Scene.4-2




 恐る恐る、振り返った先には―――。

 『………高遠!!』

 当然、声には出さなかったけれど、其処には白衣を脱ぎ、いつものスーツ姿の彼が居た。

 彼が此処に居るということは、さっきの、アヤさんと檜山君のキスを目撃したってことなのだろうか。

 高遠は『声を立てるな』と釘を刺すように私を一瞥して、室内に視線を向けた。

「あ、あああ、あの――長谷川先生っ……!」

「うふふ、可愛い。照れちゃったのかしら? でもこんなの、挨拶みたいなモノじゃない?」

 自分理論を振り翳しながら、アヤさんは檜山君の白衣のボタンに手を伸ばす。

「だ、だめ――ですよ、こんな、そのっ……あのっ!」

 彼もコレが非常事態だと理解はしているようだけど、あまりの驚きようで上手く言葉が紡げないらしい。

 アヤさんの手を払おうとするけれど、その手を逆に絡めるように握られてしまっていた。

「……震えてるわ。驚いた? ごめんね――でもあんまりに貴方が素直で可愛いものだから」

「え……あ、う……」

「素敵よ、檜山君」

 甘い声音でそう囁き、彼女は彼の白衣の下の、スラックスのベルトを外そうとしているようだ。

 あの独特の金属質な高音に重なって、檜山君のうろたえた小さな悲鳴が混じる。

「ちょっ――それは、マズいですっ……! ここ、学校ですし――」

「場所なんて関係ないわ。こういうこと、嫌い?」

「嫌いとかっ、そ、そういうんじゃなくてですね―――」

「じゃあ良いじゃない。一緒に気持ちよくなりましょうよ?」

「わ、わわっ……そんな――んっ……!」

 彼女のトンデモ発言に引き摺られて目を白黒させていた檜山君の声が、少しだけ湿り気を帯びてくると、

 高遠は私の口元に回した手を解いて、音を立てないように踵を返した。

 中の様子が気にならないではなかったけど、今は二人の様子よりも高遠がどういう気持ちでいるかの方が重要に思えて、

 私は彼を追いかけようとした。その時―――。

 部屋の中のアヤさんと、瞳がかち合う。……覗いていたのを、気付かれてしまったのだ。

 焦ったけれど彼女は薄く笑みを浮かべるだけで、私の存在など気に留めない素振りで檜山君に構っている。

 ――――まさか、私が見ているのを知ってて、わざと?

 私は彼女の視線を振り切るように顔を背け、今来た化学室の方へと戻っていく高遠のもとへ駆け寄った。

「ねぇ、今の――……」

 今しがた施錠したばかりの扉を開け中に入る彼に私が声を掛ける。

 私を向いた高遠は、感情の無い、冷たい表情をしていた。

 まただ――この間の、ホテルの時みたいな、鋭い視線。

 まるで私が彼に甚振られていた頃に見せていた、冷酷な悪魔のような顔。

 彼の纏った雰囲気に圧倒され、悪いことをしているワケでもないのに変に緊張してしまう。

 そのまま、彼が私の反応を待っていた。声を掛けたのだから、その内容を促しているのだろう。

「あ……えっと……」

 咄嗟に口から零れた言葉だったので、特に彼に伝えるべきことは無くて困ってしまう。

 こんな状況で、どんな言葉を掛けたらいいのか分からなかったのもあるけど――ただ、彼の思考を知りたかっただけ。

 今の出来事を目にして、どんな心境なのかを確かめたかっただけ、なのだ。

「――や、やだねアヤさんったら……教育実習生相手に、あんな……」

 この空気感を断ち切りたいがために、私は笑い混じりにそう言って見せたけど、無理したように声が上ずってしまう。

「真琴、おいで」

「え――――きゃっ」

 私の手首を引いて、無表情の高遠が私を化学室内へ入れた。そして乱暴に扉を閉める。

「な……何?」

 大きな音に吃驚した私が控えめにそう訊ねると、彼はやっと口元を歪ませて笑い、私のスーツのボタンに手を掛けた。

「ちょっと……!」

「――あんな風に見せ付けられたら、欲しくなるのは仕方ないだろう?」

「な、何言い出すのかと思ったら―――……!! ここ、学校だよ!?」

 彼が何をしようとしているかを理解した瞬間、私は彼の腕を押さえながら抗議した。

 放課後とはいえ、まだ生徒も教師も多数残っている校内で、この男は一体 どうしてそんな無茶なことを……!?

「彩も、場所は関係ないって言ってただろう」

「アヤさんの言うコト真に受けてどうすんのよ!? いいからちょっと、冷静になってよ」

 さっきの二人と同じ問答だな、とかうっすら思考を巡らせつつ、高遠が彩さんの滅茶苦茶な理論を盾にするなんて絶対変だ。

 何が彼の衝動を掻き立てたのか――考えようとすればするほど、アヤさんの顔が脳内にチラつく。

「いいから、黙って―――」

「ふ……う、っ………」

 音量を抑えられなくなりつつある私を宥めるために、彼が私の唇を奪い、文字通り口を塞いだ。

 ――苦しい。呼吸の暇も与えてもらえないキスは、彼の感情を感じさせない。

 ただ唇と唇を合わせただけの、愛しさの伝わらない行為だった。

 がむしゃらに、私の口腔を犯すだけの……。

「――……っ、真琴、好きだよ」

「はあっ……はぁ……っ」

 解放され酸素の足りないぼうっとした頭に、昨日のあの信じられない光景が浮かんでくる。

 やっぱり高遠は、まだアヤさんを想っているのだろうか。

 居酒屋の時に見たあのキスは、彼がまだアヤさんを好きでいる証……?

「全然っ……伝わってこないよ……」

 蓄積された不安感が思わず口を吐いた。

「大丈夫、直ぐに伝わる」

「―――んっ……あっ、やっ……」

 そういうことじゃないと反発するより前に、高遠がスーツやブラウスのボタンを手際よく外していき、そこから片手を忍ばせる。

 胸の覆いの隙間から、頂を摘まれると否応無く嬌声が洩れた。

「乗り気じゃない割りには、反応してるな」

「違うっ……」

「否定しなくたっていい。身体に訊いた方が早いから」
 
「ぁ、うぁっ……!」

 飄々とした態度でそう言うと、彼はやっと治り掛けた首筋の痕に重ねるよう、口付けして吸い上げる。

 ほんの少しの痛みと共に、おそらく其処がまた色を残しただろうことを悟った。

 その痕があるだろう辺りを指先で撫でながら、高遠が満足そうに微笑む。

 『キスマークって独占欲の証らしいから。そんなに激しく残すような人なら、真琴先生はすごーく愛されてるのね』

 不意に、いつかのアヤさんの言葉が蘇った。

「ん……んんっ……!」

 スカートからストッキング越しに下着を弄り、その中心に触れる彼の指は、力任せで痛いくらいだ。

 ……私は本当に、高遠に愛されているのだろうか?

 こんな風に、荒っぽく触れることなんて今まで無かった。

 私と彼の気持ちが一つになってからは、乱暴にされることなんて無かったのに。

 まるで、私じゃない人を抱いているような―――……。

 ――――――!

 そう思った瞬間、ついさっき檜山君とアヤさんが何気なく口にしたフレーズが頭を過ぎった。

 『並んでると姉妹みたいっていうか――』

 『似てるかしら? 私と真琴さん』


 少しずつ熱を持ち始めた身体が、急速に冷めていくのを感じた。

 私とアヤさんが、似ている……。

 その事実が、昨日から彷徨い続けている無限ループから出口へ連れ出してくれるような気がした。

 これまで全く意識しなかったことだけど、私はそれを言われたのが初めてじゃない筈だ。

 他に誰がそれを言っていたの――?

 思い出したら怖い気がするけれど、燻ぶる気持ちを清算する方法はそれしかないとばかりに、私は答えを探した。

 ………そして、それは思いの他あっさりと、糸のように手繰ることができた。

 『センセ、ちょっとアヤに似てるし。雰囲気とか、話し方とか』


 高遠の過去を椎名君から聞いたとき。

 『新学期に貴女と出会って、当時の彼女を思い出して――』

 『俺を裏切った彼女を連想させる貴女を、支配してみたいと思ってしまった』


 高遠がこの化学室で、私に告白してくれたとき。

 アヤさんを良く知る椎名君や高遠自身から、しっかりそう言われていた。

 あぁ、そうだ―――結局、私は最初から。

 『今まで私の替わりをしてくれてたことは感謝してるわ。ありがとう』

 ―――悪びれないアヤさんの微笑みを最後に、目の前が真っ暗になった錯覚。



 私は、アヤさんの替わりなの?



 そこまで思い至ったら、あとの謎解きなんて容易かった。

 高遠はきっと、私の向こう側にアヤさんを見ている。

 私の身体を通してアヤさんを抱いているんだと思ったら、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。

 ホテルで彼の名前を呼ばせなかったこともそう。

 アヤさんが普段から彼を名前で呼んでいるから、露骨に彼女をイメージ出来てしまうのが辛かったのかもしれない。

 そして今――衝動的に私を求めるのは、檜山君への嫉妬心を消化できないからだろう。

 彼は、私にアヤさんを重ねて―――……。
 
「いやっ!!」

 私は弾かれるように高遠を突き飛ばした。

「……真琴?」

「……誰を見てるの?」

「え?」

 私は肌蹴た上着のあわせを押さえながら、絞り出すような声で問うた。

「お願いだから、私を見て。アヤさんのことなんて、考えないで」

「………」

 高遠は驚いたように目を瞠った。

 ……やっぱり図星、なの?

 決定的だ――高遠は私じゃなくてアヤさんを見ている。

 私はアヤさんの替わりなの?
 
 本当はアヤさんと付き合いたいって、そう思ってるの?

 私が居るから言えないだけなの?

 ――昨日のキスは、やっぱりアヤさんを愛してるってことなの?

 訊きたいことは山ほど浮かんでくるけど、寒くもないのに身体が震えて上手く言葉に出来ない。

 心臓がバクバクして、今にも破裂してしまうんじゃないかと思うくらいに強く脈打っている。

 これだけ思い当たることがたくさんあっても、心の何処かではまだ高遠が否定してくれることを願っていた。

 そんなこと絶対にないって。

 アヤさんのことなんて何とも思ってないって。

 今まで私に対してはそうはっきり告げてくれていた彼だから、もう一度この場で「違う」って言ってくれさえしてくれたなら。

 私は彼を信じてみようって思えるのに……。

「――――ごめん」

 そんな私のささやかな願いを打ち砕くように、高遠が瞼を伏せて呟いた。

 ぱりん、とガラスが割れるような音が耳元で聞こえた気がした。

 そしてその音を合図に、目頭に熱いものが溢れてくるのを感じる。

「……どうして謝ったりするの」

「……ごめん、真琴」

「私は謝って欲しいんじゃない!」

 すまなそうに謝罪する、その姿を見たくない。

 不安感や焦燥感は苛立ちや憤りに取って代わり、無我夢中でそう叫んだ。

 謝るってことは、認めるってことだ。

 今、高遠は認めた。

 私が、アヤさんの替わりであることを。

 自分が導き出した答えとはいえ、現実のものとなって降りかかると身が切られるように辛い。

「……っ、もういい!」

 視界を遮る水溜りが零れ落ちそうになり、それを見られる前に私は背後の扉を開け、廊下を駆け抜けていった。

 バカみたいだ。最初から、私はアヤさんの替わりだって分かってた筈なのに。

 高遠が私を好きになったのも、アヤさんと似ているからなのに。

 幸い4階の廊下には人通りが無く、女子トイレの扉を開けるまで誰に会うことも無かった。

 個室に入ると後ろ手に鍵を掛け、声を殺して泣いた。

 抑えられない小さな嗚咽だけが、音の篭り易い空間に流れ出てしまう。

 ―――高遠のバカ。私には替わりなんていないのに。

 高遠しかいないのに……。

 後戻りのできない一歩を踏み出してしまったことを後悔する気持ちもあったけれど、

 いつかは向き合わなければいけないことだったのだからという感情がそれを上回っていた。