Scene.3-1





「真琴センセ、さよーならー」

「はいはい、気をつけて帰るのよー」

 一日の授業の終わり、職員室前で下校途中の生徒に声を掛けられ、私はひらりと片手を振った。

 そんな私も勤務時間が終わり自由の身になったのだけど、今日も高遠は早く帰れない――部活があるから、

 私は何処かで待っていなくてはならない。

 どうしようか、いっそ直接マンションで待っていようか? いや、でも……。

 アヤさんが現れてからというもの、私の中には形の無い不安が居座っている。

 学校という場所を通して、高遠とアヤさんはお互いに顔を合わせることが出来る。

 例え高遠が彼女を避けていても、偶然鉢合わせてしまう可能性が無いワケじゃない。

 いつでもどんな時でも、泰然自若としている高遠が、彼女の存在でああも心を掻き乱されている現実を見ると、

 出来るだけ彼の近くで待っていたいと思ってしまうのだ。

 通勤用のトートバッグを肩に掛けると、私の足は階段を下り、中庭の方へ向かった。

 黄色やオレンジの小花や、ピンク色の小さな牡丹みたいな花が賑やかせている花壇の脇を通り、

 並ぶベンチの中の一つに腰を掛けると、私はふぅっと長く細いため息を吐いた。

 季節の植物に心を和ませる暇もなく、一人になると心配事ばかりが頭をちらつく。

 
『その彼とは昔付き合ってて、一度別れたのよ。その後、アメリカに飛んだの』

 昼間のアヤさんの話が本当だとすると、アヤさんが好きな人っていうのは――高遠である確率が極めて高い。

 何せ、彼女と高遠は7年もの長い間付き合っていたのだ。逆算すると……高校1年位から?

 別れた理由が『身体の相性』って言うのであれば、それより前の彼氏っていうのは考え辛い気がしてしまう。

 しかし―――『身体の相性』って、それ、本当なのかな。

 7年越しの交際にピリオドを打つには、あんまりな理由だ。そんなに経つまで気がつかないものなの?

 でも、あのアヤさんのことだ。絶対無いとは言い切れない。そういえば高遠も、

 
『男と駆け落ち……それも、俺の研究室の教授と――』

 って言ってたっけ。もし本当だとしたら、彼女も残酷なことをするものだ。

 好きだった彼女を顔見知りに取られるっていうのは、物凄く傷つくに違いない。

 私みたいに学生時代、長続きしない薄っぺらい恋愛しかしてこなかった人間にはきっと、想像もつかない程――。

「…………」

 何だかな。高遠がアヤさんのことが好きってワケでもないし、アヤさんの好きな人が高遠だってハッキリしたワケでもないけど、

 こういう結論の出ないことを独りでぐるぐる、頭の中で考えていると、すっごく落ち込んできてしまう。

 これじゃ、芽衣のことをとやかく言う資格なんて無い。

 結局皆、自分の恋愛のことになると自信がなくなったり、悲観的になったりするっていうことなのだ。

 今まで自分自身、恋愛っていうものに此処まで翻弄されたことって無いから、どうしていいのか分からないのが正直なところ。

 それだけ高遠のことを好きってことなのかもしれないけど――これが続くようなら、身が持ちそうもない。

 ……芽衣も今きっと、同じ気持ちなんだろうな。不安で不安で仕方ない、みたいな。

 内心で弱音を吐いていると、30メートルくらい先、校舎から中庭へ並んで歩いてくる二つの影が見えた。

 女子と男子。制服のシルエットで直ぐに分かった――これからデートか、微笑ましいねぇなんて思いながら、

 男の方のルーズな制服の着こなしに目を瞠った。よくよく目を凝らして彼の全身、そして顔を観察する。

「まさか……椎名君?」

 間違いない。片方は芽衣の心を悩ませる張本人、椎名隼人だった。

 
『放課後も、よく女の子と一緒にいるところを見るの』

 芽衣の言葉が蘇る。そうか、隣に居るのが例の――。

 思うが早いか、私はパンプスであることにも構わず、距離のある彼らの場所まで全速力で駆け出した。

「椎名君っ!!」

 私が彼の名を呼びながら捕って食いそうな勢いで近づいてくるのを、二人は酷く驚いたように目を白黒させている。

 無理も無い。突然、教師に名指しされダッシュで追い掛けられれば、誰だって恐怖を感じるだろう。

 二人の前で仁王立ちした私は、情けなくもこれだけの距離でゼーゼーと息を切らして、彼らを交互に見遣る。

「……な、何? 真琴センセ、なンか用?」

「千葉センセ、どうかしたんですか? 椎名に用事?」

 私の勢いを不審がる椎名君と、その横――黒髪で肩くらいまでのヘアスタイル、控えめだけど、利発そうな顔立ちの女子生徒。

 あれ、この子何て言ったっけかな……確か椎名君と同じ3−Cの……えっと……。

「てゆーか、声デカすぎじゃない? 恥ずかしいからやめてくンない」

「だ、だって、こうでもしないと椎名君、逃げるじゃないの」

 隣できょとんとしている彼女の名前を思い出すことができないまま、椎名君の言葉に口を尖らせた。

 教室での席は思い出せるのに――自分の記憶力のなさが嫌になる。

「別に、逃げた覚えはないけど」

「椎名、もしかして私ってお邪魔?」

 私と椎名君のやり取りを聞いて、彼女は気を利かせたつもりなのか、私と彼との目を見てそう訊ねた。

 でも椎名君は、「いや」と首を振って、

「全然。真琴センセと話すことなンて、何も無いし」

 ―――なんて、ぬけぬけと言うものだから、イラっとする。

「あのねぇ! 私がわざわざ椎名君に話しかけに来るってことは、理由は一つに決まってるでしょ!?」

「何?」

「そりゃあ、芽――」

 親友の名前を出そうとして、咄嗟に口を噤んだ。

 芽衣と椎名君が教師と生徒以上の間柄っていうことを、この女子生徒は知らないかもしれない。

 この子を疑うワケじゃないけど、下手すると悪いウワサになったりして芽衣の教師生活に差し障ることも有り得る。

 ここは慎重になって正解だろう。

「だから、なンだよ、真琴センセ」

 それを知ってか知らずか、ニヤリと得意げな表情で私を見つめる椎名君。

 ……全くもう、私が何を聞き出したいかなんて分かってる癖に!

「何だよ、じゃないでしょ! どうするの?あの子、完全に誤解しちゃってるよ」

「誤解って?」

「だから――椎名君が最近、こうして女の子とコソコソしてるの、疑ってるんだよ」

「疑ってる?」

「言われなくても分かるでしょ!? あの子、椎名君が何か言えない様なこと隠してるんじゃないかって、凄く不安がってるのよ!」

 話の飲み込みが悪い椎名君に苛立ちを募らせた私が、ピシャリと言い放った。

 すると、椎名君が反応するよりも早く、隣の女子生徒の顔色が変わった。

「ヤバいじゃん、椎名。もしかして、私達のこととか、もう知ってるのかもよ?」

 隣の女子生徒が少し焦ったような口調で彼に訴える。

 ――私達のこと? 聞き捨てならない台詞だ。

「私達のことって何!? っていうか、貴女ね、椎名君と毎日帰ってる子って」

 この子も教え子の一人だということを忘れかけて、今度は彼女に噛み付く。

 今の私は教師という立場ではなく、100%、芽衣の親友だった。

「えっと……毎日ってワケじゃないけど、まぁ、それなりに……」

「やっぱり」

 馬鹿正直に答えるその子は、私の詰問にすまなそうな顔を見せる。

 そうやって申し訳なさそうにしているってことは、もしや椎名君には芽衣が居るって知ってて、その上で彼を狙ってるとか……?

「ねぇ、コイツに絡むのやめてくンないかな。困ってるじゃん」

 私が彼女に標的を変えたことが不快だったのか、彼女を指しながら私を睨み付ける。

「椎名君が答えてくれないから、彼女に聞いてるのよ。文句ある?」

「あるに決まってンだろ。大体、真琴センセに答えなきゃいけないよーなことはないし」

「何ですって!?」

 彼の棘がある台詞にカチンときた。私もついつい眉間に皺を寄せながら声を荒げる。

「オレが放課後何処で何してようと、真琴センセには関係ないじゃん。真琴センセは怜のカノジョかもしれないけど、

だからってオレのことまでとやかく言われる筋合い全然無いからさ。勘違いすンなよ」

「な、何よその言い方!」

 一瞬、高遠の名前が出たことにヒヤっとした。

 だけどまぁ、音だけ聞けば有り触れた名前だし、隣の子が彼らの関係を知ってる可能性だってあるのだから、

 あまり神経質にならなくてもいいかもしれない。

 それより――彼の言ってることはもっともだ。私は高遠の恋人だけど、椎名君とはただの教師と生徒に過ぎない。

 だけど……。 

「私と貴方は関係ないかもしれない。でも、あの子は私の友達だもの。友達が悩んでるのを放ってなんておけない!」

「あのさあ、友達友達って言うけど、だから結局真琴センセには関係ないってことじゃん」

「はぁ?」

「なンか、保護者みたいだよ、その言い方。オレとあの人との問題なんだから、あンまり介入してこないでくれる」

 頭を掻いたりしながら至極面倒そうに話す彼。『あの人』とは芽衣のことだろう。更に、

「あの人だってもういい大人なンだからさ。そうやって保護者ヅラするの、どうかと思うよ」

「なっ……! べ、別に、保護者面なんてしてないわよ! 私はただ、あの子が心配で……!」

「だからおせっかいだと思うンだよね、真琴センセのそーゆーとこ」

「………!!」

「ま、まあまあ、椎名も千葉先生も落ち着いてよ」

 私が本格的に椎名君と臨戦態勢を取ろうとしたところで、女子生徒が止めに入る。

 元はと言えば、この子が椎名君に近づいたから――って、勝手に決め付けてるけど――こんなに揉めてるっていうのに。

「……何か、お取り込み中みたいだから、椎名、今日は止めておこうか?」

「え?マジで?」

 怒り心頭の私に怯えたのか、女子生徒は椎名君と何か予定があったみたいだけど回避するつもりらしい。

 椎名君はそれが残念なのか、ちょっとつまらなそうな声音になる。

 ……いっつも放課後に二人で消えるって話だけど、一体何をしてるって言うんだろう。気になってしょうがない。

「私は、椎名さえよければ何時でもいいよ。また明日でも、明後日でも」

「いや、でもさ――少しの時間でもいいから、したいんだ」

 軽い口調の彼女に対して、何処と無く切迫した様子の椎名君。

 少しの時間でも、したい?……何を?

 二人の会話の中身が全く把握できずにぽかんとしていると、女子生徒の口からとんでもない言葉が発された。

「あはは、大丈夫。私の家でよければ、いつでも好きなだけ、その……していいから。そんなに焦らないで?」

 椎名君を落ち着けるように優しく宥めた彼女。問題は、その言葉の中身だ。

 『私の家』で、『いつでも』、『好きなだけ』、『シていいから』……だから『焦らないで』?

 そのフレーズ同士が結びつくと、私の頭の中はピンク色の想像で満たされていく。

 そ、それってまさか―――つまりは、そういう……!!?

「な、な、な、何よそれ……! 貴方達っ……!?」

 彼女の言葉があまりに衝撃的過ぎて、私はワナワナと身体を震わせて問うた。

「説明して、椎名君! どういうことよ、今の言葉、どういう意味!?」

 この男、まだ高校生の癖して二股掛けてたなんて。その上、この子とは身体の関係まで……!

 信じられない!こんなの、芽衣に対する裏切りだ。

「どういうことって、言葉通りの意味だよ」

 言葉通りの意味ですって!?そんな偉そうに言える事じゃないでしょ!

 何でそこで怒るんだという態度でいる椎名君に、私はいよいよ鼻持ちならなくなった。

「椎名君、最低! 元々良い子だとは思ってなかったけど、そういう後ろ暗いことする子じゃないって信じてたのに!」

「あァ?」

「貴方にはガッカリよ。全然悪いと思ってないのね。そんなんじゃ、芽衣を任せるワケにいかないわよ」

「真琴センセ、何言ってンの?」

「貴方に芽衣は任せられないって言ってるの! もういいわ、貴方がしてること、私が全部芽衣に洗いざらい話すから。

どうぞその子のお家で仲良くやってちょうだい。じゃあね!」

「あ、ちょっと――」

 彼が制するのも聞かず、怒りが頂点に達した私は啖呵を切って校舎の方へと大股で歩き出した。

 つい興奮して芽衣の名前を出してしまったけど、それを悔やむよりも椎名君への憤りの方が断然強かった。

 何てヤツ。

 放課後、女の子と二人で帰ることが多いって言うから、ひっそりデートでも重ねているのかと思いきや、

 身体を重ねてましたって、そんなのあんまりだ―――って、上手いこと言ってる場合じゃない。

 私も予想しなかった事実を知って、パニックを起こしたんだろうか。それは置いといて。

 椎名君ときたら、罪の意識なんて全く無いんだから呆れてしまう。

 芽衣を裏切っているっていう自覚が無いんだろうか?

 最近の高校生って、セフレとか割り切りとか、そういうの流行ってたりするの?

 いや、そんなのどうでもいい。とにかく彼の隠してることっていうのは――さっきの女子生徒との身体の関係だ。

 さっきの話しぶりからすると間違いない。じゃなきゃ、

 
『私の家でよければ、いつでも好きなだけ、その……していいから。そんなに焦らないで』

 なんて言ったりするものか。

 職員用のシューズボックスで下履きに履き替えながら、このことを芽衣に伝えるかどうかを考えた。

 こんな酷なこと、芽衣の耳には入れたくない気もする。

 ……でも、遅かれ早かれ事実なんだから、いつかは知ってしまうことだ。

 きっと彼女は深く傷つくだろうけど――あんな最低な男といつまでも宙ぶらりんの状態にさせてはおけない。

 知るのが遅ければ遅いほど、もっともっと辛い思いをするだろうから。

 そう見通した私は携帯電話を取り出し、『月島芽衣』の番号を呼び出すと、発信ボタンを押して応答を待った。