Scene.3-6
「え? じゃあ長谷川先生って、今は真琴ちゃんのお家に住んでるの?」
成陵から最寄り駅にある繁華街への道すがら、昨日の出来事を告げると、彼女は驚いた様子で訊き返した。
放課後、校長の声掛けにより突発的にアヤさんの歓迎会を開くことが決まり、私と芽衣はお店を押さえるために一足早く移動中なのだ。
「そうそう。まぁ、勿論私と一緒に住んでも意味が無いこと位は分かってるだろうから、新しい部屋見つけるまでって約束だけど」
元は高遠と一緒に居たいがため、こんな衝動的とも言える思い切った行動をやらかしたのだ。
それが叶わなければ彼女だって独りの方が気楽な筈。私は心底疲れたように大きく息を吐いた。
「高遠の元カノってだけでこっちは色々複雑なのに、アヤさんと話すのって、結構ストレス溜まるんだよね」
「ストレス?」
私は、今思い出せる限りのイラっとした出来事を頭に浮かべながら、
「シャンプーとかパジャマとかにさり気なくケチつけられたりとか、今日の朝なんて紅茶出したら『真琴さぁーん、私、コーヒーがいいのー』
とかダダこねられるし、挙句の果てには折角作った朝ゴハンを『私ダイエット中なのー、だからいらなーい』とか言われて……!
本人、悪気がないところが益々面倒くさいのよ。これから暫く続くと思うと、先が思いやられるわ」
ワザとアヤさんの口調を真似ると、余計腹立たしく思えてくる。
「……真琴ちゃん、お疲れ様」
芽衣は私の怒りが再燃する様を見て心から労わってくれた。
「大体ね、あんなにスタイルいい癖にダイエットなんて嫌味なのよ。お陰で私独りで朝食を取るの、気が進まなかったわ」
そういや、昨日昼食を一緒に取った時もやけに小食だったっけ。ビスケットみたいなのを食べてた気がする。
彼女が痩せなきゃいけないのなら、私の立場はどうなるっていうのか。
だから私もつい、食べる量を調節したのは内緒の話だけど。
「長谷川先生、ダイエットの必要なんて無いのに」
「高遠に振り向いて貰うために頑張ってるらしいよ。ていうか、努力するべきはそこじゃないのにね」
本当に高遠とヨリを戻したいなら、その前にすることがあるだろう、と―――たとえば、まず高遠に謝罪する、とか。
アヤさんの思考回路はやっぱりズレてる。
「それより芽衣、昨日は大丈夫だった? 私もそんな感じで色々あったからさ、連絡できなくてごめんね」
「ううん、平気だよ」
芽衣はゆっくりと首を振った。
「結局、椎名君と話はついたの?」
「うん――私が飛び出しちゃった後、椎名君が追いかけてきてくれて」
「それで?」
「えっと……とにかく、私が悲しむようなことは何もしてないって、ハッキリ言ってくれたの。詳しいことは言えないけど、それだけは信じてほしいって」
「何ソレ。どういうこと?」
私は椎名君の言い分が気に食わなくて声を荒げたけど、芽衣自身は何故か満足そうだった。
「あのね、真琴ちゃん。私、椎名君が信じてほしいって言うなら信じようと思うの」
「え!?」
「勿論、真琴ちゃんが教えてくれた紺野さんのこと、忘れたワケじゃないし、正直、どうして話してくれないんだろうってまだ思ってる。
けど、椎名君が私に信じてほしいって、そう言ってくれるってことは――まだ私を必要としてくれてるってことでしょ?
それなら、私もそんな彼を信じたいって……それが素直な気持ちなの」
「芽衣……」
「ほら、それに私、まだ自分が椎名君とどういう関係なのかわかってないし……椎名君も、そういうことは言わなかったから。
だから、彼女に昇格できるまで、もう少し頑張ってみようかなって思って」
「…………」
はにかむ様な横顔を見つめながら、我が親友ながら、何て健気で良い子なんだろうと思った。
私が芽衣の立場だったら正直に理由を吐き出すまで問い詰め兼ねないけど、彼女はそうじゃない。
「そっかぁ。まぁ、芽衣がそう言うなら……。でも、芽衣は優しすぎるよ」
「そうかな?」
「そうだよ。だって結局、紺野さんと放課後何をしてるのかは言わなかったんでしょ?」
「うん……」
「どう考えても怪しいじゃない。私はそういうの我慢できないから、優しいなぁって思っちゃう」
「そういうのじゃなくて……。でもきっと、そのうち話してくれるかもって、気長に考えることにしたの。
私ってすぐ考え込んじゃうから、もう少し気持ちに余裕を持とうっていう自分への戒めでもあるんだけど」
なるほど。芽衣は確かに、思い込んだら良くも悪くも一直線な部分がある。
精神的に落ち込まないよう、可能な限りプラスに考えるっていうのは悪くないのかもしれない。
そうこうしている間に、車の騒音が気になるようになった。駅の傍までやってきたのだ。
この辺り、駅の西側は住宅街、東側は繁華街とほぼ二分されている。
「さて、校長も困ったものよねー。当日になって歓迎会だなんて。お店決める方の身にもなってほしいわ」
「そうだね。でも週の真ん中だし、そんなに混んでないことを祈って探すしかないよね」
私個人が全くアヤさんを歓迎していないので、尚更そう思えてしまう。
ていうか、普通、こういうのって男性教師に頼むだろうと思ったけど、たまたまその場に居合わせた教員の中で、
手が開いていたのは私と芽衣だけだった。
まぁ芽衣と二人なら……と引き受けたのだけど、纏まった人数が入れる部屋や店を探すのは難しいかもしれない。
駅の構内に備え付けてあるフリーペーパーのラックから、クーポン雑誌を抜き取り『居酒屋』の特集ページを捲っていく。
「じゃあ、手当たり次第訊いてみようか」
「うん、そうしよう」
私と芽衣は互いに頷きながら、不本意ながらもアヤさんのために骨を折ったのだった。
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「それじゃあ長谷川先生の着任を祝しまして、乾杯!」
「かんぱーい!」
校長の音頭と共に、皆が冷たく冷えたビールジョッキを持ち上げて見せた。
校長、教頭含め、総勢15名。当日の召集だということを考えたら、なかなかの参加率だ。
成陵の先生方は、放課後早くに帰宅されることが多いけれど、ちゃんと声さえ掛ければ時間を空けてくれるのだというのが意外だった。
「お店を選んで下さったのは千葉先生と月島先生でしたよね? 当日で、よく個室なんて取れましたね」
私の向かい側に座る川崎先生が、にこにことした人の良い微笑を浮かべている。
探せばあるものだ。彼の言うとおり奇跡的に個室を予約することが出来、私も芽衣も一安心していたところだ。
「とにかく電話しまくりましたからね。希望通りのお店が見つかって良かったですよ。ね、芽衣」
「うん、ホッとしました」
私が斜め向かいに座る芽衣に呼びかけると、彼女もこっくりと頷いた。
校長から出た希望は、座敷タイプの個室がある居酒屋――これが案外見つかりにくく、梃子摺ったのだ。
「真琴さぁーん、芽衣先生。ごめんなさいね、私のためにお手数かけちゃったみたいで」
「……アヤさん」
すぐ隣からいつもの、あの甘ったるい声音が聞こえてきてゲンナリした。
っていうか――彼女の歓迎会なのは知ってるけど、どうして私の隣が彼女なの?
家で相手をするだけでも、もうお腹いっぱいだっていうのに。理不尽だ。
「アヤさん、折角の歓迎会なので、いつもあまりお話しない先生方の近くへ行けばいいのに」
テーブルは大きく分けて3つ、それぞれ5人ずつのグループに纏まっている。他のグループを指で示しながら提案してみると、
「えー、私はここがいいの。ねー、怜?」
「………」
アヤさんは嬉しそうに逆隣へ話しかけた。勿論、そこに居るのは高遠だ。
そうか、だからか。アヤさんがこの席を離れたくないのは、彼の傍に居たいからだろう。
高遠は不本意そうにしながら、ビールに口を付けている。
「た、高遠先生はそうは思ってないみたいですけどね〜? ほら、今後のことを考えたら、色んな先生と仲良くした方がいいんじゃないですか?」
「うふふ、気を遣ってくれてありがとう。でもね、私、怜と一番仲良くしたいから大丈夫」
「…………あーそうですか」
「真琴ちゃん、落ち着いて」
私が露骨に不機嫌なのを察知した芽衣が、宥めるようにそう言うけど、心配無用だ。
私だってこういう場で揉めてしまうほど心得が無いワケじゃない。運が悪かったのだと諦める事にした。
結局、このテーブルは川崎先生、芽衣、高遠、アヤさん、そして私という、個人的には普段通りのメンバーだった。
「しかし、最初拝見した時は、化学科の先生には見えませんでしたよ。凄くお綺麗だったもので」
「あら、川崎先生、お上手なのね」
「はは、本当のことですから。1年の授業を持ってるんでしたっけ。大変ですか?」
「やっぱり慣れない事が多いですからね。勉強しながらやらせて頂いてます」
アヤさんの歓迎会とはいえ、テーブルごとに分かれればそれぞれのエリアで会話が進んでいく。
このテーブルでは川崎先生が気を利かせてアヤさんへ話題を振ってくれるので、
私は芽衣が取り分けてくれた前菜のサラダをひたすら咀嚼していた。
外に居るときくらいは、彼女を他の人に任せたい。そんな意識が働いてしまうのは罪じゃない筈――と、自分に言い聞かせてみたり。
ふと、アヤさん越しに高遠の様子を窺ってみた。高遠は相変わらず浮かない表情でぼんやりとしている。
考え事でもしてるのだろうか。アヤさん達の会話を聞いているワケでも無さそうだし……。
「長谷川先生と高遠先生って、随分古くからのお知り合いなんですよね?」
「ええ、そうなの。怜、そうよねぇ?」
「……え? あ、はい」
川崎先生はよかれと思ったのだろう。高遠にも話を振り、上の空だった彼は慌てて頷いた。
「やっぱり高遠先生って、高校時代もモテたんですか?」
「勿論、モテましたよ〜。面倒見よかったから、どちらかというと後輩にモテたかしら。生徒会をやっていたこともあって、皆知ってたし。
そうそう、当時はサッカー部もやってたのよね。試合で彼目当てに来る子も居たんだから」
アヤさんの言葉を耳にしつつ、彼が生徒会長だったことやサッカー部だったことを思い出した。
モテ系って意味では、何の捻りもなく詰まらないくらい、イメージぴったりだ。
が、サッカーっていうのを改めて聞くと意外かもしれない。アレって、続けてると足短くなるとか言うじゃない?
その割りに高遠はスラッとしているから、迷信なんだろうか。なんて、そんなことを考えてしまう。
「何度聞いても羨ましいなぁ。高遠先生、付き合ってる女の子何人居たんですか?」
川崎先生が高遠をからかうようにそう言うと、すかさずアヤさんが、
「あらー、そんなことないんですよぉ。怜ったら、こう見えて凄く一途だから、ずーっと同じ子と付き合ってたんです」
「!」
私は手持ち無沙汰で飲んでいたビールを吐き出しそうになった。
――ちょっと、アヤさんったら。何を言い出すんだろう?
「え、そうなんですか? 高遠先生、その辺は一切話してくれないから、是非聞きたいなぁ」
「ふふ、何でも聞いてください。知ってる範囲なら何でも答えちゃいますよぉ」
「そんなに楽しい話でもないですよ。僕も、昔過ぎて忘れてしまったくらいです」
高遠が控えめに話題を逸らしたい素振りを見せるけど、川崎先生とアヤさんは妙に盛り上がってしまっている。
「ほ、本人も乗り気じゃないみたいですし、止めといた方がいいんじゃないですかねぇ?」
助け舟を出すというよりは、単にアヤさんが変なことを言い出さないか危ぶんで、つい口を挟んだ。
ところがアヤさんは慎むどころか、
「いいじゃない、怜も忘れかけてるみたいだし、川崎先生だって聞きたがってるんだから」
なんて、川崎先生を盾にして、あくまで高遠の話をしたいようだった。
「でもほら、楽しい話じゃないって言ってるし。川崎先生だって高遠先生に無理強いさせてまで、話してほしくはないと思うの」
私は必死な感じが出ないように――したつもりだけど、しっかり川崎先生の目に訴えかけて食い下がってみたら、
空気を読んだらしい川崎先生が冷や汗をかいて、
「あ、いやー……そ、そうですね。今日は長谷川先生の歓迎会でもありますし――あ、そうだ、
長谷川先生も高校時代はモテたんじゃないですかー? それこそ、デートの相手には困らなさそうですよね、なんて」
と、方向転換をしてくれた……のだけど。
「私? 私も学生時代は一途でしたよ。高校から大学までは、一人の人としか付き合いませんでしたから」
……うっかりしていた。
これじゃ、アヤさんに焦点を絞っても、会話の内容は全く変わらない。
アヤさんの高校時代を語るということは、高遠の高校時代を語るということなのだ。
「そうなんですか、余程素敵な人だったんでしょうね」
「ええ、彼も凄くモテたから、いつも誰かに盗られやしないか不安だったんですよぉ」
「へぇ、成陵には高遠先生以外にもそんなにモテる人、居たんですね」
幸か不幸か、川崎先生はそのことに気付く気配もないけれど。
「……もう勝手にしたら。知ーらない」
私は誰にも届かない声でボソリと呟いて、ジョッキのビールを一気に飲み干した。
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宴が進むにつれて、私たちは、断片的にではあっても高遠とアヤさんの仲睦まじさを思い知るのだった。
もっとも、川崎先生だけはそれが彼ら二人のこととは把握していない。アヤさん個人の思い出話だと解釈して聞いているのだろう。
事情を知ってる私と芽衣――とりわけ、高遠の恋人である私には、全く面白い話題ではなかった。
いや、寧ろ苦痛だった。過去の出来事とはいえ、どうして元カノとのラブラブっぷりを聞かなきゃいけないのか。
私は次々と運ばれてくる料理を平らげることで、不快感を誤魔化しているところだ。
「でねぇー、その時の彼ったら、私に黙ってリングを用意してくれてて〜」
アヤさんはお酒に弱いらしく――もしかしたら、弱い振りをしている可能性もあるけど――頬を赤く染めながら、ちょっと舌ったらずになっている。
今は丁度、付き合って5年目の記念日にサプライズで貰った指輪について、か。
高遠は遡れば遡るほど、マメな男だった。
毎日、朝起きたメールと寝る前の電話は欠かさず、休日のデートコースは何も言われずとも毎回違ったものを用意し、
特に、イベントごとは欠かさずしっかり計画、そして実行。
受験期に心細くてつい愚痴を零した夜には、電車の無い時間だというのに彼女のもとへ駆けつけたこともあったらしい。
私にはあまりそういう分かりやすい愛情表現をしないから、最初、本当に高遠との話なのかどうか疑ってしまった。
私の知ってる高遠は電話やメールも気が向いた時だし、休日の予定は私が立てることが多い。
イベントごとは――まぁ、まだ4ヶ月だからね。特にこれといって通過してないから分からないけど、
1ヶ月単位で祝ってるカップルもいるから、何とも言えない。
とにかく、アヤさんがやたら大事にされてるっていうか……愛されてたんだなっていうのだけは伝わってくる。苛立たしいくらいに。
「いやー、本当良い彼氏ですね。気が利くっていうか、わかってるっていうか」
しかし川崎先生も人が好いな。こんなノロケ話に延々付き合ってくれるなんて。
私と芽衣なんて早々にリタイアして――参加する気すらなかったけど――、たまに相槌を打つくらいだ。
けどまぁ、建前でも興味があるなんて言ってしまった手前、離脱できないだけだったりして。
「そうなの〜。誰に合わせても恥ずかしくない、自慢の彼氏だったんですよぉ〜。あぁー、あの頃に帰りたぁい」
帰れなくしたのは自分だろうと、ともすれば突っ込んでしまうところだった。危ない危ない。
「今は恋愛してないんですか?」
「好きな人はいるのよー。でもね、相手がその気無いみたいで」
川崎先生が訊ねると、アヤさんはアルコールで赤くなった瞳を逆隣の高遠へ向けた。
高遠はこの話が始まってから殆ど、我関せずというように黙っていた。
どうしても会話に参加せざるを得ない場合は僅かに反応したりしていたけど、それもアヤさんではなく川崎先生へ向けてだ。
周囲との調和を乱したくない高遠にとって、あまりこういう態度を取りたくない気持ちと、
アヤさんと関わりたくない気持ちとが鬩ぎ合っている困った状況なのだろう。切実に気の毒だ。
「長谷川先生、押しが強そうだから恋愛上手な感じしますけどね」
「駆け引きとかは苦手かしら。正直だし、ついつい思ったこと全部言っちゃうのよね〜」
「そういうところは羨ましいなぁって思いますよ、私」
ヘソを曲げて会話に入ろうとしない私の替わりに、芽衣が素直な感想を洩らす。
と―――。
「やだぁ、芽衣先生の方が断然羨ましいわよ〜」
「え?」
急に話を振られて驚いたのだろう。芽衣が少し怯えた瞳でアヤさんを見た。
私もその下世話な口ぶりから不吉な予感を感じ取り、もったいぶった笑いをちらつかせる横顔を凝視した。
「ふふっ、私、知ってるんだから〜、芽衣先生」
「え、な、何ですか?」
「芽衣先生ったら、ウチの高校の男の子と付き合ってるんでしょ? やる〜」
「は、長谷川先生っ……!」
この酔っ払いは、ポロっととんでもないことを口にした。
みるみるうちに、ほんのりピンクだった芽衣の顔から血の気が引いていく。
「羨ましい話よねー。若ーい高校生と相思相愛だなんて。私もそんな風に――」
「長谷川先生、ちょっと」
逸早く動いたのは高遠だった。アヤさんの手首を無理矢理掴んで、部屋の外へ連れ出そうとする。
「いたた、何よ……!?」
「飲みすぎですよ、外で頭を冷やしましょう」
普段は迂闊に見せることの無い、高遠の不機嫌そうな表情。
それもそうだろう。このままアヤさんが酔いに任せて喋り続けたら、芽衣と椎名君ことは勿論、
椎名君と高遠の関係も暴かれてしまうかもしれない――しかもこんな、他の教員や教頭、校長も居る空間で。
一体、何を考えてるんだか……!!
「あはは、やだー、アヤさんたら酔っ払ってヘンなこと言い出して……」
高遠がアヤさんを強制連行するのを横目で見送りながら、私はそう笑い飛ばした。
幸運にも他のテーブルは別の話題で盛り上がっていて、私達に注目している教員はいなさそうだ。
「相当飲まれてたみたいですからね」
川崎先生も、まさか大人しい芽衣に限ってそんなこと……と、冗談として受け止めてくれたようでホッとした。
芽衣は酷くショックだったみたいだけど、誰も怪しんでいないことを理解すると漸く表情から緊張が消え、
隣の川崎先生と、アヤさんの体調の心配をしていた。
「ごめん、私ちょっとトイレ」
私はそう言って席を立つと、消えた二人の行方が気になり様子を見に行くことにした。
一旦店の外にでも出たのだろうか。店員が忙しくチューハイやらカクテルやらを運ぶ脇をすり抜け、店の入り口近くを通ったところで、
ガラス一枚隔て、店外であるエレベーターエリアで何かを言い合っている二人の姿を見つけた。
言い合っているとはいっても、私の場所からじゃ彼らの声は聞こえず、様子や表情で推し量ることしか出来ない。
それなのに、不満を隠さない高遠の顔と比べてアヤさんは何処か嬉しそうで、妙にアンバランスだ。これじゃ何のヒントにもならない。
どういう状況? 直接乗り込んで、確かめなくちゃ―――なんて足を踏み出したその時。
自分の目を疑うような光景が、視界に飛び込んできた。
突然……高遠がアヤさんの身体を引き寄せ、彼女の顎に手を添えたかと思ったら――そのまま、口付けたのだ。
職員室での、頬に落とした挨拶みたいなキスじゃなく、唇と唇が重なるそれ。
しかも、私の見間違いじゃなければ、高遠の方から、アヤさんへ。
どくんと嫌な感じに心臓が跳ね上がる。
え、嘘でしょ? 何で? どうして? これってどういうこと?
アヤさんを嫌っているはずの高遠が、どうして自ら彼女にキスなんて――……。
見てはいけないものを見てしまった。そんな感情に支配され、私は何事も無かったかのように個室へ引き返す。
部屋の中は先ほどと変わらず、いい感じに酔っ払った面々が、世間話から仕事の愚痴まで様々な話を繰り広げている。
そんな騒がしさの中で、私の思考はふわふわとしていた。現実味が無いのだ。
もしかしたら自覚が無いだけで、私も案外、滅茶苦茶、酔っ払っているのかもしれない。
今私が遭遇してしまったものは、アルコールが見せた幻想。きっとそうだ。いや、そうに違いない。
「真琴ちゃん、おかえり」
個室の扉を開けると、芽衣はもうすっかり平素の落ち着きを取り戻していた。
「……ただいま」
そんな彼女とは反対に、私は内心の動揺を悟られないよう精一杯の笑顔でそう応えた。
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