Scene.1-5
午前十一時。土曜日の駅前はエラく混んでいた。
早めに到着していたオレが、果たして『あの人』を見つけることができるだろうか――なんて不安に思い始めたころ。
「しっ、椎名くん、お待たせっ……」
改札口から、パタパタとサンダルの音を響かせながら、『あの人』が駆け寄ってくる。
レースの装飾がついた、ひざ丈の白いワンピースは夏らしくて涼しげだ。
やっぱり、白は彼女によく似合う――夢の中での出来事が不意に頭を過ったので、それを掻き消そうと慌てて首を振ったりした。
「……? どうしたの?」
「あァ、いや、なンでもない」
まさか、彼女を見てやましいことを考えてましたとは言えない。
ひらりと手を振ると、彼女は「そう」と頷いてから、自分のカゴバッグの中からチケットを二枚取り出して、そのうちの一枚をオレに差し出した。
「はいっ。これが椎名くんの分ね」
「ドーモ」
チケットには『現代アート展・超個性派作家たちの宴』のタイトルが躍っている。
「この忙しい時期に、付き合ってくれて本当にありがとうね。この展覧会、興味があって」
「別に。こういうの、あンま見たことないから、オレもちょっと興味あったし」
音楽の世界と縁遠かったように、芸術の世界もオレには馴染みがないものだ。
本音を言えば、現代アートなるものには全く興味がない。
この展覧会に行くと決まって、ウェブページで片っ端からそういうものを見てみたけれど、凡人のセンスでは到底理解しがたい世界であることだけはわかった。
それでも興味があるフリをしているのは、展覧会を口実にして会うキッカケを作りたかったから。
オレと彼女は付き合っているワケじゃないから、何か理由がないと会ってはいけない気がしたのだ。
一番最初は、勇気を振り絞ってプールに誘ってみたりしたんだけど、彼女はなぜか親友の真琴センセと怜を連れてきた。
てっきり、彼女と二人きりになれると思っていたオレにとって、それは大誤算。
その日は結局四人で過ごしたものの、もしかしたら彼女はオレと二人きりになるのを警戒しているのかも……と思うようになり、気軽には誘い辛くなってしまった。
「……それじゃ、行きましょうか。会場は駅を出てすぐよ」
彼女の言葉に頷き、オレたちは会場へ向かった。
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二時間ほど会場内の展示を見て、外に出た。
やっぱり、オレに芸術の敷居は高かった。
特に現代アートは、オレの貧相な想像力ではハイレベル過ぎたのだろう。超個性派は伊達じゃない。
さっぱりワカラン――と脳内をクエスチョンマークで満たしているオレに対し、彼女はそこそこ楽しんでいるようだった。なら、まあいいか。
「そろそろお昼にする?」
繁華街へ向かいながら、黒い日傘を差した彼女が問う。
同じくらいの歳の女なら、まず日傘なんて差さないから、何か新鮮だ。
「そーだね」
「椎名くんは、何か食べたいものある?」
「……別になンでも」
決して投げやりに答えているんじゃない。彼女と一緒なら、何だって美味しく感じられるに違いないからだ。
「私も、何でもいいんだけど……」
彼女はちょっと困ったように言いながらも、「あっ」と閃いて続ける。
「少し歩いたところにハンバーグプレートが美味しいカフェがあるって聞いたから、そこでもいい?」
もちろん、断る理由なんてない。頷いて、オレたちはそのカフェへと歩き出した。
そのカフェは、繁華街のメイン通りに入る手前にあった。
白と黒が基調の、少し大人っぽいカフェ。一緒に居るのが土屋ならまず選ばない、落ち着いた雰囲気の店だ。
「よかったー、いつもは混んでるって話しだったけど、すんなり入れたね」
ランチのコアタイムを外したから客の入りはそこそこだったけれど、どうやら普段は入り口に行列ができるらしい。
オレたちは奥の窓際の席に通され、オレは彼女が勧めたハンバーグプレートを。彼女はサーモンとクリームチーズのベーグルサンドをオーダーした。
「今日は暑いね」
「……あァ、そーだね」
学校外で会えるのは嬉しいけど、まだ慣れない。特に、一対一は。
『あの人』が担任としてではなく、ひとりの女性としてオレの目の前にいる……というのが、まだ信じられないからかもしれない。
「…………」
「…………」
何か話さなきゃいけないんだけど、沈黙が生じてしまう。
展覧会は、会話を交わさなくても間が持つから助かっていたけど、食事だとそうもいかない。
何かの話題でテンポを掴めれば話したいことがスラスラ出てくるのに、話し初めは大抵こうなってしまうんだ。
せっかくの二人きりの時間なのに、何してるんだ、オレ。もったいないじゃないか。
「……この店、雑誌か何かで見たの?」
気温の話くらい当たり障りのない話題だと思ったけど、今は何としてでも会話を繋げないと。
オレが訊ねると、彼女も沈黙から脱するチャンスができたとホッとしているのだろうか、ニコッと笑いながら、
「ううん。真琴ちゃんが高遠先生と行ったって言ってて」
と答えた。
ちょっと待て。真琴センセが怜と行ったってことは――あの二人がデートで使った場所に来てるってことだろ。
それってどうなんだ。彼女的にはOKなのか?
親友と、自分がつい最近まで好きだった男がイチャイチャしてたかもしれない場所を選んで、平気なのか?
「……そーなンだ」
何と返事をして言いものか悩みながらも、それだけ返した。
いや、逆に。オレにとっては喜ばしいことなんじゃないだろうか。
親友カップルのデートで使った場所を、オレと会う日に選んだってことは――つまり、彼女のほうもこれをデートだと認識しているってことだ。
なら、オレのことを生徒としてではなく、男として認識している……って思っていいんだよな?
「そうだ。真琴ちゃん、最近高遠先生のお家に入り浸ってるって聞いてるよ」
「あァ、うん。よく怜の部屋に来てる」
内心ではテンションが大幅にアップしているのを悟られないように、平静を装って頷く。
「ごめんね。真琴ちゃん、賑やかにして勉強の邪魔してたりしない?」
「ンー、今ンとこは」
ここで彼女に告げ口してもいいんだけど、今のオレは最高に機嫌がいい。見逃しておいてやることにしよう。
「そう、よかった。……真琴ちゃん、ちょっと暴走するところがあるんだけど、優しい子だから。
きっと椎名くんの世話も焼きたがってると思うんだけど、嫌じゃなかったら応えてあげてほしいな」
真琴センセのおせっかいは、小学生時代から親友をやっている彼女が一番よくわかっているのだろう。
クスクスと笑いながら、「ね?」と首を傾げる。ボブスタイルの黒髪が、その動きに合わせてふわりと揺れた。
「……ン、わかった」
――ちょっと幼さが滲むその仕草が可愛い。本当に、オレより七歳も年上だとは思えない。
それに、自分が好きだった男と付き合っている親友のことを、こんな風にはなかなか言えないんじゃないだろうか。
だからオレは、初めは、彼女が少しも屈折せず真っ直ぐに育ってきた人なのだと思っていた。
でも、実際はそうじゃなく、普段はただ他人に見せないだけなのだと、二ヶ月前に知った。
彼女もオレと同じように、何をやっても敵わない相手がすぐ傍に居た。
早い話、諦め癖がついているのだ。勝負にならない相手のことは、疎ましく思ったりしない。
……まあ、彼女の場合は心底真琴センセを好きみたいだから――時々、怜じゃなくて真琴センセに嫉妬してしまうときもある――、
オレの場合とは違うのかもしれないけど。
「そういえば、椎名くんはうちの短期集中講座は受けるの?」
「一講座。山内センセの数学だけ受ける予定」
「え、高遠先生の授業は取らなかったの?」
至極不思議そうに彼女が訊ねる。
「受けて、イヤミ言われるのは嫌だし。あと、ボロが出て家追い出されると困るから」
怜は身内に――特にオレには徹底的に厳しい。
オレと怜が兄弟であることを、面倒だしガッコには内緒にしてある。
でも、いつバレても『怜が』恥ずかしい思いをしないように……と、怜から、化学の通知表は常に八以上をキープしろという命令が下された。
七以下になったら、今住んでるマンションから実家に強制送還すると脅されてるので、少なくとも化学の成績には気を配らなくてはならない。
ま、あのマンションはもともと怜が暮らしていた場所だから、文句言えないんだけど。
とにかく、下手にアイツの授業を受けて難癖つけられたら、実家に帰らないといけなくなる。
通学に便利なあのマンションを離れたくはないし――実家にも、帰りたくない。
「そうなんだね。あとはずっと塾?」
「の、予定」
夏休みは、家で過ごす時間を減らすために、なるべく塾に居るようにしようと思っている。
怜だけでも気になるのに、真琴センセにも居座られたんじゃ、落ち着いて勉強出来る気がしない。
「そっか、頑張ってね」
そう言って、彼女がまたニッコリと笑う。
「そういえば、椎名くん。あの……今、こういうこと訊くのも何なんだけど」
グラスの水を飲んだあと、彼女が別の話題を切り出す。
「ン?」
「その、進路……どうするか決めた?」
――ああ、そうだった。
四月の進路相談から、ずっとはぐらかし続けていたのを忘れていた。
彼女とのことは、今年一年が勝負だと思っていたオレは、彼女がオレを気にせざるをえないようにワザと進学に興味がないフリをしていたのだ。
「一生懸命勉強頑張ってるってことは、進学はするんでしょう? なら、もういい加減、志望校の目処をつけないと」
「あァ……」
確かに、そろそろ目標を据えていないと遅い時期――なのだけど。気づいてしまった。
オレって何がしたいんだろう?
思い返してみれば「こうしたい!」と強く思ったことなんて一度もなかった。
成陵に入学したのは、兄の出身校だったってことと、両親の強い希望だったからであって、特別勉強が好きなワケじゃない。
勉強をしないと生きていけない環境だっただけだ。
ひたすら命じられたことをこなすだけだったから、将来を考えるとか、行きたい学校を考えるとか……そういう感覚がないのだ。
彼女は沈黙からオレの困惑を察したのかもしれない。
「夏期講習の成果で決めてもいいのかもしれないね。夏の間は、とにかく勉強を頑張って」
追及はせずに、そう励ましてくれた。
……進路のこと、すっかり忘れてた。そうだよな、もうのんびりしていられない時期だ。
つい最近、高校受験が終わったばっかりだと思っていたのに、もう大学受験が迫ってるなんて。
「お待たせいたしました」
なんて思考を巡らせていると、店員がハンバーグプレートとベーグルを運んで来る。
「わっ、美味しそう。食べようか」
「……うん」
この大学受験をキッカケに、オレと彼女の間にさまざまな出来事が起こるのだけれど――
このときのオレは、そんな予兆なんて微塵も感じないまま、ハンバーグプレートにガッつくのだった。
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