに。

　一方では、真琴ちゃんを責めてしまう。

　真琴ちゃんは、いつも私に無いものを持ってるじゃない。

　美人で、明るくて、友達もたくさん居て、色んな人に愛されて―――。

　どうしてよ？

　ねぇ、お願い。

　お願いだから、高遠先生まで持って行かないで！

　『――良い印象なんて持たれている筈が無いんですよ。彼女にとって、僕は酷いだけの人間ですから』

　今日の様々なシーンが頭のスクリーンに映し出される中、高遠先生のこの台詞がどうしても引っかかった。

　何度考えてもその意味が解らない。

　真琴ちゃんが高遠先生を悪く言う理由なんて、何処にも無い筈。……私が知っている範囲では。

　もしかして、真琴ちゃんは――何か隠しているんじゃないだろうか？

　私に言えないような何かを、高遠先生と共有している？

　……あぁもう嫌だ。

　そんな風に考えてしまう自分はもっと嫌だ。

　苛立ちから、ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き混ぜる。

　今日一日、それも夜だけで色んなことがありすぎて、頭がどうにかなりそう。

　椎名君のことだって……

　『センセ、オレ、センセのこと好きなンだ』

　あの言葉は、彼の本心だった？

　それを知っても、どうにもできないのに……。
　
　私の中で脹らみ始めた疑惑と戸惑いという名の風船は、直ぐにでも破裂してしまいそうな程の大きさまで達していた―――。

　

　