Scene.4-3




 化粧崩れはさほど気にならず、目の赤みが引くのを待ってから職員室へ戻ると、そこにはアヤさんの姿があった。

「真琴さぁん、今帰り?」

「…………」

 今はとても彼女と話す気分じゃなかったので、ナチュラルに聞こえない振りを決め込んで、彼女の横を通り過ぎようとした。けど。

「ねーぇ、真琴さんってば〜」

「…………」

 彼女がそんな私の心情を察してくれないことは予想できた。

 このタイミングで、テンション高めにあっけらかんと返事を促してくる彼女が不快でたまらない。

「もしかして、怒ってるのー?」

 怒ってるっていうか、今一番見たくない顔であることは確かだ。

「……怒ってないですよ。どうして怒る必要があるんですか」

 彼女に気を遣う必要はないと思いつつ、ストレートに認めるのはスマートじゃない。

 そもそも、私と高遠が揉めたことを彼女が知る筈ないのだ。

 私がしらばっくれてみると、アヤさんは「そうよねぇ」と笑いながら、

「てっきり、さっきの視聴覚室のこと、怒ってるのかと思ったわ……教師の癖にって。真琴さん、意外と真面目だから」

 ――何だ、ソッチの話なんて記憶が薄れ掛けてた。ていうか、意外っていうのは余計なんですけど。

「……やっぱり私が覗いてるの、知ってたんですね」

「ええ。気付いてたわ」

「で、結局檜山君とその……どうなったんですか?」

「どうなったって?」

「だからあの後、どうしたんですかってことです」

 言葉にしにくい事を訊き返さないで欲しい。

 下世話かとも思ったけど、中途半端に知ってしまったものだから確認しなければいけないような気持ちに駆られてしまう。

 すると、アヤさんはぷっと噴き出しながら、

「やだぁ、ちょっとからかってあげただけよ。真琴さんが居なくなってから直ぐに別れたわ」

 と言った。

「え、じゃあ彼とはあの後何も――……?」

「ええ、何もしてないわ。『挨拶』しただけ」

「…………」

 流石の彼女も純朴な学生に手を出すのは気が引けたのかと思ったら、

「だって怜も興味無さそうだったし。ちょっとは妬いてくれるかなぁと思ったんだけど」

「!」

 つまらなそうに吐き出す彼女。その言い方―――まさか。

「もしかして、私の他に高遠が覗いていることを知って、わざと檜山君を……?」

「そうよぉ。押してダメなら引いてみろって言うじゃない?」

「…………」

 呆れた。高遠に妬かれたいがために檜山君にちょっかいを出したってことか。

「でも全然効果なかったってことかしら。やっぱり私、駆け引きとか向いてないのよね」

 しっかり成功してますよ、と言おうと思ったけど、やめた。

 今、私と高遠の関係が上手くいってないことを知られるのは厄介だ。そういうのを彼女に悟らせないような行動を取らないと。

 ―――でも。

「ちょっと位は、盗られたくないとか、そういう気持ちって働かないものかしら?」

「…………」

「やっぱり私って、彼の中じゃ過去の女なのかしらね」

「…………」

「何か、落ち込んじゃうわ」

 それを私に訊いてどんな答えが欲しいんだろう。

 やっぱりこの人、私が高遠の恋人だというのを忘れてないだろうか?

 流石はアヤさん、相変わらず思考回路が独特だ。

 
『ごめん、真琴――』

 できれば耳にしたくなかった彼の謝罪が思考を通り過ぎる。 

 落ち込んじゃうのはこっちの方だ。
 
 だからこそ、高遠はまだアヤさんのこと想ってますよなんてこと、口が裂けても言いたくなかった。

「ホーント、真琴さんが羨ましいわ」

「……そうですか?」

「羨ましいわよ。私もこんな風に愛されたいって言ったじゃない。忘れたの?」

 こんな風、と私の首元を指して猫撫で声を出した。

「……!」

 ――しまった。さっき、高遠に付けられた痕……。

 伝えられた言葉のショックが大きすぎて、その存在を消す事をすっかり忘れてしまっていた。

 反射的に掌でその痕を隠す。

「ってことは、私達が遊んでる時に、怜と真琴さんもお楽しみだったってことね」

「ちょっと、アヤさん! 声大きいですから」

 まだ職員は何人か残っている。私は、今更ながら周囲の人間が聞いていやしないかとハラハラしながら周囲を振り返った。

 ……大丈夫、か。安堵の息を吐くと、もういい加減此処から離れたい気持ちが強くなり、自分のデスクに戻って荷物を纏めることにした。

 今回ばかりは、平静を保てる自信が無い。

「真琴さん、帰るの?」

 出会い頭と同じ質問に、私は「はい」と短く答えた。

 そして、彼女の反応を見る前に踵を返すと早足で職員室を後にした。


 ・
 ・
 ・

「真琴さーん、ちょっと待ってよ」

 通用門を出たところで、ピンヒールの硬質な足音とアヤさんの声が追いかけてくる。

「……何ですか、アヤさん」

 撒いたつもりだったのに付いて来るとは――放って置いてくれればいいものを。

 ゲンナリした所作を隠す事もせずに返事をすると、彼女がちょっと拗ねた仕草で姿を現す。

「どうせ同じ家に帰るんだから、一緒に帰りましょうよ」

「アヤさん、まだこんな時間ですから、何処かに寄ってきたらいいじゃないですか」

 彼女がウチにやってきてからというもの、気が休まる暇が無い。

 折角日本に帰ってきたのだから、地元の友達とでも会ってくればいいのに。

 ……いっそ何処かに外泊もしてくれればいいんだけど、私がその隙をついて高遠の家に行く可能性とかも考えたりしているのかな。

 だとしたら用意周到だ。

「今日は真琴さんと帰りたい気分なの」

「……そう言われても」

 私だって自分のことで精一杯なのだから、これ以上彼女の気まぐれに付き合うのは御免だ。

 そう思って控えめに嫌だということをアピールしてみたのだけれど。

「そうだ、今日の夕食は真琴さんの手料理でもご馳走になりたいわ」

「………」

「家庭科の先生だし楽しみだわ。うーん、何かサッパリしたものがいいわね〜、和食とか」

「………」

 ……ダメだ。今はもう、この人と会話のキャッチボールをする気力が尽きてしまっている。

 何を言われてもドッと疲れが増すばかりだ。

 もういいや。何か適当に用事がある振りをして、独りの時間を作りたい。

 好みの献立を羅列するアヤさんの横で、さてどんな理由がいいかなんて考えつつ、通用門から校門の前を通りかかると――。

「……ねぇねぇ。あれって、隼人じゃない?」

 アヤさんに肩を揺すられて、パッと顔を上げた。

 彼女は、疎らに門から吐き出されていく生徒達の脇、歩道の傍の白いガードレールに寄りかかる男子生徒を指している。

 くたびれたスクールバッグを肩に掛けた彼は、イヤホンで何か音楽を聴いているようだ。

 リズムをとっているのか、制服のズボンに添えられた指先がカタカタと動いている。

「ふふっ、隼人、久しぶりねっ!」

 私が返事をするのより先に、アヤさんが彼のもとへ駆け寄っていく。

 そして、感極まったのか彼の首元に抱きつこうと手を伸ばす――椎名君の方も危険を察知したようで、

 彼女の存在に気付いて目を瞠り後退りするような仕草を見せたものの、時既に遅くあっさりと捕まってしまう。

「ちょっ―――な、なンだよッ!」

 イヤホンを片方外しながら、彼が声を荒げた。

「うふふ、元気にしてたー? この間はちょーっとしか会えなかったわよね」

「ってか! お、お前、アヤ!? な、なンでこンなトコに居るンだよ!?」

 椎名君は慌てたように彼女の腕を振り払い、その身体を押し返した。

「んもー、久しぶりに会ったっていうのに冷たいわね。自分の勤務先に居て悪いかしら?」

 アヤさんは素直に彼から離れると、残念そうに肩を竦めた。

 この二人、結局この間高遠家ですれ違って以来、顔を合わせていなかったようだ。

 椎名君の酷く驚いた表情からも何となく理解することができた。

 その上、どうやら化学教師として着任したことも知らない様子だ。まぁ無理も無いか。

 椎名君は3年生だから、アヤさんの受け持ちの1年の授業とは何の係わりもないし、

 着任に際しては授業以外で全校生徒に向けての紹介も特に行わなかったみたいだから。

「……椎名君、アヤさんは成陵の非常勤講師になったのよ。化学科の先生ってこと」

「真琴センセ」

 やっと私の存在に気付いた彼は、私を一瞥してから、着けていたもう片方のイヤホンを取って音楽を止めた。

 そして、ブレザーの胸ポケットに挿していた小型のプレーヤーと共にバッグの中へと放り込む。

「マジかよ……」

「そうなの、よろしくね? まぁ、隼人と直接授業で係わることはないと思うけど」

 動揺を隠し切れない椎名君に対して、アヤさんはにっこりと満面の笑みを浮かべている。

 高遠の時にも感じた温度差だ。

「つか、何、アヤと真琴センセ、早速仲良くやってンの?」

 私達が一緒に歩いていたからだろう。訝しそうに私とアヤさんとを交互に見遣り、そんなことを訊く。

 好きで仲良くしてるワケじゃない!と言い返そうとしたけれど、すかさずアヤさんが

「そうなの〜、真琴さんったら優しくてねぇ。今、彼女のお家に泊めてもらってるのよ」

 なんて、嬉々として話し始めてしまった。だからそれは、致し方なかったんだってば!

「真琴センセ、アヤが怜の――……っていうのは、知ってンでしょ?」

「え? ああ、うん」

 椎名君がちょっと声を潜めて、私に訊ねた。

「……フーン、スゲェな」

 面食らったような彼が、何とも言い難い表情で呟く。そりゃそうだろう。

 椎名君は高遠の弟だから、当然事情は全部知っている。何処の世界に、元カノと今カノが一緒に暮らすなんてことがあるっていうのか。

 私が思ってる以上に、今の状況っていうのは奇妙なんだろうなと改めて感じた。

「隼人も成陵の生徒だったなんてね〜、私と怜の後輩になったってことなのね」

「ああ……まぁ」

「背、随分伸びたわね〜。すっかり大きくなっちゃって。面影は多少あるけど、怜の家で見かけてなかったら気付かなかったわ」

「………」

 昔話に花を咲かせている彼女とは対照的に、椎名君は複雑な思いがあるようで、視線を俯けたりしている。

「何よ、黙っちゃって。シャイで生意気そうなところは変わってないわねぇ?」

「…………」

「そういえば、お父さんとお母さんは元気? 今は、別に暮らしてるのよね?」

「――あのさぁ、アヤ」

 クスクスと声を立てて笑うアヤさんに、大きく息を吐いて椎名君が切り出す。

「なぁに?」

「……怜とはトーゼン、会ったンだよな? こないだ、ウチに来たワケだし」

「勿論、会ったわよ? それが?」

「……それが? か。随分ノンキな返事だな」

 『なンで今更、帰ってきたのか?』

 椎名君の心の声が聞こえるようだった。

 けれど、自分の言わんとするところを理解してくれないアヤさんに困り果てた様子で、彼はお手上げとばかりに、

 文字通り緩慢な仕草で両手を上げた。

「椎名君、アヤさんに何か言うならストレートに言わないと……」

 罪悪感というものを持っていないアヤさんのことだ。彼の気持ちは伝わらないだろう。

「ねぇ、真琴さん。さっきから思ってたんだけど」

「はい?」

「椎名君って誰?」

「え?」

 彼女が不思議そうに問いかけたその意味を、私は一瞬理解できなかった。

 誰って……そりゃ、椎名君は椎名君に決まっているだろうに。

「だから、椎名君ですよ」

「隼人のことなの?」

「当たり前じゃないですか」

 椎名隼人。それが彼の名前だ。わざわざ疑問にすることでもないと言うのに―――。

「ウチ、リコンしたんだよ」

「え?」

 今度はアヤさんが、その大きな瞳を更に大きく見開いて驚いた。

「離婚って……だから、苗字が?」

「そ。オレは母方の籍だから、椎名の苗字ってワケ」

「そうなの……。あんなに仲が良かったのに………」

 まるで自分のことのように悲しげに、眉を下げるアヤさん。

 そうか。高遠の家が離婚したのは、アヤさんと高遠の結婚が破談した後だったんだ。

 それならアヤさんが知らなかったのも頷ける。

「――だァれかさんがウチの中、引っ掻き回してくれたお陰でな。大変だったンだよ」

 さほど責めるような口調ではないものの、嫌味であることは明らかだった。

「……まさか、私と怜の話が拗れたから……?」

「それが一番の原因なのはカクジツだよ。別に、今更ウラミゴトなンて言う気無いけど、さ」

「…………そう、だったの」

 アヤさんの瞳が不安げに揺れる。そして、そんな彼女に追い討ちをかけるように、彼が続けた。

「怜だって、荒れてタイヘンだったンだぜ? 今でこそ、真琴センセと上手くやってるから良かったようなもンで。

なンで怜が居るって解ってる成陵で働くことにしたのか知らねェけど、怜の人生狂わせたって自覚、あるの?」

「…………」

 淡々と、事実だけを告げる口調。

 けれど、高遠に一番近い弟の彼から聞く内容は、彼女の心に幾分ダメージを与えたようだ。

 マイペースな彼女らしからぬ、心もとない表情が物語っている。

「ま、別に、オレにはカンケーないし、どーでもいいンだけどね」

 それが本心なのかどうなのか、私には量れなかったけれど。

 アヤさんは思いつめた表情のまま視線を椎名君から外して、くるりと方向転換をする。そして。

「――私、用事を思い出したわ。真琴さん、あまり遅くならないうちに帰るから」

「ええ? あ、はぁ……」

「じゃあ、隼人、またね?」

 最後だけは定番の微笑を覗かせつつも、唐突にそう言い出して、駅の方へと向かって行った。

「行っちゃった……」

 さっきまでは一緒に帰るって煩かったのに。

 ……椎名君の言葉が堪えたのだろうか?

 だとしたら、アヤさんにも人並みの感覚が備わっているということだ。彼女には悪いけど、何だかホッとする。

「……真琴センセさ」

 彼女が遠ざかってから、椎名君が私に向かって呼びかけた。

「ガッコで何イチャイチャしてンの?」

「へ?」

 思わず変な声を出してしまった。一体どういうことだろう?

 椎名君の視線は私の顔――じゃない、少し下か。その辺りに注がれている。

「あっ―――!」

 キスマークだ!アヤさんとのやり取りと同じように、掌でその部分を隠す素振りをすると、

 彼は唇を歪めて笑いながら、

「仲良くてケッコーじゃん。ま、この分なら、アヤが居ても大丈夫そーだな」

「こ、これはっ、そーじゃなくて!」

 からかうような椎名君の口調に、焦ってそう言い訳をするけど、椎名君はまともに取り合ってくれない。

 うう……。どうしてこういう日に限って色んな人に突かれるのか。

 それに、全然大丈夫じゃない。私は所詮、彼女の代わりなんだし……。

 ああ、ダメだ。またそんなこと考えちゃ。

「そ、それより、椎名君はこんな所で何してるのよ?」

「オレ? ちょっと、人を待ってるだけ」

 話題を変えたくて訊ねてみると、彼は案外すんなりと答えてくれた。

 待ち合わせ……まさか、あの子じゃあるまいか。頭の中にそのシルエットが過ぎった、その時。

「ごめーん、椎名、お待たせ」

「!」

 やっぱり!思ったとおりだ。

 少し息を切らせながら、黒髪の女子生徒が校門を抜け、椎名君の手前で立ち止まる。

「……あ、千葉先生」

 私の存在に気がついた彼女は、ペコっと会釈をした。

「こんにちは。……ふうん、椎名君。今日も紺野さんとデート?」

「………」

 タイミングが悪かった、とばかりに、急に椎名君が苛立った表情になる。

「ねえ、芽衣には―――」

「あの人にはちゃんと、オレのコト信じてくれって言って話はついてるンだ。だから、それでいいだろ」

 私の質問は予測できてたらしく、そう言うと、これ以上は係わりたくないとばかりに、

「紺野、行くぞ」

 と、紺野さんの腕を引っ張って駅の方へと歩いていってしまう。

「わっ、椎名!」

「ちょ、ちょっと、椎名君!」

「センセ、さよーなら」

 空いた方の手でひらりと手を振ると、それに倣って紺野さん小さく手を振り、二人で駅の方へと消えていった。

「…………」

 
『あの人にはちゃんと、オレのコト信じてくれって言って話はついてるンだ。だから、それでいいだろ』

 椎名君たら、そんなこと言って置きながら、まだ紺野さんと会ってるんじゃない。

 あの慣れた感じを見るに、相変わらずほぼ毎日、逢瀬を重ねてるんじゃないだろうか。

 ……一体、何を考えてるの!?

 コソコソ、コソコソ。結局のところ――芽衣を裏切ってるってことじゃないの?

 『椎名君が私に信じてほしいって、そう言ってくれるってことは――まだ私を必要としてくれてるってことでしょ?

 それなら、私もそんな彼を信じたいって……それが素直な気持ちなの』

 いじらしい芽衣の言葉が脳裏に浮かび、私は椎名君が本当はどうしたいのか、何をしたいのかが無性に気に掛かった。

 思いがけず自由な時間を得たこともあり、彼の気持ちを確かめたい。彼が彼女と、何をしているのかが知りたい。

 自分の身に降りかかった不幸を忘れたいためもあるのは認める。今は、なるべく自分自身とは離れたところに意識を持ちたかったのだ。

 しかし、彼らの姿が消えてしまった以上、後をつけるのは難しい。

 他に確かめられる方法っていうと……。

「……椎名君の部屋、か」

 彼の生活圏内なら、もしかしたらヒントになるものが転がっているかもしれない。

 高遠家の家の鍵は持っている。部活の時間までに終わらせれば、高遠と顔を合わせることも無いだろう。

 椎名君もそんなに早くは帰宅しない筈だ。

 そう閃いたや否や、私は高遠のマンションへと向きを変えて急いだ。