Scene.1-1



 超有名進学校である成陵高校に着任して、早5ヶ月目に入ろうとしているところだった。

 やっと高校教師としての生活にも慣れ、緊張よりも楽しさや充実感の方が勝ってきた私――千葉真琴は、

 春のあの騒動以来、相変わらず高遠と付き合っている。

 高遠――高遠怜は、同じこの成陵高校で化学科の教師をしていて、私よりも3つ年上の27歳。

 私が言うのも何だけど、顔よし、頭よし、人当たりよしで周囲からも評価の高い完璧人間だ。……ただし表向きは。

 その良い子ちゃんな仮面の裏には、残酷極まりない素顔が隠れていたなんて、誰が予想できただろう?

 たまたま彼の『秘密』を知ってしまった私は、それはもう言葉で言い尽くせないほど酷い仕打ちを受けたものだけど……。

 人間の気持ちってよくわからなくて、高遠の過去や、周囲が知らないような意外な部分を知るうちに、

 彼の事をどうしようもなく愛おしく思ってしまい、付き合うようになったってワケ。

 勿論、私ってやっぱ変かなーとか思わないこともない。

 だって、女性としての最低限のプライドまでぐちゃぐちゃに踏みにじってくれた相手を愛するっていうのは、

 自分の話じゃなければ受け入れられないに決まってる。

 けど好きなんだから、しょうがないって―――そう、思うことにした。

 ……こんな風にすぐ開き直れなかったのは、他にも理由がある。

 実は高遠は当初、芽衣の想い人だったのだ。

 私はそんな芽衣と高遠との間を取り持とうと頑張るはずだったのに……。

 結果的には、言い方は悪いけど、芽衣から高遠を奪ってしまうような形になってしまい、申し訳なさで心が千切れてしまいそうだった。

 けど芽衣は、そんな私を認めてくれて、「自分の気持ちに素直になっていい」と言ってくれた。本当に良い子なのだ。

 だから、そんな芽衣が何か悩んでいるのであれば、どうしても力になりたい――なんて言い方はおこがましいけど、

 少しでも役に立てれば、と。思った次第で。

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「え?椎名君に好きな人が居るんじゃないかって?」

 放課後、芽衣お気に入りの『Apple Jam』というケーキ屋さんで、私達2人はお茶をしていた。

 暫く行っていなかったのと、電車に乗ってしまえば成陵からもさほど時間はかからないのとで此処を選んだ。

 昼に話していた通り、芽衣の心配事を聞くためだったのだけど……第一声に思わず目を瞠ってしまった。

「……うん、そんな気がするの……」

 大好きなアップルパイとアップルティーに手を付ける様子も無く、芽衣の面持ちは暗かった。

「そんな……だって椎名君は芽衣のこと好きで、わざと担任の芽衣のこと困らせてたってくらいなんじゃ……」

 芽衣と高遠の間で思い悩んでいた私は、最初、椎名君が芽衣に好意を持っているということに気づかなかった。

 だから、私が持ってる情報っていうのは、高遠や芽衣から聞いたことだったりする。

 そもそも、椎名隼人って言えば3−Cのミスター遅刻魔。1限の授業に現れないことが多い困ったちゃん。

 授業態度も私語や居眠りが多く、良いとはいえない。ていうか悪い。

 誰もが認める良い子ちゃんな高遠の実弟とは思えない素行に、血のつながりがあると聞いたときはそりゃあ驚いたものだ。

 ま、あんまり兄弟仲はいいってワケじゃないにしても……高遠とは違うカテゴリに分類されることは間違いない。

 その椎名君が、芽衣みたいな大人しくて守ってあげたくなるようなタイプの女性――しかも自分の担任を、

 恋愛対象として見るっていうのは何ともアンバランスというか、意外性ありすぎて想像もつかないというか……。

 高遠が言うには、

 
『アレは子供だから、月島先生に構って欲しくてたまらなかったんじゃないか』

 ってことらしい。つまりは、自分をアピールしたいために、素行が悪化していったと見てるみたい。

 真面目な子が多い成陵では、普通にしていては個性が埋没してしまいそうなのは解るけど……だからって、不良ぶることはないんじゃないかな。

 ていうか高遠の弟なら、アイツがなんとかして教育し直すべきなんでは……?

 なんて思ってしまう。高遠ってば、身内には妙に放任主義なんだから。

 私に対しては結構嫉妬深いところとかもあったりする癖に、どういうことなんだろうか。この間だって――

「でね、真琴ちゃん」

「あ、うん」

 いけない。ついつい思考が脱線してしまった。今は高遠のことなんてどうでもいいのに。

「最近……椎名君、あんまりお家に帰ってないみたいなの」

「帰ってない?」

「そう。受験生だから、塾に行くのは良いとして……一週間のうち、殆ど外出して、外泊もよくしてるみたいな話を聞いてて……」

「うん」

「放課後も、よく女の子と一緒にいるところを見るの」

 同じクラスの子なの、と付け足して、深い深いため息を吐く。

「……学校以外で会う様になってから生活態度は改めてくれるって言ってて、現に1学期から考えると遅刻も減ったし、

他の先生方からの評判も良くなってるから、安心してたんだけど……」

 其処まで言うと、芽衣の双眸がみるみるうちに潤んでくる。

「もう……私のことなんて、どうでもよくなっちゃったのかな、って……」

「ちょ、ちょっと、泣かないでよ芽衣」

 溢れる涙が1つ、また1つ、とまだ湯気の立つアップルティーに落ちていく。

「だって……」

 芽衣に泣かれると弱い。私は、どうしたものかと頭を掻いた。

 芽衣はもともと高遠のことを凄く好きだったワケで――それが、春の騒動の後、急に椎名君と親しくなっていたことに、私は驚いていたんだけど、

 思いつめているところをみると……芽衣と椎名君は、私が知らないところでかなり深く繋がり合っていた、ということなのだろうか。

 まさかこんなに椎名君のことを想っていたなんて、そっちの方が衝撃的だ。

 てっきり、椎名君の大プッシュに芽衣が押されている感じだと思っていたのに……高遠もそんな口ぶりだったから。

「と、とりあえずさ、芽衣。クラスメイトの女子のことは置いておいて、今はっきりしてるのはあんまり家に帰らないってことだけでしょ?」

 それだけでも高校生にしては問題なのだが。私は芽衣を落ち着かせるために、ゆっくりと優しい声音を努めた。

「もしかしたら、何か事情があるだけかもしれないから、あんまり早とちりして心配しない方がいいんじゃないかな?

一度、椎名君に聞いてみたらはっきりすると思うんだけど」

 芽衣は目元の涙をハンカチで軽く押えるように拭いながら、首を横に振った。

「どうして?椎名君に聞けば一番はっきりするのに」

「だ、だって……そんなの、訊く権利ないよ。私、椎名君の担任だけど、彼女じゃないもん」

「はい?」

 二人の距離感は私も詳しく知らない。でも、少なくとも彼女に近い位置にいるじゃないか、と眉を顰める。

「もしかしたら椎名君の気持ちが変わっちゃってるかもしれないのに……あつかましく感じられちゃうかもしれないし」

「……はぁ」

 解りやすく言うと、彼女面なんてできないってことか。

 此処まで来ると謙虚なんだか卑屈なんだか、といった感じだけど。なるほどね。言いたい事は解らなくない。

 どんだけ自信ないの!と突っ込みたいキモチはあるけど、そこが芽衣のいい所でもあるから仕方ないか。

「芽衣……高遠のときもそうだったけど、遠慮しすぎるのもよくないんだよ」

「た、高遠先生はホラ、人気もあったし……最初は、もう近づいて話すのさえもすごく勇気要ったから」

 当時の事はよく覚えている。あの時の芽衣は高遠を崇拝しかねない勢いだったからなぁ……。

 その時、私の背もたれに置いたバッグから、振動音が聞こえた。携帯だ。

 誰からだろう、と取り出して確認してみる。

 ……ウワサをすれば高遠からメールだ。


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 送信者 : 高遠 怜
 件名 : 無題
 ――――――――――――
 本文 :
 部活が早く終わったから、
 そろそろ帰れそうだけど
 まだ月島先生と一緒?  
 ―――――END―――――


 花形スポーツであるサッカー部の顧問である高遠は、帰宅時間が他の先生よりも遅い。

 実際指導に当たるのはコーチらしいんだけど、鍵の管理は高遠が行っているから、終了までは帰宅できないのだ。

 携帯の時刻を確認すると、18時半――今日はホント、珍しく早めに終了したな。いつもは20時くらいまでやってるのに。

 ………あ、そうだ。折角早く終わったなら。

「ねぇ芽衣、今から高遠が帰ってくるらしいんだけど」

「あ、そうなの?じゃあ私、そろそろ帰った方がいいかな?」

 芽衣が慌てて手付かずのお茶を飲み干そうとするのを、私は「そうじゃなくて」と制しつつ、

「よかったら、高遠の家で一緒にご飯食べない?」

「え、わ、私も?」

 カップを持ったまま、きょとんとした様子で訊ねる芽衣に頷きながら、

「うん、勿論芽衣も一緒に。私が何か作るからさあ。ね?」

「えー……でも、迷惑だったりしないかな?」

「大丈夫大丈夫。高遠も芽衣なら寧ろ喜ぶでしょ。それに――」

 私は声を潜める素振りをしながら、名案、とばかりに言った。

「もし椎名君が帰ってきたら、直接、思ってることをそれとなく聞いてみたらいいじゃない?」

「あ……」

 芽衣も、私が居れば聞きやすいだろうと思うから、実行しやすいんじゃないだろうか。

 聞いた感じだと、芽衣が必要以上に気にしすぎただけなんじゃないかとしか思えない。

 そんな要らぬ不安を払拭するためにも、直接本人に確かめた方がいいに決まってる。

 芽衣も同じ事を考えたのか、微かにだけど頷いて見せた。

「よーし、そうと決まればさっそくスーパーで買い物よ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ真琴ちゃん、私まだアップルパイ食べてないっ――」

 何だか私の方がやる気満々、な感じが否めないけど、これも大事な親友のため。

 当の親友本人を置いてけぼりにしてしまいそうになりながら、私の頭の中は今日の献立についてでいっぱいだった。