Scene.1-3



 塾があるからという土屋と別れて、オレにしては珍しく真っ直ぐ家に帰ることにした。

 成陵高校の近くに建つマンション。その二○四号室がオレの自宅だ。

 ズボラな性格ゆえに失くしたりしないようにと、携帯カバーに無理矢理括りつけてあるキーをカギ穴に差し込み、開錠する。

 2LDK、バストイレ別のこの部屋に、同居人はただ一人――件の兄だけだ。

 ……あ、正確に言うと、他に猫が一匹いる。

 でも、ソイツはオレに全然懐かないし、そもそも動物はあんまり得意じゃないから、面倒はほとんど見ていない。

 どーせオレの猫じゃないんだ。世話なら飼い主にきっちりやってもらえば問題ないだろう。

 それにしても暑い。夏だから当たり前だけど、こう暑くちゃ勉強する気も湧かなくなる。まずはクーラーだ。

 自分の部屋に直行して扉を開けると、中のごちゃごちゃした様相にげんなりして、一層暑さが増したように感じる。

 デスク回りはプリント類が散乱し、その横に取り付けられているラックにはテレビゲームのハードとソフトが山になっている。

 さらには洋服だ。クローゼットにしまえばいいと毎回思うのだけど、そのひと手間が面倒で、部屋のあちこちに点在している。

 ……掃除はあんまり得意じゃない。オレの『整理整頓』というスキルは、母親の腹の中で同居人の兄が余すことなく持っていってしまったのだろう。

 だからアイツの部屋は、無駄なものが一切なく、モデルルームみたいにキレイだったんだ――ちょっと前までは。

 兎にも角にもスクールバッグを置いて、クーラーを付ける。

 部屋が冷えるまでの間さえも暑さが煩わしくて、一瞬だけでも同居人の部屋で涼もうかとの案が脳裏を過る。

 アイツの部屋には猫がいる。猫が最も苦手とする季節である夏は、同居人の部屋は常に快適な温度に保たれているからだ。

 けれど、オレはすぐにその案を打ち消した。

 オレが自分の不在時に自室には絶対に入ってもらいたくないのと同じように、アイツだってそれを快くは思わないだろう。

 ……それに、今やアイツの部屋はアイツだけのものじゃない。ちょっと前に付き合い始めたアイツの彼女の私物が少なからず置いてある。

 以前までのモデルルーム状態が崩壊したのは、その彼女の荷物が増えた分、生活感が垣間見えるようになったからだ。

 下手に踏み込んで、アレがないコレがないとか言われたりしたらと考えると、誤解を与えるような行動はよしとこう。

 クーラーのモーター音が響く中、オレは土屋との会話を反芻していた。

 
『芽衣センセ、お前の兄貴にホレてたワケじゃん。兄にフラれたから弟に……って、すぐ行けるモンなのかなって』

「言われなくてもわかってるっつの」

 さぅtきは気にしてないなんて言ったものの、オレだって完全に割り切れてるワケじゃない。

 小さくボヤいてから、雑然とした室内の一角に移動する。

 漫画の背表紙ばかりが並ぶ本棚の、一番上の段。

 他の段よりも仕切りの縦幅が狭いそのスペースは、CDラックとして使用している。

 オレはその中から、ショパンの全曲集なるタイトルを手に取った。

 ショパンの顔がデカデカとジャケットとして使用されているそのCDは、開封だけしてあり、まだコンポには入れていないけれど、

 既にオレは全く同じものを、ROMが擦り切れるのではないかというくらい聴いている。

 つまり、新しく買い直したのだ。以前のは、借り物だったから。

 一年前のことが頭を過り、そのときの情景に思いを馳せる。


 高校二年の新学期。ジャンケンで負けて、新聞委員という厄介ごとを押しつけられたオレの最初の仕事は、

 新任の先生のインタビューをしにいくことだった。で、オレの担当になったのが『あの人』だ。

 やる気ゼロパーセントだったオレは、嫌々音楽室を訪れた。委員長に命じられた用件だけを忠実にこなし、すぐに戻るつもりだった。

 音楽室に入ると、大きなグランドピアノの椅子に『あの人』は座っていた。
 
 「――『どうして、高校の教師になろうと思ったんですか?』」

 インタビューの一環で質問をしたオレに、『あの人』は答えた。

 
うーん……そうね。月並みだけど、音楽の楽しさを、生徒の皆に知って欲しかったから、かな」

 そのときのオレには、『あの人』のその回答が納得いかなかった。

 兄や母親から口酸っぱく「成績を落とすな、とにかく勉強だけしてろ」と言われ続けていた石頭には、辻褄が合っていないように思えたのだ。

 だからつい、オレはこう返してしまった。

 「音楽って、入試科目に無いじゃないですか

 だからいまいちやる気になれないっていうか……単語の暗記も方程式も必要ない科目って、存在する意味がよくわからない」

 
今考えると、これって結構ヤバい状態だったのかもしれない。でも当時は真剣にそう思っていた。

 新卒の新任。社会人としての希望に満ち溢れて着任した『あの人』も、自分の教科にイチャモンをつけられてさぞかし困惑したことだろう。

 でも――

 「好きな曲、素晴らしいと思う曲を聞いた時、あなたの心は何かを感じるはずよ。

 それは高揚だったり、癒しだったり、感銘だったり、人や曲によってそれぞれだと思うわ。

 そういった経験を重ねていくと、豊かな感覚を持った人間になれる。

 勉強も勿論大切だけれど、優秀な生徒の皆だからこそ、厚みのある人間になって欲しいの」


 『あの人』はオレにそう言うと、微笑んで続けた。

 「じゃあ――実際に、感じてみればいいと思うわ」


 『あの人』の細い指が、ずらりと並ぶ白鍵と黒鍵の上を華麗に滑っていく。

 あとでショパンの『幻想即興曲』だと知ることになるその楽曲は、複雑だけど軽やかなメロディ。

 まるで手品やサーカスを見ている気分だった。最初、それを『あの人』が奏でていると気付けなかったくらいだ。

 『――本当は、ちゃんとしたピアニストの演奏を聴くのがいいんだけどね』

 美しい演奏に胸を打たれ、ぼんやりしていたオレに、『あの人』はそう言ってこのCDを貸してくれた。

 夢中で聴いたのは、初めて触れるクラシックの世界が珍しかったからもあるけれど、

 一番の理由は――勉強漬けの退屈な毎日を消化試合のように過ごす、この無気力な思考が変わるのではないかという期待があったからだ。

 豊かな、厚みのある人間になれ。

 その言葉で、オレに、もっと楽しく、自由な気持ちで生きていい――

 と気付かせてくれた『あの人』により、オレの生活は一変した。

 それまで長めの黒髪にレンズの厚い黒縁眼鏡という、ネクラを絵に描いたような見た目のオレだったけど、

 髪を切り、茶色に染め、ピアスの穴を開け、制服を崩して着るだけでかなり気分が変わった。

 気分が変わると、性格も変わる。

 人との付き合いは二の次にしていたものの、ルックスの変化で周囲の反応がよくなったこともあり、それまでとは違う友人関係を構築できた。

 さっきの土屋や紺野なんかもその中に入る。友達という存在もいいなと素直に思えるようになったのも、『あの人』のおかげだ。

 唯一、オレの露骨な変貌ぶりに嫌悪感を示したのは兄だったけど、そんなの関係なかった。

 そもそも、誰のせいでこんな不健全に成長したと思ってるんだ。知らないとは言わせない。

 オレを変えてくれた『あの人』に感謝するとともに、なおさら熱心にクラシックを聴いた。

 ――『あの人』の好きなものを追いかけることで、オレと『あの人』との距離が縮まっていくのではないかと思ったから。

 いつの間にか、オレは恩人である『あの人』に惹かれていたんだ。ひとりの異性として。
 

 本棚にCDを戻してから、部屋があまり涼しくなっていないことに気付く。

 おかしい。いつもはちょっと待てばすぐに冷えるはずなのに。

 不思議に思って、ベッドに放ったリモコンの液晶画面を確認する。

 設定温度は二十度――のはずが、二十八度になってやがる。

「チッ」

 つい、舌打ちを洩らした。誰の仕業かはすぐに見当がつく。

「……真琴センセか」

 『あの人』の親友であり、兄の彼女でもある真琴センセは、超がつくほどのおせっかいだ。

 兄の部屋に泊まりに来た日は、頼んでもいないのに朝、オレの部屋へ勝手に上がり込んで、目覚まし時計の代わりをしてくれたりするし、

 オレの分の朝食や、機嫌がいいときなんかは弁当まで持たせられる。

 このクーラーの設定温度だって、「身体によくないから」とか何とか言って、オレがいない間に勝手に上げてるんだ。

 昨日は兄の部屋に泊まったみたいだから、今朝、オレを起こしにきたときにでも操作したんだろう。

 正直、放っておいて欲しい。

 百歩譲って、兄の部屋に泊まりに来る名目で、ウチに居座るのは仕方がない。諦める。

 でも、だからってオレのプライベートにまで踏み込んでこないでもらいたい。

 大体、いくらオバチャンみたいに口うるさい真琴センセとはいえ、家の中で若い女がウロウロしてると気ィ遣うんだよ。兄の彼女だから余計に。

 再び設定温度を二十度に戻すと、さっきよりもクーラーが活発に動き始める。

 ――と、そのとき、制服の後ろポケットに入れていた携帯が震える。メールだ。ベッドに座り、内容を確認してみる。

 
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 送信元 : 月島芽衣
 件名 : 週末のこと
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 本文 :
 今日の終業式、お疲れさま。
 夏休みからは塾の夏期講習
 が始まるけど、そっちも遅刻
 しないように頑張ってね。

 それで、受験勉強の邪魔に
 なったら悪いなあって思いつ
 つ……誘ってもらってた週末
 のことなんだけど、私のほうは
 大丈夫だよ。
 でも、椎名くんの勉強が第一
 だから、あんまり無理しないで
 ね。

 ―――――END―――――



 内心でガッツポーズをしながらメールを閉じた。

 無理なんてしていない。寧ろ、この約束のおかげで、週末まで真面目に勉強できるんだから。

「さて、それじゃ早速問題集でもやるかな――」

 オレは徐々に快適な温度に下がりつつある部屋で、上機嫌に勉強を始めた。