Scene.4-6




「来週は実際に酵母液を作ってもらうから、班ごとに何か果物を用意して、いつもより少し早めに集合してくださいね。

修学旅行明けだからって忘れないこと。それじゃあ、今日はこれまで」

 私がそう授業の区切りをつけると、それまでの2時間、真剣に講義を聞いていただろう生徒達の嘆息が飛び交う。

 席を立って伸びをする者、隣の席の友人に聞き逃した箇所を訊ねる者、そのまま化学室を出て行く者。それぞれ見て取れた。

 週に一度、金曜午後の3年選択科目『食品化学』は、高遠に替わり私が教卓に立ってから2回目を迎えている。

 とはいっても、来週以降はほぼ調理実習に入ってしまうので、講義のスタイルで行うのは今回が最後になるだろう。

 つくづくそういう流れにしておいてよかったと思う。

 他の教師の前で授業をするって言うのは結構、緊張するものなのだ。

 しかも、高遠のように講義に定評があるようなタイプや、アヤさんみたいにその道の先生の前ともなると、

 いくら資料を片手に話していても、もし不備があったら……と心細くなってしまう。

 ……無論、心細いのは授業そのものの所為だけじゃないけど。

 テキスト代わりのプリントを閉じ、憂鬱な気分を押し出すように息を吐くと、対角線側で楽しそうに笑顔を零すアヤさんと、

 面倒そうな表情を浮かべつつも満更で無さそうな高遠の姿が視界に入る。

 私が教卓に立つということは、その分、授業内ではアヤさんと高遠の距離が縮まるというワケで。

 授業の合間合間、二人の姿は嫌でも目に映るから、彼らの様子についつい気を散らしてしまうのだ。

 今だって、そう――何を話しているのかは分からないけど、アヤさんが明るく語りかけて、

 高遠が呆れた素振りを見せながら肩を竦めたりしている。

 そして、アヤさんが親しげにその彼の肩を軽く押して見せると――高遠もほんの少しだけ、笑顔を見せて。

「…………」

 そういう顔を見ると複雑、だ。

 高遠のアヤさんへの応対が、この二週間で確実に変わっていた。

 以前は頑ななまでにアヤさんを拒んでいた高遠が、慣れもあるのか気安くなっている。

 アヤさんとは一切係わりたくないとでも言いたげだった彼なのに……。

 飲み会でのアヤさんとのキスも、化学室での「ごめん」も。

 未だ高遠がアヤさんを愛しているってことの証明な気がして、心にずっと鈍い痛みが走ったまま――その痛みから、逃れられずにいる。

「真琴センセー?」

 名前を呼ばれてハッと顔を上げると、女子生徒の一人が私を覗き込んでいた。

「あ……何?」

「質問したいところがあるんですけど、いいですか?」

「え、ええ。大丈夫、ごめんなさいね、ボーッとしてて」

 私が頷くと彼女はホッとしたような顔をしてから、プリントの該当箇所をシャープペンシルの先で示しつつ、

「ここなんですけどー……」

 彼女の言葉を聞いてはいるものの、意識の幾らかは二人の事を考えていた。

 ……仕事にも影響しちゃうなんて。こんなの、絶対によくないのに。

 憂いと自己嫌悪とに苛まれながら、私は努めてプリントに視線を走らせた。

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 高遠から衝撃的な謝罪を受けたのは、もう二週間も前のことだと思うと、本当に時間の流れって速いのだと感心する。

 あの日以来、高遠と二人きりで会うどころか、まともな会話すら交わしていない。

 表向きでは私たちの交際が秘密になっているため、学校にいる間は接触し辛いのだけど、

 原因の一つは間違いなくアヤさんの存在だろう。アヤさんは私の放課後の行動を気にしていて、

 『怜と会うなら抜け駆けはダメよ?』

 なんて、無邪気な笑顔で牽制してくる。どうやら、自分も交ぜろということのようだ。

 彼女曰く、フェアプレイがしたいらしい――いや、だから、私は高遠のカノジョなんだってば。

 そう突っ込みたい気持ちはあるけど、アヤさんの手前約束も取り付け難く、メールで連絡を取り合うくらいになっている。

 高遠はしょっちゅう携帯を触っているタイプの人間ではないので、それも数日に一回。

 近況報告に近いような当たり障りのないやり取りを交わして終了、だ。

 味気ないとは思いつつ、こんな状態でも何処かホッとしている私がいた。

 彼は私が気を揉んでいる全ての事柄に対して、触れて来ようとしない。

 つまり、例の――飲み会のキスと化学室での謝罪。

 まぁ飲み会の件は、私が見てたなんて知らない可能性もあるから、自ら話題に出さないっていうのは分かる。

 でも化学室での事は――その、明らかに気まずかったワケで。

 私がかなり憤り、傷ついていたのを気付かない彼じゃない。

 普通だったら、そんな私にまず弁解の言葉の一つでも掛けるんじゃないだろうか?

 そうしないのは、彼の気持ちはもう私に無いということで……。

 …………。

 会話を交わす余裕がないこの現状は、私と彼の関係が断ち切られるのに猶予が与えられたのと同じことだ。

 だから私も、自分からその話題は口にしないと決めている。

 わざわざ自分からその猶予期間まで消してしまう事は無い。

 全く建設的じゃないし、結論を先延ばしにしているだけだっていうのは、自分が一番よく分かっている。

 でも、それでも。まだ高遠の恋人でいたいのだ。

 ……普段の私らしくない。白は白、黒は黒、とはっきりさせたい性格の筈なのに、彼に関してはそれが出来ないでいる。

 私はいつからこんなに弱くなってしまったんだろう。

 ううん、そうじゃない。きっと、高遠の事だからこそなのだ。

 たった数ヶ月の間でも彼と一緒にいること自体が生活の一部だったから、自覚する機会なんて無かったけど、

 こんなに誰かを好きになったことなんて無かった。

 だから失いたくない。彼という存在を、無くしたくない。それが正直な気持ちだった。

 『遅かれ早かれ事実なんだから、いつかは知ってしまうことだ』

 少し前、一緒に帰宅しようとしていた椎名君と紺野さんの姿を見た時、私はそう思って芽衣に事実を伝えた。

 でも本当は――そんなことをしてはいけなかったんだ。自分が同じ立場になってみて、初めて気付いた。

 いくら友達でも、親友でも。芽衣が椎名君を繋ぎとめて置きたいという気持ちまで奪うべきじゃない。

 芽衣がそれでもなお椎名君を信じたいと言うのであれば、私が立ち入ってはいけなかったのに。

 ……芽衣と椎名君の関係も、あの後、拗れる一方だったようだ。

 彼女から聞いた話によると、彼らは会話どころか連絡すら断っているらしい。

 椎名君はホームルームや芽衣の授業を欠席していて、「これって、避けられてるんだよね」と寂しげに笑っていた。

 芽衣にはそれこそ、何回も頭を下げて謝ったけど、彼女は一度たりとも私を責めなかった。

 「椎名君を疑う気持ちがあったのは否定できないから」って――彼女の優しさが逆に辛い。

 私も芽衣も、このまま諦めるしかないのかな。

 疎遠になって、関係が壊れていくのを待つしかないんだろうか――ううん、そんなのは嫌だ。

 来週、土日が明ければ2学年挙げてのイベント、修学旅行が始まる。

 二泊三日、場所は北海道。一日目は札幌で、二日目が函館。

 芽衣は担任だから椎名君と一緒の機会が多いし、私と高遠も二日目の夜に少しでも一緒に行動しようって約束は済ませてある。

 少しでも今の状況を挽回するチャンスは、もうこの旅行以外はあり得ない。

 二人きりで話す機会を得るということは、それがマイナスに作用して関係が破綻する可能性もある。

 良くも悪くも、この旅行がターニングポイントになるのは間違いない。私も、おそらく芽衣も―――。

「ねーぇ真琴さぁん。向こうってこっちよりは涼しいわよねぇ?」

「…………」

「真琴さんったらー、聞いてる?」

「……はいはい、聞いてますよ。で、何の話ですか?」

 鬱々としていた気持ちを抱え込んでいたその夜、アヤさんはローテーブルの上に片手を置いてマニキュアを塗りなおしながら、

 暢気な口調で私に訊ねてくる。

 気持ちが塞いでいたので、敢えて話しかけないでくれというオーラを出していたにも関わらず、遠慮する素振りがないのがアヤさんだ。

 ベッドの上で壁に凭れつつ、BGM替わりのテレビをぼんやり眺めていた私は、仕方なしに反応をすると、

「もー、やっぱり聞いてないんじゃないのー」

 と、私を向いて口を尖らせた。

「だから、向こうよ。北海道! こっちよりはきっと気温が低いかしらねーと思って。どんな服持って行こうかしら」

「北海道……そうですね、きっとこっちよりは――って、え、何でそんなこと……?」

 妙なことを聞く。アヤさんは修学旅行のメンバーに含まれていないはずだ。

 じゃあ何でそんな話……?

 不思議がる私に、アヤさんは嬉しそうに顔を綻ばせた。

「うふふ、私も修学旅行に養護教員として参加することになったのよ。よろしくね、真琴さん」

「……な、何で、どうしてですか!?」

 認めたくない気持ちから、ついつい身を乗り出し、詰問するような口調で訊ねてしまう。

「あらぁ、そんなに嫌がらなくたっていいじゃない、傷つくわー。折角、真琴さんと一緒に旅行ができると思ったのに」

「べ、別に嫌がったワケじゃ……」

 流石に今の反応は感じが悪かったと反省して、慌てて否定すると、さして気にしてないようにアヤさんが笑った。

「まぁいいわ。……養護教員の先生の中でね、出張が入ってしまった方がいらっしゃるそうなの。だから、小宮先生から声がかかったってコト」

「……そ、そうだったんですか」

「真琴さんも怜も、芽衣先生も隼人もみーんな居なくなっちゃうじゃない? だから、寂しかったのよねー。丁度良かったわ」

「………」

 アヤさんはマニキュアの爪にふっ、と息を吹きかけて、キャップを閉め傍らに置いた。

 そして、いつの間にかローテーブルの下に置いてあったガイドブックを取り出して、パラパラとページを捲ってみせる。

「何処行こうかしらー。……あぁ、一日目は展望台とかー、カフェでゆっくりスイーツとかが希望かしらね」

「アヤさん、私達の仕事は引率なんですから。自由行動の時間ってほとんど無いと思いますよ」

 既に個人旅行気分のアヤさんにクギを刺しておく。

 この人、仕事だって自覚あるんだろうか。甚だ疑問だ。

「そうだったわね。でも、何処か時間作って、怜と出かけたりしたいものだわ」

「……無理じゃないですかね」

「どうして?」

「高遠は2−Aの担任ですから。クラス単位での行動が殆どでしょうし、あの人、生徒に人気ありますからね。取り合いになるんじゃないですか」

 私は小さく息を吐いて言った。

 そのタイトなスケジュールの合間を縫って、漸く二日目に私と一緒に過ごす時間を作ってくれるというのに。

 おそらく、アヤさんに割く時間は残されていないだろうと思う。

「昼間はそうかもしれないけど、夜の時間は空いてるじゃない? それなら、夜に私と――」

「それはダメです!」

 思いのほか強い口調になってしまったことに自分自身で驚いた。

 まさか私がそんな風に反応するなんて、アヤさんも思っていなかったに違いない。

 猫みたいに大きな瞳を瞬かせ、きょとんと私を見つめている。

 焦りのあまり、過剰に反応し過ぎてしまっただろうか。

 高遠と二人きりで話ができる数少ない機会。それを、アヤさんに邪魔されてしまいそうで――……。

「……ごめんなさい。あの、私」

「もしかして、怜と何処か行く約束でもしてるの?」

 私は図星をつかれてギクリと身を固くしたけれど、訊ねたアヤさんは平然とした様子だった。

「あ、あの……はい」

 『抜け駆けは嫌よ。私も連れて行ってくれなきゃ!』

 彼女の次の台詞は手に取るように分かった。そして、そうなってしまうこともチラりと頭を過ったのだけど……。

「あぁ、なんだ。そういうことだったのね」

 彼女は納得、という風に頷いて、そしてにっこりと笑みを浮かべた。

「アヤさん……?」

「それならしょうがないわね。私は我慢しておくわ」

「え?」

 一瞬、聞き間違いかと思った。

 今まで、学校外では私と高遠をなるべく接触させないように見張られていたと思っていたのに。

「ほら、一応、まだ今のカノジョは真琴さんでしょ? それなら、こういう時ぐらい譲ってあげないとね」

「………」

 『一応』とか『まだ』は余計だ。今に自分が成り替わるとでも思っているのだろうか――否定は出来ないけど。

「修学旅行とはいえ、イベントだものね。あまり時間に余裕はないかもしれないけど、楽しんで頂戴?」

 普段あれだけ邪魔してくる癖に、イベントの時はOKってことなんだろうか。この人の考えてることは、やっぱり謎が多い。

 ――謎と言えば。以前、彼女が一度だけ私に本音を話してくれたことがあった。

 『当時の私は余裕が無くて、子供過ぎたのよね。言い訳するつもりじゃないけど、いつも不安で自信がなかった』

 『ちょっとしたことで直ぐムキになって、他人の言葉で気持ちが揺らいだりもした。思い込んだら一直線だし』

 『でも、そんな自分がすごく嫌いだったの』


 常にマイペースで自由奔放。常識から外れても悪びれないアヤさんが、たった一度だけ私に見せた素顔。

 『酔っ払いの戯言だと思って?』なんて言っていた通り、翌日以降はケロリと元の彼女に戻っていた。

 また酔って記憶を無くしたのか、そんな振りをしていたのかは定かじゃないけど……。

 彼女の本質は、私みたいに付き合いの短い人間にとって未だ見えない部分だらけだ。

「……で、怜と何処に行くかは決めたの?」

「はい」

「ふうん。何処?」

 やたら楽しげに訊いてくるものだから、もしや偶然を装い、ついて来るつもりなのでは?と、一瞬疑ってしまう。

 表情に出やすい私のこと、それが彼女に伝わったのだろう。

「やだ、真琴さんったら。別に邪魔しようなんて考えてないわよ」

 と、笑い飛ばされてしまった。

「べ、別にそんなんじゃ……。あの、函館山です。夜景見たくて」

「――――……」

 私は、憂慮を読まれたことに慌て、反射的に行き先を口にした。

 と―――彼女の表情が、明らかに強張った。

 色っぽい唇が驚きで微かに開き、僅かに震えている。

「……アヤさん?」

「……そう。函館山。いいじゃない、素敵な観光スポットよね」

 私が彼女の名を呼ぶと、彼女はハッとした様子で笑顔を作る。

 いつも通りの彼女に見えるけど、視線が泳いでいるような――私の気にし過ぎなんだろうか?

「函館山に行くんなら、知ってるかもしれないけど――良いこと教えてあげるわ」

「え? はい……何ですか?」

 アヤさんは開きっぱなしだったガイドブックを閉じながら言った。

「函館山ってね、恋人同士で夜景を見に行くと別れるってジンクスがあるのよ」

「え!?」

 これから行くっていうのに、何もそんな縁起悪いこと言い出さなくたって!

 非難の声を上げようとしたとき、そんな私を察したアヤさんが「まぁまぁ」と手で制す。

「でもね、それだけじゃないの。―――函館山の夜景にはね、もう一つのジンクスがあって、

夜景の中に隠れた「ハート」や「スキ」って言葉を見つけると、恋が実ったり、幸せになれるって説もあるのよ」

「間逆じゃないですか」

「そうなの、面白いでしょ?」

 クスクスと声を立てて、アヤさんが笑う。

 そんなジンクスがあるなんて全然知らなかった。

「ええ、面白いですけど――アヤさん、随分詳しいんですね?」

「………ええ。ちょっとね」

 彼女は少し視線を俯けて頷いた。そして。

「私としては、一つ目のジンクスの通り、真琴さんと怜が別れてくれればラッキーなんだけど」

「!」

「ふふ、そうならないように頑張ってね?」

「い、言われなくても!……「ハート」や「スキ」を探せばいいんでしょう、それくらいカンタンなんですからねっ。

何なら写真でも撮ってきましょうか!?」

「期待してるわ」

 ふん、と内心で鼻を鳴らしつつ――高遠にこの場所の名前を出した時も、同じような反応をされたことを思い出した。

 …………。

 ………まさか、ね。

 良からぬ想像が進んでしまう前に、思考を断ち切ることにする。

 これ以上不安の種を自分から増やす必要はない。

「ねぇねぇ、真琴さん、明日の放課後は旅行に向けて服でも見に行きましょうよー?」

「………はぁ。そーですね」

 何処までもマイペースなアヤさんに肩を竦めつつ、波乱の修学旅行はすぐ其処に迫っていた。