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Scene.３-４

　その黒い影は「にゃあ」と愛らしい声で鳴いて、扉の向こう側で立ち尽くすアヤさんの姿を琥珀色の瞳に映していた。

「もしかして、ネコ？　ネコなの？」

　怒りに震えていたアヤさんはネコの姿見つけると一転、トランクやバッグを放り出して玄関に上がりこみ、しゃがんでネコの身体を抱き上げた。

「うわぁ、お前も大きくなったわねー。　今じゃもう立派に大人猫なんだから」

　普段、私や椎名君をなかなか相手にしてくれないネコは、アヤさんに抱かれると大人しく身を委ねていた。

　そうだった――ネコは元々、アヤさんと高遠が同棲していた時に飼い始めたって、高遠が言っていたっけ。

「長谷川先生、いい加減に……」

「ねぇ、私もうオウチに上がっちゃったし。ネコとの久々の再会も噛み締めたいから、紅茶でも淹れてくれると嬉しいんだけど？」

　さっきまでの剣幕は何処へやら。満面の笑顔で、お茶まで要求してくる彼女の厚かましさに負け、

　私と高遠は彼女を家に上げることになったのだった。

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　ダイニングのテーブルには私と高遠が隣り合わせに掛け、高遠の向かい側にアヤさんが座った。

「懐かしいわねー、この間取り。配置は少し変わってるけど、よく覚えてるわ」

　アヤさんは高遠と同棲していたって、椎名君が言っていた気がする。

　その口ぶりだとこの部屋に住んでいたんだろう――きょろきょろと室内を見回しながらアヤさんが感嘆した。

　現在自分が出入りしている空間をそんな風に言われると、正直快くない。

「怜、相変わらずの甘党なのね」

　私が淹れた紅茶を各々に配り終えたところで、アヤさんが高遠のソーサーを指して可笑しそうに言う。

「…………」

　高遠は特に反応を返すこともなく、其処に添えられた3本のシュガースティックを全て紅茶に流し入れ、掻き混ぜる。

「アヤさん、お砂糖は？」

「私は要らないわ。いつもストレートなの」

「長谷川先生、いい加減教えてください。貴女は何しに来たんですか」

　紅茶を一口啜った高遠が、厳しい瞳でアヤさんを見据えながらもう一度訊いた。

「そんなに急かさないでよ。少しくらい、思い出話をさせてくれたっていいじゃない」

「俺にそのつもりはないですし、貴女と話すことも何も無い」

「どうして？　学校で避けられてるみたいだからわざわざ家に来たのよ」

「どうして？　ですって？」

　高遠が気色ばんでいるのが、その尖った口調で手に取るように分かる。

　彩さんの無神経な態度も気になるけど、何より私は、そのうち高遠が逆上してしまうんじゃないかとハラハラしていた。

「久しぶりに会ったっていうのに、冷たいんだもの―――あら、美味しい。アップルティーね。凄く香りがいいわ」

　自分から高遠に別れを告げたことなんて忘れてしまったかのように寂しげに言ったかと思えば、

　ついでに紅茶に口を付けて、望外とばかりに喜んでいた。

　この茶葉は芽衣とよく行く『Apple Jam』で買ってきた、確かなモノ。美味しいに決まっている。

　しかし……アヤさんは本当にマイペースな人だ。

　しっかり紅茶の感想を述べながら、こんな心臓に悪い会話――私には出来ない。

「では逆に訊きますけど、貴女は今更俺と何を話す必要があるって言うんですか？」

　高遠がそう言いたくなるのは当たり前だ。

　共に結婚を誓い、いよいよ式へという時期に突然目の前から消えてしまったアヤさん。

　その彼女と係わるということは、自らの古傷を広げるだけなのに。

「私ね、やっと気付いたの」

　アヤさんは意味深に笑って見せながら、熱っぽく高遠を見つめた。

「あの頃の私は不安だったのよ。高校1年生のときから貴方と付き合い始めて、大学を卒業するまで、他の男となんて接したことなかった。

貴方しか知らなかったの―――だから、いざ結婚ってなったら、たまらなく不安になってしまった。マリッジブルーってヤツかしら」

「……それで？」

　健康な若い男子であればイチコロだろうその視線も、高遠には通用しないようだった。

　彼はただ冷ややかに、続きを待つだけだ。

「私は本当に怜を選んでいいのか――ううん、もっと言うと、結婚すること自体を選択していいのか、わからなくなっちゃったのね。

若気の至りっていうか……」

「だから小林先生と一緒に消えたって言うんですか？」

　高遠の口調が一段とキツくなる。

　おそらく小林先生っていうのは――アヤさんと駆け落ちしたっていう、大学の研究室の教授の名前だろう。

「それは――何て言えばいいのかしらね。若かった貴方には無い、大人の魅力に惹かれた……というよりも、

貴方と比較したことで魅力的に見えてしまった部分があったんだと思うわ。私、あれ以来小林先生とは会ってないもの」

「…………」

「あれから色んな人と付き合ってみて、やっと分かったのよ。やっぱり、私には貴方しかいない。

私、貴方を――怜を一番愛してるんだって気付いたの」

「話というのはそれだけですか」

　アヤさんの言葉を断ち切るように高遠が言った。

「貴女は、自分がどれだけ身勝手なことを言ってるのか分かっているんですか？」

　人間、本当に腹が立った時には、案外こんな風に冷静に気持ちを吐露出来るのかもしれない。

　高遠の反応はまさにそうで、強い憤りを抱えながらも淡々と吐き捨てるだけだった。

　私も同感だ。高遠の言う通り、アヤさんは勝手すぎる。

　あんな酷いフり方をしておいて、あっけらかんと『やっぱり貴方の事が好きでした』なんて。

　アヤさんと破談になった時、彼が受けたであろう心のダメージを考えた事があるのだろうか？

　酷い―――こんなのあんまりだ。高遠が可哀想過ぎる。

「身勝手？　そうかしら？」

　ところがアヤさんは高遠の言わんとしているところを知ってか知らずか、笑みさえ浮かべて小首を傾げた。

「他の人と触れ合ったから、貴方の良さを改めて知る事ができたのよ。

確かに、時間は掛かり過ぎてしまったけど――私はそれが身勝手だとは思わない」

　驚きを通り越して呆れ果てた。それを身勝手と呼ばずして何と言うんだろう？

　彼女の自分中心の思考回路は、最早、私と高遠には全く理解できなかった。

「話にならない。やっぱり、お引取り下さい」

「どうして？　まだ話は終わってないわ」

　話しても無駄だということを高遠も悟ったらしく、手短に彼女を追い出そうとしたけれど、アヤさんは引き下がらない。

「貴方が好きなの。貴方だって私しかいないって……私のこと愛してるって、そう言ったわ。

人の気持ちって、そんな簡単には変わらないものでしょう？」

「その時から何年経ってると思ってるんですか？そんなのもう、昔話に過ぎないんです――それに」

　高遠は私を一瞥してから、

「俺は真琴と付き合っているって、そう言いましたよね？」

　失礼ながら、非常識な発言に毒気を抜かれていた私だけど、

　よくよく考えたらアヤさん――この人、凄い人だよなぁとつくづく感心する。

　だって、現在のカノジョである私の目の前で、高遠に告白してるってことでしょ？　なかなか出来る事じゃない。

　よっぽど自信があるのか、それとも……。

「ええ、そうみたいね。でも、恋人がいるから気持ちを伝えちゃいけないってことは無いでしょ？」

「…………」

　あまりに堂々とした物言いに、高遠も絶句してしまったようだった。

　いや、まぁそうなんだけど――だから、それを私の前で言うか。

　何ていうか、本当にぶっ飛んでる人だ。

「そういうワケだから、真琴先生。怜のことは諦めて欲しいの」

「え？」

　彼女が極自然に、爽やかに切り出したものだから、一瞬何を言われているのか把握できなかった。

　怜のことは諦めて欲しい？　私がカノジョなのに？

　―――これって、所謂、宣戦布告ってヤツなんだろうか？

　今までアヤさんと高遠の話に口を出すまいと、沈黙を守っていた私だけど、この一言には我慢ならなかった。

「あ、諦めて欲しいって―――何言い出すんですか？　長谷川先生」

「だって怜は私の事が忘れられないんだもの。それで真琴先生と付き合うっていうのは気の毒だわ」

「き……気の毒……？　私が？」

　何で彼女に気の毒がられなきゃいけないのか。

　あれ、私、ここ怒っていいところだよね？　そうだよね？

　とか、誰かに確認したくなるくらい、さらりと言ってのけたアヤさんは、ダメ押しに、

「今まで私の替わりをしてくれてたことは感謝してるわ。ありがとう」

　なんてにっこりと微笑んで見せた。

　か―――替わり、だってぇ！？　私が？　アヤさんの！？

「ちょっとそれ、どういうことですか！？　い……幾ら何でも失礼じゃありませんか！」

　仮にも年上だし、高遠の元カノで――凄く大切な人だったみたいだし、なるべく無礼なことはしないように気をつけてたつもりだけど。

　もう限界――。

　今までセーブしていただけに、私の怒りは瞬く間に臨界点を越え、今しがた椎名君にそうしたように癇を立てた。

「出てって、今すぐ出て行って下さい！　彼だって、貴女と話すことは何も無いって言ってるじゃない！」

「うふふ、真琴先生までそんな怒らないでよ、怖ーい」

「これが怒らないでいられますか！」

　冗談じゃない。彼氏の元カノが現れたってだけでこっちは気を揉んでるのに、

　その元カノが彼氏に猛アタック掛けてるのをみすみす放っておけるワケがない。

　それに、一番の問題は――高遠に対して罪悪感を持ってなさそうな、彼女の、この気楽な態度だ。

「この際だから言っておきますけどね、アヤさん。貴女がそうやって自分勝手に振る舞ってたことで、

この人がどれだけ傷ついたかわかってるの？　結婚を約束した彼女に裏切られるって、凄く凄く苦しいし辛いし悲しいと思う。

悩んだし絶望もしたと思う。そんなこの人の気持ちを考えたことが、少しでもあるの！？　それを、今更やり直したいだなんて――」

「真琴」

　私が畳み掛けて言葉を紡ぐのを高遠がそっと、頭を撫でて制した。

　何故窘められたのか疑問に思ったけど、直ぐに気付いた。私は自分でも意識しないうちに涙を零していたのだ。

　気持ちが昂ぶってしまったためだろうか。

　人前で涙を見せるのは好きじゃない――目頭を押さえたその時、

「でも、これでハッピーエンドでしょう？　私の気持ちは怜にあるんだから」

　雷に打たれたような衝撃を受け、私は言葉を失った。

　『最終的に高遠へ戻ってきたんだから、それでいいじゃない』って、そういうこと？

　これだけ利己的な人も珍しい――この人のアタマは本当にマトモなんだろうかとさえ疑えるくらいに。

「長谷川先生。貴女の言いたいことはよくわかった」

　ぽかんと口を開けたままの私を見て、深くため息を吐いた後、高遠が言う。

「でも、何を言われようと俺と貴女はもう他人だ。ましてや、貴女と付き合うなんてことは考えられない。帰って下さい」

「無理よ」

「無理じゃない、頼むからもう――」

「だから、無理なのよ。帰る家なんて無いんだもの」

「え？」

　計らずとも、私と高遠の声がハモった。

　帰る家がない……って？

「最初から怜の家にお世話になる予定だったから、帰国直後はウィークリーマンションを契約して、今日がその引き払いの日だったの」

「まさか長谷川先生、このトランクとバッグ……」

　彼女の椅子の後ろに無造作に積んだ荷物たちを、恐る恐る指差すと、彼女はこっくりと頷きながら、

「そう、私の生活必需品。だから、お願い。此処に置いてほしいの――少しの間でいいから、ね？」

　アヤさんは両手を合わせてそう言うと、その手の陰でちらりと高遠の顔を覗き見ている。

　その視線につられて隣を見遣る――まさかとは思うけど、同情したりしないだろうか。

　私の心配に反し、高遠は毅然として首を横に振った。

「駄目に決まってるでしょう。俺が頷くとでも思いましたか？」

「ふふ、やっぱり？」

　彼女も、高遠が素直に受け入れるとは思っていなかったようだ。何故か茶目っ気のある笑いを浮かべたりしている。

「じゃあこうしましょう。私を此処に置いてくれたら、私と怜が婚約してたこと、黙っててあげる。これでどう？」

「…………」

　高遠は予想していなかった条件を突きつけられて、面食らっているようだった。

「は、長谷川先生……それじゃ、脅しじゃない！」

　私は堪らず声を上げた。

「脅しかしら？　でも婚約してたのは事実だし、別に悪いことでも何でもないでしょ？」

　白々しくも首を傾げたりしているのが苛立たしい。

　高遠の家を頼って自宅マンションを解約するなんて―――無鉄砲なようで、何て用意周到なんだろう。

　完全に確信犯だ。そうに決まってる。

　アヤさんはきっと、長年の付き合いから、高遠が人一倍、体裁や他人の目を気にするタイプだってことを知っている。

　だから彼が断れないようにこんな交換条件を………この人、何も考えていないようで、意外と頭が回る人かもしれない。

「きっと怜のことだから、普段生徒や先生方にプライベートなこと、話したりしてないわよね？　私達のことを話したら、盛り上がってくれるかしら」

　嫌味のつもりなのだろうか。楽しげに言ってみせるあたり、私の推測は外れてなさそうだ。

「そんなの卑怯よ！」

「そうかしらね？　ただの昔話じゃない。さっき怜もそう言ってたし」

「…………」

　高遠は、痛いところを突かれたというように困惑した様子で口を閉ざしたままだ。

　勿論、心情としてはそんな要望を跳ね除けたいんだろうと思う。

　でも、昔の古傷を――しかも、こと恋愛に関する内容を不特定多数の人間に知られるのは、彼じゃなくても抵抗があるだろう。

　私個人としても出来れば避けたい。ただでさえ校内では、私と彼の関係は内緒ってことになってるのに、

　彼女が余計なことを言い出したら、最悪――それが過去のことではなく、現在進行形だという既成事実が出来上がってしまう可能性がある。

　そんなの嫌だ。

　どうしよう。このままじゃ、アヤさんは本当に高遠の家で暮らすことになってしまう。

　そうしたら型破りな彼女のことだ。私なんかじゃ想像もつかない手段で、彼の心を取り戻そうとするに違いない。」

　何とかしなきゃ――何とか、何とか……！

「は、長谷川先生、私の家に来たらどうですか？」

　焦った私は、刹那、とんでもないことを口にしていた。

「え？　真琴先生のウチに？」

「そうです。私の家――ここからもさほど離れてないので成陵にも近いし、通勤には快適だと思うんですよね」

「で、でも……」

　アヤさんもこの提案は想定外だったらしく、口ごもってうろたえている。

　そんな風に慌てた彼女の姿は珍しい。

「長谷川先生、よく考えてみてください。この人との関係を周囲に洩らすってことは、振った貴女の印象は確実に悪くなるんですよ？

そんなことしたって、この人にとっても貴女にとってもメリットなんて無いんですから。ね？」

　私は、今しかないとばかりに鋭く切り込んだ。すると、彼女は意外すぎるほどあっさりと、

「そうかぁ……それもそうねぇ」

　と認めてしまった。……あれ？納得しちゃうの？

　もしかして思いつきで出した条件だったのだろうか。

　どちらにせよ、これでアヤさんが高遠家に住むっていう展開だけは免れたワケだ。よかった……。

　とか、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。

「決めた。それじゃ、私、真琴先生のオウチでお世話になることにするわ」

「―――――え」

　………そうだった！！　一番肝心なことが頭から抜け落ちていたけど、

　高遠家っていう選択肢が消えた今、彼女が身を寄せるのは私のマンションってことになる。

「あ―――いや……その……」

　寧ろ思いつきで発言してしまったのは私の方だった。

　とにかく高遠の家から遠ざけたい一心で口に出してしまった言葉は、もう引っ込められない。

「真琴先生の方から誘ってくれるなんて、ありがたいわ。じゃあ遠慮なくお邪魔させて頂くわね」

「でも、えーっと、あの―――」

「まさか今更ダメなんて、言わないわよね？」

　有無を言わさないような朗らかな笑顔を向けられてしまうと、もう為す術がない。

「は、はい―――」

　私が自ら言い出してしまったことなのだから、悔やんでも仕方が無いのは分かっている。

「真琴、本当にいいのか？」

「う、うん、大丈夫……」

　高遠が気を遣って、耳元で訊ねてきたりもしたけれど、此処にきて「やっぱ無理です」なんて言うワケにもいかず。

「うふふ、よかったぁ。真琴先生、今日からよろしくね？」

　――あぁ、もう、どうにでもなればいい！

　こうして私は、恋人の元カノとの同居生活を余儀なくされたのだった。