Scene.4-5
「じゃあ、真琴ちゃん。私、地下鉄だから」
「あ……うん。じゃあ、またね」
帰り道、お互い口数の少なかった私達は方向が違うこともあり直ぐに別れた。
芽衣の表情は暗く、悲しげだった。
それも当たり前か。限りなく疑わしい椎名君を信じようとしていた芽衣なのに、
それを一方的に―――。
『……オレ、芽衣センセに信用して貰えてなかったことがショックだ』
芽衣の方を責め立てるなんて。彼女の方が余程ショックだったろうと思う。
大体、さっきの椎名君の反応は過剰だ。特に、私が手にした大学ノートを見つけた時の反応は過剰というより異常に近い。
ノートの中身は確認していないから分からないけど、間に楽譜のようなものが挟まっていた。
あれは何だったのだろう。そんなに見られちゃマズいものだったのだろうか。
……何であれ、芽衣や他人に見せられない後ろめたいモノであることは確実だ。
その事実だけでも弁明する必要があるっていうのに、椎名君ときたらそれを棚に上げて―――。
「…………」
最初は、椎名君の芽衣への対応に心底頭にきていた私だけど、よくよく原因を考えると、
そういう状況を作ってしまったのは私だったじゃないか――と今更肝心な部分を思い出したりもして。
私が『椎名君の部屋に入ろう』なんて言い出さなかったら、今回の揉め事だって起こらなかったに違いない。
だけど、どうしても確かめたかったのだ。
芽衣は大事な友達だし、その友達と限りなく恋人関係に近い男が他に女を作っているんだとしたら、彼女のためにも真偽を確かめたい。
……でも、それだって、本当は芽衣が決めるべきことだったのだ。
芽衣は、『椎名君を信じてみる』と言っていた。
彼女がそう決めた以上、私は彼女の意志を尊重するべきだったんじゃないだろうか。
勢いだけで突っ走ってしまうのは私の悪い癖だ。
芽衣のためと自分に言い聞かせながら、彼の部屋を調べたいと思ったのは、他のことを考えることによって
自分自身が直面している問題――無論、高遠のことだ――から顔を背けたいという不純な動機があったのも否定できない。
個人的な感情を抑え込めないばかりか、芽衣や椎名君をも巻き込んでしまったことなのではないかと考え至ると
………尚更、気持ちが落ち込む。
私って、本当に子供だ――こういう部分は一向に成長しないのだから。
自覚していたつもりだけど、悪気はないとはいえ親友の恋愛の邪魔をしてしまうなんて。
心から芽衣に申し訳ないと感じながら、私は重たい足取りで自宅へと向かった。
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アヤさんが帰宅したのは、私が家に着いてから何時間も後だった。
インターホンが1回。2回。3回。狭い6畳の部屋に忙しく鳴り響く。
気分的にスッキリしたくてシャワーから出たばかりだった私は素早くパジャマを着て、濡れた髪をタオルで拭きながらドアを開けた。
「アヤさん、そんなに押さなくたってわかりま――……ちょ、ちょっと?」
急かしたようなその動作に、文句の一つでも言ってやろうとと口を開いたところで、私は焦った。
「あ、アヤさん。しっかりしてくださいよ」
「ただいまぁ〜……」
焦点の合わない目線で私を見て、締まりなく笑って見せるアヤさん。
これは酔っ払っているのではなかろうか――というか、赤い顔や呼気から十分に伝わってきた。
「ちょっと、どうしたんですか?」
「いいから、水くれる〜? お水」
「あ……は、はい、いいですけど……」
フラついてはいるものの、思いの他、意識はハッキリしているらしい。
ドアの前の私を押しのけて、アヤさんはピンヒールを無造作に脱いで部屋の中へ入っていく。
「……お酒、飲んでるんですよね。飲みすぎじゃないですか?」
私は施錠すると、彼女の後を追うように部屋に戻って、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルと取り出しながら言った。
「いいえ。全然〜……」
小さく首を振りながら、アヤさんはベッドを背もたれにするように座り込む。
「何が全然、なんですか。傍からはそう見えませんよ」
グラスに注いだ水を彼女の元へ持っていくと、礼を言いながら彼女がそれを飲み干す。
「…………」
そして、手にしたグラスに付いた水滴をこれといった理由も無く見つめている。
いつもは煩いくらいのアヤさんが、今日に限っては様子が変だ。
お酒を飲んでいる筈なのに、昨日の飲み会の時とは違い、ハイな素振りは見られない。
寧ろ――逆だ。物凄く落ち込んでいるから、仕方なくお酒を飲んだような、そんな感じさえする。
「どうしたんですか、アヤさん」
「何が?」
そんな風な印象を受けたせいか、返す声も何処となく沈んでいるような気がした。
「何だか、元気ないみたいですけど」
本当は私だって、他人のことを心配している場合ではないのだけど……。
普段あれだけ自由奔放なアヤさんが、こんなに大人しくしているのを見てしまうと、恋敵ながら気遣う声を掛けたくなってしまう。
「……そうかしら。私ってこういうネクラな人間よ」
「……え?」
思ってもみない切り返しだったので、私は思わず訊き返してしまった。
いつも明るくてマイペースな彼女が、そういう受け答えをするなんて――ちょっと意外だ。
「や、やだなあ。アヤさんらしくないですよ。第一、アヤさんにそういう単語似合わないっていうか――」
「きっと真琴さんの中ではそうなのかもしれないわね。でも、どうでもいいのそんな話は」
興味がない、というように無愛想に会話を切ると、アヤさんは再び黙り込んでしまう。
この唐突なキャラクターチェンジとも言える返答は、一体、どうしたというのだろうか。
普段の、あの快活な話しぶりやカラッとした笑顔は何処へやら。
まるで別人と会話をしているような気分だった。私も、どう対処していいものか困ってしまう。
……そういえば、色々なことがあって頭から抜けていたけれど。
『――私、用事を思い出したわ。真琴さん、あまり遅くならないうちに帰るから』
彼女の様子がおかしいと感じたのは、今日の別れ際だった。
椎名君や高遠のご両親の話を聞いて、顔色を変えて――……まさか。そういうことか。
「もしかして、椎名君のご両親のこと、ですか?」
思いついたと同時にそう訊ねると、アヤさんは大きくため息を吐いた。
「――まさか、そんなことになってるなんてね。思ってもみなかったのよ」
ローテーブルにグラスを置き、その手で額を押さえながらアヤさんが続けた。
「教育熱心だけどすごく優しいご両親で、私もとっても良くしてもらったわ。それに、いつお会いしても新婚さんみたいに仲が良くて……」
「………」
「……それなのに、私の所為で壊れてしまったんだと思うと、堪らなくてね」
落ち着いた声音で抑揚無く話す様が、逆に彼女の心の動揺を物語っていた。
今日の椎名君の話では、彼らの両親が離婚したのは高遠とアヤさんの破談が一番のきっかけということだった。
具体的なことは分からないけど――破談に伴って様々な事情があったんだろう――、自分が他人の人生を左右してしまったとなれば、
いくらフリーダムなアヤさんでも罪を感じたということなのだろうか。
「それにね、隼人の名字が『椎名』になってたのも……妙にショックだったのよ。離婚してれば、当たり前のことなのにね。
もう、あの頃には―――私と怜が付き合っていた過去には戻れないような気がして」
「アヤさん、キツいこと言うようで悪いんですけど……あの、だったらどうして別れたりしたんですか?」
今更言ってもしょうがないことだと知りながら、私は厳しくそう訊ねた。
「……………」
「戻りたいと後悔するくらいなら、別れなければよかったじゃないですか。しかも、あんな一方的なやり方で……。
それなのに、今になってもう一度高遠と付き合いたいだなんて、やっぱりムシが好過ぎると思うんですよ」
「そうよね。本当にそう……。真琴さんの言うとおりだわ」
私の言葉を受け止め噛み締めていたらしく、少しの間の後彼女が頷いた。
てっきり、何かしらの独自理論で突っ撥ねられると思っていた私は、益々意外だった。
あのアヤさんが自分の非を認めている。内心では、クエスチョンマークの嵐だ。
「当時の私は余裕が無くて、子供過ぎたのよね。言い訳するつもりじゃないけど、いつも不安で自信がなかった」
「アヤさんが?」
いつも堂々として自信に溢れたアヤさん。
彼女の印象と今の発言とが噛み合わなくて、思わず訊き返した。
「ちょっとしたことで直ぐムキになって、他人の言葉で気持ちが揺らいだりもした。思い込んだら一直線だし……」
「………」
「でも、そんな自分がすごく嫌いだったの」
彼女の話を聞いているのに、何だか自分の話を聞いているような気分になった。
『過去のアヤさん』は、まるで現在の私をトレースしたようだったから。
「――私は、アヤさんって大人だなと思ってました」
「……中身はこんななのにね。ガッカリした?」
「そんな、そういう意味じゃないです。……私にとってアヤさんは、こうなりたいって思う要素をいっぱい持ってる人だから、
今の話を聞いてビックリしたんです」
「そうかしら。ロクなことはしてないけどね。ただ、反省すべき経験はいっぱい積んだから、それが功を奏したのかしら」
普段、決して自分への賛辞を否定しないアヤさんなのに、珍しく自嘲気味に首を傾げた。
いつものあの開放的で晴れやかな振舞いは、彼女がこの数年間で養ってきた『作法』ということなんだろうか。
ということはおそらく、『現在のアヤさん』とは彼女自身の努力の賜物なのだろう。
「……私もそうです。私も……もともと感情の起伏が激しくて。外見だけは何とか取り繕おうとするんですけど、
中身を見られると子供っぽいのを見破られちゃうんです。そんな自分をどうにかしたいと思うんですけど、感情の赴くままに動いてしまって。
今日だって―――……」
つい、今しがたの出来事を吐いてしまいそうになり言葉を止めた。
何故だろう。あれだけ嫉妬心を感じていたアヤさんに対し、たったこの数分間の出来事だけで親近感を覚える自分がいた。
まるで、共通の悩みを解する友人のような、同じ痛みを持つ彼女の印象が変わりつつあった。
「……今日だって?」
「あ……」
アヤさんに愚痴ってもどうなるワケではない。そう思い、躊躇していたのだけれど。
「いいじゃない、言いかけたなら話しちゃえば」
と、促され、重たい気持ちから少しでも解放されたいことも手伝い、私は椎名君の部屋での出来事を簡潔に話した。
「―――ふうん、なるほどね……」
「もしかしたら、私の所為で余計に芽衣と椎名君の仲がギクシャクしちゃったんじゃないかって思うと……。
芽衣に申し訳ないっていうか……」
「確かに真琴さんのしたことは、ちょっとやり過ぎだったかもしれないわね」
アルコールの余韻の漂う赤い瞳で私を見つめながら、アヤさんが言った。
勿論、それは自覚していることで、言われても仕方ないと思ったけど……。
「でも、真琴さんの気持ちも分かる。少しだけ聞いた感じでも隼人は怪しいもの。疑われてもしょうがないわ」
「…………」
「けど、真琴さんが気にすること無いわ。隼人が芽衣先生のことを本当に好きなら、キチンと行動に移すわよ。
隼人はシャイで考えてることが分からない部分もあるけど、意外と根は素直で単純なのよね」
「そうなんですか」
「ええ、変わって無ければね。そういうところが可愛いの、あの子は」
だから心配いらないとでも言いたげに、彼女が私の肩を叩いた。
「思ってるほど人の気持ちって簡単に変わったりしない。私がいい例よね――何年も前に自分でピリオドを打って、
その上相手の家庭を壊しておいて、今更もう一度付き合ってほしいなんて、ホント、自分でもどうかしてると思うわ」
「…………」
思ってるほど人の気持ちって簡単に変わったりしない。
彼女の言葉で、今日一日の中で一番思い出したくない出来事が頭を過った。
『――――ごめん』
あの謝罪は……まだ高遠がアヤさんを想っているということ、なんだよね。
それを意識するたびに、ちくちくと刺さるような胸の痛みを覚える。
「でも、理屈じゃないのよね。私、やっぱり怜が好きみたい。真琴さんにも悪いなって思ってるけど、この気持ちは曲げられない」
「………知ってます。何度もアヤさんから聞きましたし、伝わってきますから」
だからこそ、高遠が彼女を想っているということは、まだ伏せておきたかった。
彼女の耳に入ってしまったら、私と高遠の関係が終わってしまうような気がして。
私だって高遠が好きだ―――きっと、今まで出会った男性の中で一番。
彼自身の言葉で説明してもらうまでは、まだ彼の恋人でいたい……そう思うのは、悪いことではないと信じている。
「……ありがとう。真琴さんには本当に感謝してるのよ。こうして、家にも置いてもらってるし」
彼女は漸く、常の朗らかな笑みを向けて立ち上がった。
「何だか、ついつい色々喋っちゃったわ。酔っ払いの戯言だと思って? ―――あ、シャワー借りるわね」
「……どうぞ」
「ありがと」
私が頷くと、彼女はバスタオルも着替えも持たないまま浴室へと向かってしまう。
「ちょっとアヤさん! またハダカで出てこないで下さいね!」
いつも部屋着を着ろと注意をしているけれど、マイペースな彼女は私の言うことなど気に留めない。
……まったくもう、と嘆息しつつ、全く掴みどころのなかったアヤさんの人となりを僅かでも知ることが出来、少し安心した半面。
高遠とアヤさんの仲が元に戻るのも時間の問題なのではないかという、諦めにも似た気持ちが滲み始めていた。
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