Scene.2-5
「え? ―――あの、今、何て……?」
授業のことで相談があると、呼び出された進路指導室。
簡素な椅子に掛け、机越しに小宮先生と向かい合いながら、彼から告げられた言葉が飲み込めずに、私は思わず訊き返した。
「ですから、高遠先生との共同授業の件なのですが、折角ですので長谷川先生のご協力を得てみては、と思うんです」
彼はいつもの心地よい声音で、もう一度衝撃的な台詞を口にする。
金曜日の5,6限に3年生の選択科目として開講している授業、『食品化学』
その授業に、長谷川先生……つまり、アヤさんも関わるってこと?
「えっと、それは、どうして……」
「長谷川先生がそちらの分野に精通しているということでして」
『食品化学』で取り扱ってる酵母は生物化学の分野に入るらしい。
そういえば、アヤさんと中庭で話した時、院では生物化学を学んだと言ってたことを思い出した。
私達の授業は彼女の専門分野だったのだ。
ところが、当の私と高遠は専門外。元々この授業は空いた時間枠を埋めるために作られたもので、
家庭科と化学科、二つの教科がオーバーラップする部分を選んだに過ぎない。
「勿論、千葉先生も高遠先生もよくやって下さっているのは存じてます。授業の評判も良いようですしね」
成陵の3年生は、大学生のように自分の必要単位数に応じて授業を組めるので、
受講してみて合わなかったり、受けなくても問題ないと判断した場合――そう言われたら教師としては辛いけど――は、
そのコマを切ることができる。
その分、自習や予習に当てたり、課題をやったりする方が自分のためになると考える生徒は多い。
けど、受験にむけて本格的に塾が忙しくなる2学期の今でも、私達の授業を取り止めた生徒は一人も出ていない。
これは意外と稀なことなのだ。
それだけ、受講した生徒が私達の授業に関心を持ってくれていることを示しているのだけど……。
「ですが、長谷川先生がいらっしゃればもっと心強いと思うんですよ。どちらにしろ授業計画案は変更せずとも結構ですので、
生徒からの質問への対応等、彼女にお願いしてみては如何でしょうか」
「…………」
確かに、生徒への対応をお願いできるのは助かる。
極たまにだけど、かなり難しい質問をしてくる生徒もいる。その度に一度その質問を持ち帰り、翌週に回答することもあったけど、
やっぱりそれは宜しくないことであって……。
いや、でも! だからって3人で共同授業っていうのは、それはそれで――懸念を振り払えない。
百歩譲って、私は我慢できる。問題は高遠だ。
アヤさんと一緒に授業を進める余裕が彼にあるのかどうかは分からない。
彼だって人間だ。いくら高遠が空気を読む良い子ちゃんでも、強い私情が絡めば上手く行かないことだってあるだろう。
「高遠先生は、何て?」
ここは私が意見せず、彼の意思を尊重するべきかもしれない。そう思って訊ねてみると、
「もう了解は取ってあります。ですから、千葉先生さえ宜しければ」
意外な答えが返ってきたものだから、私は「え!?」と大声を上げそうになってしまう。
高遠のヤツ、OKしたんだ。何だってそんな……。
断れなかったのか、案外彼女の事を気にしていないのかは知らないけど、彼がそう言うのであれば私が断る必要もない。
「分かりました。私の方も異存ありません」
「そうですか、それでは長谷川先生にもお伝えしておきますね」
「はい、よろしくお願いします」
私は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げると、内心の動揺を悟られないように早々と部屋を後にした。
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「お待たせ! 芽衣」
私はデスクの抽斗に入れておいたランチバッグを取り出すと、隣で授業用の楽譜を確認していた芽衣に拝むポーズをした。
「お帰り、真琴ちゃん。長かったね?」
譜面から顔を上げた芽衣が、ちらりと腕時計を見遣りちょっと驚いた風に言う。
「そうそう、ごめんねー。小宮先生に呼び出されて……ちょっと、面倒なことになっちゃってさ」
つられて私も腕時計を見た。うわ、20分も芽衣を待たせてしまったことになる――1時間の貴重な憩いの時間だっていうのに。
「ううん、それはいいんだけど……面倒なことって、何?」
「それがさぁ、共同授業の―――」
「あら、真琴先生たち、今からお昼なの?」
内緒話のつもりで声を潜め言いかけた言葉を、背後からの明るいトーンに遮られ、引っ込めた。
振り返ると、コンビニのビニール袋をぶら提げたアヤさんが、いつもの艶やかな笑顔で立っていた。
今日はノーカラーの黒いミニスカートスーツに、同色のピンヒール。
誰かに注意されたのか、最初に会った日よりは露出が減ったものの、内履きがピンヒールって……。
「長谷川先生……」
驚きと呆れが半々位の気持ちをなるべく表に出さないよう、彼女の名前を呼んだ。
「良かったら、ご一緒してもいいかしら?」
私の抱いている感想なんて知る筈もなく、笑顔のままにかくんと首を傾げる。
芽衣が、目線で「どうする?」と問いかけているのが分かった。
……本当は、アヤさんのことで芽衣に愚痴を吐きたいところだったけど、本人がいる以上そうするワケにもいかないし、
第一、この状況で断れる人間がいるとは思えない。
「え、ええ。どうぞ。ね? 芽衣」
「は、はい――あ、でも椅子が」
芽衣が頷きながら、彼女の座れる場所を探していると、
「その辺のデスクから借りるわ。戻ってくる前に返せば問題ないでしょ」
と、後ろにあったデスクから椅子を拝借して、私のそれの隣に置き、腰掛けた。
丁度、二つのデスクに三人で座っている感じだ。
「真琴先生と芽衣先生は、お昼、いつも職員室なのね?」
ビニール袋から栄養補助食品的なビスケットとブラックコーヒーの缶を取り出しながら、アヤさんが訊ねる。
「ええ、カフェテリアはいつも混んでるので」
「意外に職員室って快適なんですよ」
私と芽衣がそう言うのを、「そうなの」とアヤさんが頷く。
アヤさんが正式に成陵で働き始めて数日が経ったのだけど、彼女は私を気に入ってくれたらしく、割と頻繁に話しかけてくる。
私個人はアヤさんに恨みがあるワケでもなく、別に構わないんだけど……高遠の恋人としては複雑だ。
「長谷川先生、1年生の化学の授業を一部受け持ってるんでしたっけ?」
芽衣がランチボックスを開いて、彼女にとっては定番のツナサンドを片手にそう訊ねる。
「そうそう。産休に入られた先生がいらっしゃるそうで、その先生が持っていた授業を替わりに教えることになってね」
「どうですか、授業は?」
今度は私が訊いた。すると、アヤさんはビスケットのパックを剥きながら、
「教育実習以来だから、何だか緊張しちゃうけど、そのうち慣れるかなって楽観視してるとこ」
と、彼女には珍しく眉を下げて心許なさそうな様子だった。
アヤさんは怖いもの無しみたいなところがあるけど、
そういう部分では人並みに不安を覚えているのか――なんて、失礼なことを考えていると。
「ねーえ? それより、この間から気になってたんだけど……」
心細そうな表情から一転、ちょっとワクワクしたような顔で、私の首元に触れた。
綺麗な長い爪で、首筋のあたりを撫でられる。
「随分、治りが悪いみたいだけど――これって、キスマーク?」
職員室が空いてるとはいえ、同じ室内にまだ何人かは他の教師がいるっていうのに、
周囲の人目も憚ることなく、彼女がストレートに訊いて来る。
「なっ……!」
「週明けからずっとよね? ファンデで隠してるみたいだけど、午後になったら塗り直した方がいいわ、汗で落ちたりしちゃうから」
事も無げにスパっと言うものだから、周囲の先生方がこの会話を聞いているのかどうかが気に掛かってしまい、
思わずキョロキョロと目を彷徨わせてしまった。
……よかった。誰も気に留めてない。
「ちょっと、長谷川先生! そういうこと、大声で言わないで下さい」
「あらぁ、大声だった? ごめんなさいね。でもそんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
慌てて、私が困惑している事をアピールしても、アヤさん本人はどこ吹く風、といった様子だ。
この人ときたら、どんだけオープンなんだか。
「この間訊いた時は教えてくれなかったのにー……真琴先生にはそんな情熱的な彼氏がいるのね」
「―――別に、そんなんじゃないです」
アヤさんの悪戯っぽい視線が決まり悪くて、私は食事そっちのけで首元を掌で押さえ、隠した。
……これを残したのが自分の元カレだって知ったら、アヤさんはどんな顔をするのだろう。
あの日――アヤさんが職員室に顔を出した日の高遠は、何度考え直しても、やっぱり変だった。
この痕だってあの日の夜に付けられたモノだけど、
彼が意図的に、見えやすい場所に見えやすいカタチで残したがる性格じゃないのは分かりきっている。
次の日からは元通りの彼だったから、あの日のことは夢だったんじゃないかと思えてくる。
――そうじゃないってことは、私の首に残ったコレが証明してくれるのだけど。
それにしてもあの男、本当に手加減無しだったんだなぁ。なかなか消えなくて本当に困る。
しかも、アヤさんに気づかれていたとは……。
「そんなことないわよ? キスマークって独占欲の証らしいから。そんなに激しく残すような人なら、真琴先生はすごーく愛されてるのね」
何も事情を知らないからだろう。「いいなぁ」なんて暢気に羨ましがりながら、アヤさんが語尾を弾ませた。
「……そうだといいんですけどね」
私は漸く、ランチボックスからおにぎりを二つ取り出して、その一つを頬張った。
咀嚼しながら考える――独占欲、か。
まぁ、確かに元々嫉妬深いタイプではあるかもしれないけどさ。でも、こういう子供っぽい事はしない筈なのに。
「真琴先生の彼氏ってどんな人なの?」
「え……」
アヤさんはもしかしたらこういうガールズトークが好きなのかもしれない。
興味津々といった様子で訊いて来る彼女に、嘘のつけない私はどう答えていいものか悩んだ。
貴女のよく知ってる人です、なんて言うワケにはいかないし……。
「とっても素敵な人よね、真琴ちゃん?」
今まで私とアヤさん遣り取りを、頬を赤らめて聞いていた芽衣がそう促す。
「そ、そう……私には釣り合わないくらいの素敵な人、です」
「へぇー、カッコイイの?」
「……と、私は思ってます」
「カッコイイですし、仕事もできる人なんですよ。真琴ちゃんの彼氏、すごくモテるんですから」
芽衣がそうやって誉めるものだから、アヤさんは益々興味をそそられたらしい。
「そうなのー? 完璧じゃない! 私、真琴先生の彼氏に会ってみたいわ」
なんて言い出した―――だから、貴女の元カレなんだってば。
「は、長谷川先生は魅力的だから、会わせたら取られちゃいそうで怖いですよー、あはは……」
「何言ってるのー、別に狙ってるワケないじゃない。私、こっちで付き合いたい人が居るって言ったでしょ?」
乾いた笑いで誤魔化そうと思った私だったけど、アヤさんの言葉が違った角度から胸に突き刺さる。
「そういえば、長谷川先生の好きな人ってどんな人なんですか?」
芽衣が何気なく訊ねると、アヤさんは瞳を細めながら、
「顔も頭も性格も良くて、素敵な人―――なんだか、真琴先生と同じね」
と、先日中庭で話してくれた通りに微笑んだ。
「ただねー……」
「ただ?」
ちょっと不満げに彼女が洩らすのを、私は見逃さなかった。
「完璧な彼にも、不満っていうか、惜しいなーっていうところがあるんだけど」
「その、好きな人にですよね?」
「そう」
「何ですか、不満って」
妙に物憂げな様子のアヤさんに、おにぎりを平らげ、包んでいたラップを丸めながら私が訊ねた。
芽衣も、「何だろう」という表情で彼女を見ている。
「何て言ったらいいのかな―――身体の相性?」
「!!」
私も芽衣も、そんな言葉が返って来るとは露ほども思わずに、声にならない声を上げた。
「けほ、ごほっ……」
「あら、芽衣先生、大丈夫?」
まだツナサンドを食べていた芽衣は咽てしまったようだ。芽衣の背中を摩りながら、彼女の分も訊ねる。
「か、身体の相性?」
「うーん、厳密に言うとちょっと違うんだけどね、私、真琴先生が羨ましいのよ」
「私が羨ましいって……全然分からないんですけど」
「つまりは、たまには強引に求めたりしてほしいってこと。真琴先生のキスマーク見てね、無性に羨ましくなっちゃったのよ。
私もこんな風に求めてほしいなーって」
そっちの話に戻るの!?とゲンナリしつつ、白昼の職員室に相応しくない話題はまだ続く。
「でもねぇ。その人は凄く淡白っていうか、優しすぎちゃうのよね。私のことを凄く大切にしてくれてたのかもしれないけど、
それだと全然物足りなく感じちゃって――昔は、そういうこともあってダメだったんだけど」
「はぁ……」
音量も抑えずにこの人、何処までもオープンだなぁ。
ん、ちょっと待って。 ………昔?
「あのう、昔って……?」
芽衣も同じところで引っ掛かったらしく、怖々といった様子で訊ねた。
ということは、芽衣も私と同じ心配をしている。つまり――。
「ああ、その彼とは昔付き合ってて、一度別れたのよ。その後、アメリカに飛んだの」
「…………」
やっぱり………!!
私と芽衣はどちらとも無く顔を合わせ、目と目で会話をした。
『アヤさんの好きな人は、やっぱり高遠なんじゃないか』
……いや、でも待って。それだけで結論を出すのはまだ早い。
いくら7年間の長い付き合いだからって、高遠の他に付き合ってる人がいないとは言い切れない。
こう言っちゃ悪いけど、アヤさんはかなりフリーダムな人だ。
結婚式の前に駆け落ちするくらいだし、浮気をするくらいは有り得る。
それに……。
『その人は凄く淡白っていうか、優しすぎちゃうのよね。私のことを凄く大切にしてくれてたのかもしれないけど、
それだと全然物足りなく感じちゃって』
あれ、高遠ってそういうスタンスだったっけ?
始まりが無理矢理な関係からだったからっていうのもあるけど、淡白だとか優しすぎるなんてイメージは無い。
第一、アヤさんは私の首筋に残る痕を羨んでいるワケで。
それを残したのは高遠なんだから、そうすると矛盾にならないかな……?
「真琴先生?どうしたの?」
「……あ、はい、ごめんなさい」
「どうしたの、ボーっとしちゃって」
ふふ、なんて品良く笑いながら、アヤさんはブレスレットみたいにキラキラした腕時計を見遣った。
「あ、いっけない。次の時間は生物室で実験だったわ。じゃあ、お先に失礼するわね」
彼女はコーヒーとビスケットのパックをビニール袋に回収すると立ち上がった。
「はい。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
くるりと踵を返した彼女は、何かを思い出したように振り返り、
「そうそう――真琴先生、『食品化学』の授業、一緒にやらせて貰える事になったの。小宮先生からもう聞いてる?」
「え、ええ。聞いてますよ」
「そう、よかった。小宮先生に無理矢理お願いした甲斐があったわ。これからは、授業でもよろしくね?」
「は、はい―――」
アヤさんは、眩しいくらいの活き活きとした笑顔を残して職員室から出て行ってしまった。
彼女のピンヒールの音が遠ざかったのを確認すると、芽衣が不安げに私を見た。
「ま、真琴ちゃん……」
「………」
何かおかしいと思ったんだ。
3年選択授業のまとめ役だからって、小宮先生があんな提案をしてくるなんて。
アヤさんが共同授業に加わるのは、彼女の意思だったのだ。
じゃあ何で?やっぱり、高遠がいるから?
そうすると、アヤさんの『付き合いたい人』っていうのはやっぱり―――。
それなら何で今更?高遠と結婚まで約束しながら取りやめて、何年も経った後にこんな……。
ダメだ。考えれば考えるほど分からなくなってくる。
高遠の考えてることもそうだけど、アヤさんがどう思ってるのかが一番分からない。
漠然とした胸騒ぎを抱えたまま、スピーカーから5時間目の予鈴が聞こえた。
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