Scene.3-2




 
インターホンの音に反応し扉のロックを外すと、向こう側には小さく微笑む親友の姿があった。

 待ち合わせは高遠のマンション。まだ成陵の校内に居たらしい彼女を携帯で呼び出すと、二つ返事でやって来てくれたのだ。

「ごめんね、芽衣。突然呼び出しちゃって」

「ううん。いいの――それより、急に話したいことって、何?」

「うん、えっと……その、まぁ、とりあえず中に入ってよ、ね?」

「……? うん、じゃあ、お邪魔します」

 歯切れの悪い私の口調に不思議がってはいるものの、中に促すとぺこりと頭を下げ、履いていたパンプスを揃える。

 ――さて。どう説明したものか。

 瞬間湯沸かし器状態だった私は、少し時間が経過し冷静になりつつある今、彼女を呼び出したことを後悔していた。

 勿論、椎名君のしてることは許せないし、芽衣には相応しくない!って思うけど、

 私が今見てきたことを全て包み隠さず言う事が、果たして彼女のためになるのかどうか。

 今更ながら……考えてしまっている。

 前回と同じ、ダイニングスペースに芽衣を通して掛けて貰いながら、私は冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出し、氷と共にグラスへ注ぐ。

「高遠先生はまだ学校、だよね」

「うん、どうせまた職員室で課題の添削でもしてるんじゃないかな――あ、最近は化学準備室か」

 アヤさんと遭遇しないように、近頃は避難してるんだった。思い足したように付け加えると、

「やっぱり高遠先生は、長谷川先生を避けてるのかな」

 と、芽衣も察していたようで首を傾げた。

「うーん……私はそう思うよ。あまりアヤさんのことを良く思ってないみたいだしね」

「高遠先生はいつも優しくて親切だから、あまりそういう所が想像できないけど……でも、そうだよね。長谷川先生とは色々あったんだもんね」

 両手に持ったアイスティーの片方を芽衣に差出し、残った方を手前に置くと、彼女と向かい合わせに腰を下ろした。

「ありがとう。で……真琴ちゃん、今日はどうしたの?」

「う、うん……」

「真琴ちゃんが用件を言わないで呼び出すなんて、珍しいよね」

 そうかもしれない。回りくどいことが嫌いな私は、単刀直入に切り出すことが殆どだ。

 けど、今回は……。

 『私の家でよければ、いつでも好きなだけ、その……していいから。そんなに焦らないで』

 女子生徒の明るい口調が耳元でリフレインされて、思わずかぶりを振った。

 そういうことに疎い筈の純粋な芽衣を前にして、実は椎名君にはセフレがいました、なんて言えるだろうか?

 もしかしたらその女子生徒が、セフレどころか本命に昇格していた可能性だってある。

 それはつまり――芽衣の失恋を意味するワケで……。

「真琴ちゃん?」

「あ、うん、えっと……」

 芽衣を悲しませたくない気持ちは勿論あるけど、でもさっき、『いつかは知ってしまうことだ』って思い直したじゃない。

 さっき耳にしたことが事実である以上、知るタイミングが早いか遅いかってだけであって……。

 このまま椎名君と中途半端な関係が続くことの方が、芽衣にとってはマイナスなんだ――きっと。

 アイスティーのグラスに水滴が溜まり、融け始めた氷がカラン、と涼しげな音を立てた頃。

「あのね、芽衣、冷静に聞いてね。実はさっき――――」

 私は先ほど中庭で耳にした一部始終を、芽衣に伝えた。

 ・
 ・
 ・

「…………」

 芽衣は青い顔をしながら、私の話を聞き終えた。そして、

「正直に話してくれてありがとう」

 と、静かに言った。

「芽衣……」

「本当のことが聞けてスッキリしたの。本当よ。最近、ずっと椎名君のことを考えてばかりだったから」

 言葉とは裏腹に、芽衣の丸い瞳には涙が溢れていた。一方からはぽろりとその雫が頬に伝う。

 ピアノに映える白くて細い指先でそれを拭いながら、芽衣はわざと笑って言った。

「やっぱり、同い年くらいの子の方がいいよね。私なんて、年も離れてるし、可愛いワケでもないし」

「芽衣、何言ってるのよ。そんなことないって」

 元々、自信の無い芽衣は自分を責めているのかもしれない。私は、そうする必要は無いと否定した。

「椎名君に見る目が無かったんだよ! じゃなきゃ、芽衣みたいな良い子がいるのに他に目移りなんかしないもん。

芽衣は全然悪くない、悪いのはどう考えたって椎名君なんだから」

「真琴ちゃん……ありがとう、でも……」

 声を震わせながら溢れる涙を堪えようとしていた芽衣だけど、次から次へと涙が落ちていく。

「私、それでも椎名君に選んでほしかった――私を選んでほしかったの……」

「………」

 絞り出すような声で言うと、芽衣が両手で顔を覆ってしまう。

 それ以上は何も返してあげられなかった。だって、私の言葉はちっとも慰めになっていないことに気がついたから。

 例えこんな結果になっても、彼は芽衣の想い人――その彼に選ばれなければ意味が無いという、彼女の気持ちはよく分かる。

「ごめんね、泣いて。折角教えてくれたのに、真琴ちゃんも困るよね」

「ううん、そんなことないよ。芽衣が辛いの、痛いほどわかってるつもりだから……」

 流れる涙を止めるために、手の甲で強く目元を擦る芽衣が気の毒で見てられない。

「椎名君も椎名君だけど、相手の子も相手の子よね。芽衣だって特定してるかはともかく、椎名君に相手が居るのは知ってるみたいだったよ」

「そうなの……あ。真琴ちゃん」

 アイスティーのグラスを見つめたまま頷きながら、芽衣がふっと視線を上げ、思いついたように切り出す。

「一緒にいた女の子って、どんな子だった?」

 一緒に居た女の子――頭のスクリーンには、黒髪の賢そうな少女の姿が映し出される。

 でも、どうしても彼女の名前が浮かんでこない。

「それがね、私、絶対授業で係わってるはずなんだけど、その子のこと度忘れしちゃってるみたいなのよ」

「どういう感じの子かな?」

「えーっと、髪の毛は黒で、ここら辺くらいまでかな」

 ここら辺、と指先で肩の辺りを示しながら、続けて、

「顔立ちはどちらかというと真面目系で、あんまり椎名君とつるんでそうなイメージは無い、かな。多分、3−Cの子だと思うんだけど」

「じゃあやっぱり、私が見たときと同じ……きっとね、コンノさんだと思うの」

 コンノ? コンノ、コンノ――ああ、そうだ。

「紺野楓(こんの かえで)?」

「そう、真琴ちゃんの言うとおり、うちのクラスの」

 思い出した。紺野楓。こう言っちゃ何だけどあまり記憶に残り辛い生徒だ。

 私は家庭科の授業でしか係わったことないけど、少し欠席が多目かな、くらいの印象しかない。

「椎名君ほどじゃないけど、1学期は早退と欠席が多くて、どうしようかなと思ったこともあったの」

 芽衣もどうやら同じイメージを持っていたらしい。3年にもなって珍しいタイプだ。

「その紺野さんと椎名君て、元々、仲いいの?」

「……ううん。少なくとも1学期は二人で居るところなんて見たことない。

寧ろ紺野さんは、椎名君のお友達の土屋君と話してることが多いんだけど」

 土屋君――土屋礼司(つちや れいじ)か。彼なら私も覚えがある。椎名君の親友であり隣の席である彼は、

 1限の授業の前にモーニングコールならぬモーニングメールを送っていたのを何回か目撃している。

 親友というだけあって容姿や雰囲気なんかも似通っている二人だ。

 ――土屋君の方が格段に授業態度がいいってことだけ除けば。

「ってことは何、紺野さんって土屋君と付き合ってたの?」

「そこまでは分からないけど……でも、椎名君よりは土屋君との方がしっくりくる気はするかも」

 いくら担任でも生徒の交友関係までは詳しく分からない。ということは、ここからはあくまで予想の範囲になってしまうんだけど――。

「大人しそうな癖して、紺野さんもやるわね」

「え?」

 意味が分からないとばかりに芽衣が聞き返す。

「だってそうでしょ。このパターンはきっと、土屋君から椎名君に乗り換えたってことよ」

「えぇ??」

 すっかり泣き止んだ芽衣は、私が大真面目に語りだした仮定に驚きの声を上げる。

「いや、乗り換えたかどうかは分からないけど――もしかしたら、紺野さんも二股掛けたりしてる場合だって考えられるし」

「ま、真琴ちゃん、何言ってるの?」

「何って、出てる情報で冷静に状況を判断してみたんだけど」

 悪びれず言う私を見かねて、芽衣が慌てたように両手を振った。

「そんな、憶測だけで決め付けちゃったら紺野さんに悪いよ。事実無根かもしれないんだし」

「事実無根じゃないわよ。だって椎名君と紺野さんは殆ど毎日、家でイチャイチャしてるんだから!」

「…………そ、そうだけど」

 芽衣の表情がまた曇る。私ったら、芽衣の気持ちも考えないでズバズバと酷な事を……。

「ご、ごめんね、芽衣。私もついカーっとなっちゃって……」

 もっと言葉を選ぶべきだったか。大人しく項垂れて反省してみせる。

「ううん、いいの。でもそうだよね、椎名君が放課後、紺野さんと――っていうのは、真琴ちゃんが直接聞いたんだもんね」

 受け止めた辛い事実を噛み締めているのだろう。寂しげに、また双眸を潤ませながら芽衣が呟いた。

「……真琴ちゃん、私、椎名君が離れて行っちゃうの、分かる気がするの」

 芽衣は、くしゃりと顔を歪ませて、か細い声で続けた。

「私、男の人に慣れてないし、普通の人にはちょっとしたことでもドキドキしちゃって……私のこと、つまらないって思ってたのかも。

椎名君と付き合ってたかどうかは分からないけど、私のこと好きだって言ってくれたのは本当なの。だから、嬉しくて……」

 伏せた睫を震わせて「でも」、と首を振った。

「椎名君だって、高校生の男の子だもんね。きっと、私みたいに内気で面倒なタイプより、その――色々、オープンな子の方が都合いいのかも」

「色々オープン、っていうと?」

「だ、だから、その……そういうコトに慣れてる子の方が、付き合ってて楽しいんじゃないかなって」

「………うーん」

 早い話、身体ごとお付き合いできるような子を求めてるんじゃないかってことか。

 健全な男子高校生ならまぁ、そういうこともある。しかも、椎名君なんて見るからに遊んでそうな感じだ。否定できない。

「……私だって、椎名君となら構わなかったのに。なんて、此処で言っても遅いよね」

「…………」

「ごめんね、いっぱい愚痴っちゃった。何を言っても、椎名君の気持ちは離れちゃってるのにね」

「芽衣……」

「ちょっとでも――素敵な時間を過ごせたことを、感謝しようって、そう思うようにしたいんだけど……。

おかしいな、思おうとすればするほど、涙が出てきちゃうの……どうしてかな……」

「芽衣、泣かないで」

 今までの不安や焦燥感が身体から溢れてくるように、子供みたいにしゃくり上げる芽衣。

 彼女の背中を撫でようと、立ち上がったところで玄関の扉が開く音がした。

 私は腕時計で時間を確認して、妙だなと思った。高遠が帰って来るにはまだ早すぎる。

 ということは―――。
 
「真琴センセー、いるンだろ?」

 何ていうタイミング。廊下の向こうから、あのハスキーボイスが私を探していた。

 その声が聞こえたと同時、芽衣の肩が怯えたようにびくっと揺れる。

 椎名君が自宅に帰ってくるなんて珍しい。大方、私の剣幕に嫌な予感でもしたのだろうか。

「――さっきの話、よくわかンないから説明してほしいンだけど………って」

 ダイニングの扉を開けて、私の他に芽衣の姿を確認すると、椎名君は、

「芽衣センセ……!? なンで……」

 と、驚きを隠せない様子だった。

 芽衣も芽衣で、涙でいっぱいの顔を見られないようにと、慌てて掌で拭いたりしていたものだから、

「――まさか、泣いてンの? 真琴センセ、どーゆーコト?」

 全く事態を把握していない椎名君は、疑問符を浮かべるばかりだった。

「どういうことって、椎名君のせいに決まってるでしょ!」

 そんな態度でさえも癪に障った私は、芽衣に替わってそう言ってやった。

 誰のせいで泣いてると思ってるんだか。本当に腹の立つ!

「私がさっき貴方達から直接聞いたこと、全部芽衣に洗いざらい話すって言ったでしょ」

「それなンだけどさ、オレ、真琴センセが何を怒ってるのかよくわかンないんだよね」

 この期に及んで暢気なことを言い出す彼に、凄まじい反発心が湧いてしまうのは仕方ない。

「椎名君! いい加減にしないと、私だって怒るよ!?」

「つか、もう怒ってるじゃん」

「……!! あのね……!」

 この男……! ああ言えばこう言って、憎たらしいんだから……!

 このままだと怒りの余り破裂しかねない私の様子を察知したらしい椎名君は、手をひらりと振って、

「ジョーダン。いや、でもさ、オレ悪いことしてないワケよ。どうして真琴センセはそんなに怒ってンの?

そンで―――どうして芽衣センセは泣いてンの?」

 やっぱり芽衣のこととなると、彼も気掛かりなのだろう。

 私に向けたものとは違い、芽衣を見据えたその目は真剣そのものだった。 

「……椎名君、私、やっぱり魅力ないのかな」

「はァ?」

 芽衣は顔を合わせるのが怖いのか、俯いたままそう訊ねた。

「椎名君からしてみたら、私って年上すぎるのかな。それとも、もっとその――慣れてる子の方が良かったりするの?」

「ちょっと、何言ってンの、芽衣センセ。オレ、何かマズいことした?」

 あの遠慮がちな芽衣が必死に訴えてるって言うのに、まだしらばっくれるつもりなのか。

 そう思った時、頭の中で何かが弾ける音がした――無理、もう我慢できない!!

 次の瞬間、私は椎名君の方を向いて、彼の頬を力いっぱい叩いていた。

 その場に、ばしん!と乾いた音が響き渡る。

「っつ……! なにすンだよッ!!」

「何すんだよじゃないわよ! いっそグーで殴ってやりたかったけど、平手にしたのがせめてもの優しさよ。感謝しなさい!」

「何が感謝しろだ、ヒトのコト殴っておいてバカじゃねェの!? 教師のクセに何言ってンだよ!」

「貴方こそ、自分が何言ってるのか分かってるの!? 言い訳は聞き苦しいのよ! 殴られた理由も分からない癖して偉そうにしないでよ!」

「偉そうにしてンのはソッチだろ!?」

「誰が偉そうなのよ!」

 一度火がついてしまったら、私も椎名君も、なかなか引き下がれないタイプなのだろう。

 頭に血が上ったまま、売り言葉に買い言葉状態で応酬を繰り返す私達。

 その横で、どう収めたらいいのか分からずオロオロとするばかりの芽衣が、ひたすらに眉根を寄せている。

「大体、真琴センセに怒られるような理由なンて無いって言ってンだろ! それなのにしつこいンだよ!」

「それを自覚してないところが問題だって言ってんのよ! 何回も同じこと言わせないで!」

「無いモンは無いンだからしょーがないだろ!?」

「ちゃんと自分の胸に手を当てて訊いてみるのね! 本当に疚しいことがないのかどうか!」

「だから無いって言ってンだろ! ソッチこそ同じこと何回も言わせンなよ、もう更年期障害出てンじゃねーの!?」

「こっ……! 馬鹿にしないでよ! 私まだそんな歳じゃないんだから!」

「さァどうだかね、同じ説明何回もしなきゃいけない辺り、もーヤバいンじゃん?」

「一体何の騒ぎだ?」

 段々、言い争う内容が主旨からずれて来た頃、廊下の方からストップの声が掛かった。

 私も椎名君もよく知っている人物の声。その声の主が廊下を経て、開けっ放しだったダイニングの扉から顔を出す。

 其処に居たのは、辟易した様相の高遠だった。

「何時から家は動物園になったんだ。 外にも全部筒抜けで近所迷惑だろう。静かにしなさい」

「………」

「………」

 第三者である高遠の理性的な態度が、感情に走っていた私達をクールダウンさせたようで、

 特に教師であり椎名君よりも年上である私は、我を忘れて激高してしまったことを追及されている気がして居心地が悪くなった。

「た、高遠先生……すみません、お邪魔してます」

 芽衣が椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。高遠は芽衣には笑顔を見せつつも、

「月島先生、いえ、どうぞごゆっくりしていってくださいね。 ……で、隼人、真琴。どういうことなのか説明してくれないか」

 と、私達に向ける視線は鋭かった。

 私達の言い争いは余程五月蝿かったのだろう。対ご近所への心証が悪くなったのではないかと案じているに違いない。

 高遠らしい思考回路だけど、ここで私が折れるワケにはいかない。

「ど、どうもこうもないわ。椎名君ったら、最低なことしておいて悪くないって言うんだもの」

「だからそンなことしてないって言ってンだろ? しかも突然殴りやがって、ワケわかンねェ」

「殴られた理由もわからないなんて、どうかしてるわ。頭が悪いにも程があるわよ!」

「だってオレ、何も悪いコトしてないし。真琴センセ、何かカンチガイしてるンじゃないの?」

「何ですって? まだ言うの!?」

「わかった、二人とも落ち着け。お互い何を言ってるのか俺にはさっぱりわからない」

 途中参加の高遠には全く状況が見えていないようで、肩を竦めてお手上げとばかりに深く息を吐いた。

「あの」

 ――と、芽衣が意を決したように声を上げ、私も高遠も椎名君も、彼女の方を一斉に向いた。

「私……椎名君と二人で、きちんと話をしたいの。ダメかな?」

 芽衣が縋るような目で椎名君を見つめ、その答えを不安げに待っていた。