Scene.5-2




 私が成陵を第一志望にしたのは、地域でも有名な進学校だったからだ。

 昔から、とにかく負けることが嫌いだった。

 勉強でもスポーツでも、自分が努力して解決する範囲だったら幾らでも時間を割いた。

 だから、成陵に入学が決まった時も、嬉しいというよりは寧ろホッとしたような気持ちだった。

 受験という勝負に勝てた。そんな心境だったのだろう。でも―――。

 忘れもしない、高校1年の最初の実力テストでのこと。

 国語と数学、そして英語の基本3教科での実施。入学してから初めてのテストということで、それこそ死ぬ気で勉強した。

 周囲の生徒はほぼ私と同じレベルなワケで、持ち前の闘争心に火がついたからだ。

 特に頑張ったのは英語。英語は中学の時から一番得意な科目で、他の教科は無理でもせめて英語だけは……と思っていた。

「良く頑張ったな、長谷川」

 テストの成績は、教科ごとの校内順位とクラス順位も出るようになっている。結果の紙を受け取って、私は絶句した。

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 【英語】  校内順位 2位
  96    クラス順位 2位
 ―――――――――――――――――

 正直、嘗てないほどの勉強量だっただけに、ガッカリしたし、悔しかった。

 校内順位とクラス順位、共に2位ということは、このクラスで私より上が居ると言うことだ。

「うわぁ、スゲェ、高遠。お前、英語一番じゃん」

「ホントだ、ちょっと見せてー」

 後ろの席から、男子生徒の声が聞こえてくる。私は思わず振り返った。

 3人の男子生徒が、互いの結果を見せあっている―――その中の一人、高遠と呼ばれた男の子を見た。

 高遠怜。品の良い深緑のブレザーが良く似合う、優しくて人当たりのいいクラスメート。

 彼の名前は入学直後から覚えていた。周りの女の子たちが騒いでいたからだ……カッコいい、と。

 確かに、顔立ちが端正だというのも特徴だけど、彼は他の同い年の子と違い、とても落ち着いていた。

 男子にも女子にも、嫌みなく親切な対応をしてくれる大人な子、というのが印象的だった。

 そんな彼が、私よりも英語が出来るなんて―――。

「ねえ、高遠君」

 居てもたっても居られなくなり、結果の受け渡しで騒がしい生徒たちの合間をすり抜け、彼の席へと向かった。

「―――長谷川さん?」

「高遠君、どういう勉強してるの? 良かったら、私に教えて欲しいの」

「…………」

 彼の友人がいる前だというのに、元々突っ走りがちだった私は気にも留めずそう迫った。

 少しだけ圧倒されたような、驚いた顔をしていたけど、彼は、

「僕でよければ、構わないよ」

 そう言って、優しく微笑んでくれた。

 それで早速、その日の放課後から一緒に課題や予習をするようになったのだった。

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 私と彼が付き合う様になるまで、さほど時間は掛からなかった。

 告白は彼の方から。私と一緒に居ると落ち着くんだそうだ。

「彩、あんたのカレシってほーんとモテるね」

「何が?」

 お昼休み、仲のいい友人とランチをしてるときも、話題は怜のことが多かった。

「また女の子に告白されてたらしいよー。同じ生徒会の1年の子だって」

「え、またぁ!? この間はサッカー部のマネージャーだったでしょ。すごいね」

「へぇー。そうなんだ」

 負けず嫌いな上、変なところでプライドの高い私は、そういう話題に興味が無い振りをしていたけれど、

 頭の中はいつも不安でいっぱいだった。

「相変わらずだね、彩。気にならないの?」

「カノジョの余裕ってヤツー?」

「別に、そういうワケじゃないけど」

「クールだねぇ。ま、高遠君って顔の割にはマジメで一途みたいだけどさ。もう付き合って1年でしょ?」

「うん」

「彩が思ってる以上に、狙ってる子多いんだからね」

「そうそう。ぼんやりしてると盗られちゃうかもよ?」

「………」

 ――そんなのは私が一番良く分かっていた。

 私もたまに男の子から声を掛けられたりすることはあったけど、そんなの怜の比じゃない。

 怜はルックスもいいし、性格もいいし、勿論頭も良い。スポーツも得意。絵に描いたような『理想の男の子』だった。

 女の子には困らない筈の彼がどうして私を選んだのか、さっぱり分からない。

 以前の放課後、怜が生徒会の活動をしている間、中庭のベンチで待っていた時に、

 隣のベンチに居た女子生徒がヒソヒソと私の話をしている場面に遭遇したことがある。

「あの子でしょ?A組の高遠君のカノジョって」

「え、思ったよりフツーかも」

「高遠君が大事にしてるっていうからどんな子かと思ったら、意外とそこまで可愛くないじゃん」

「アレだったらあたしにもチャンスありそー。頑張ってみようかなぁ」

「アンタじゃ無理だって」

「キャハハ、やだー、ひどーい」

 私は比較的、他人の言うことは気にしないタイプではあるけど、流石にこれは傷ついた。

 今にして思えば、女の子特有の妬みや僻みというモノだったのかもしれない。

 でも、当時の私には『私達ってアンバランスなんだ』という感情を助長させるだけだった。

「彩、ごめん、待たせて」

「ううん、参考書読んでたから」

 本当は女の子たちの話に気を取られ内容なんて頭に入っていなかったけど、私は何でもないように強がって笑った。

 こういう悩みを持っていることを、誰よりも、怜にだけは知られたくないと思っていた――それが何故なのか、その時は分からなかったけど。

「今度の日曜なんだけどさ」

「うん」

「ウチに遊びに来ない?」

「え、行っていいの?」

「ああ、勿論。弟がまだ小さいから、ちょっと煩いかもしれないけど……ちゃんと彩を紹介したいんだ。いいかな?」

「………うん!」

「よかった」

 怜はいつも私に優しかった。私のことをとても大事にしてくれる。

 だから、他の人にどんなことを言われようと、平気だって思えた。

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 大学は、偶然にもお互い化学系に興味があり、誰もが知ってる一流大学の理工学部に二人して入った。

 とは言っても、怜は推薦、私は一般受験でやっと、という感じだったから、内申の差は勿論、学力の差も開いていたのだろう。

 私が理工学部に行きたいと言い出した時から、彼は何故か志望大学を変えたようだった。

 簡単に言うとランクを落としたのだ。彼なら、もう一つ上の国立大学でも合格できそうだったのに、

 もしかして、私と同じ大学にするためにレベルを下げたのか――そんな疑問を覚えた。

 彼曰く、「一発勝負っていうのが苦手だから、推薦で入れるところにしたくて」ということらしいけど、

 模試では常に好成績をキープ出来ていたようなので、本当のところは分からない。

 怜は案外、嫉妬深い所もあって、大学が離れてしまうと心配だったんじゃ?

 なんて言う友達も居るけど、だからってわざわざ志望大学を揃える程とは思えないし。

 理由は何であれ、私の中にはモヤモヤした嫌な感情が残ったのは事実だ。

 正直、面白くなかった。まるで、私が彼の足を引っ張っているような気がして。

 そんな挫折感を感じ始めた頃から、私は偏差値的には平凡な一学生になっていた。

 高校3年間、怜のレベルに付いていくのに必死で、疲れてしまった部分もあったのかもしれない。
 
 それでも勉強することは好きだったから自分なりに頑張っていたつもりだけど、何でもソツなくこなす怜のこと。

 賢さ故に教授に可愛がられている彼の姿を見たり、同じゼミの女の子にアプローチされているところを見かけたりする度、

 特別頭がいいワケでもなく際立って可愛いワケでもないこの私が、怜の隣に居て良いのだろうか?

 いつもそんなことばかり考えていた。

 その不安とは裏腹に、彼は大学3年の夏――就職活動が始まる前を見計らって、私にこう言った。

「大学を卒業したら、すぐ俺と結婚してほしい」

 ビックリした。彼はこんな私との将来を想像してくれているのだから。

「今まで付き合ってて分かった、彩しか居ないんだ。改めてちゃんとプロポーズするから、だから―――」

 彼は少し気兼ねするというか、躊躇う様な素振りを見せながらも、私の目をまっすぐ見て続けた。

「就活は、見合わせて欲しいんだ」

 私に家庭に入って欲しい。そういう意味だ。

 後で彼の友人に聞いた話によると、私が就職し、新しい職場で出会う人に心変わりするのではないかという不安を感じていたようだ。

 私は迷った。まだ社会人にもなっていない段階で結婚を決断する勇気がなかったのもその理由の一つだけど、

 一番は――大学院への進学を考えていたからだ。

 怜は昔から教師になるのが夢だと言っていたから、教授に勧められてはいたものの進学の予定はないようだった。

 彼に劣等感を感じていた私は、何とか学歴だけでも彼を上回りたい、と――そういう願望を持つようになっていた。

 そうすることで、彼と肩を並べていられる。ううん、それどころか、敵わないと思っていた彼を越えることが出来るしれないと思う様になったのだ。

 でも、此処で断る勇気が無かったのも事実。

 「まだ結婚はできない。進学してスキルアップしたい」

 だなんて言ったら、彼は他の女の子を向いてしまうかもしれない。

 悩みに悩んだ末、彼の、

「絶対幸せにするから」

 という一言で私は進学を諦め、彼と結婚する道を選んだ。

 彼の家も私の家も、一般家庭よりはやや裕福な方だったし、能力的にも申し分ない彼のこと、

 将来の心配は無かった。筈だったのだけど――――。

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「あーあ、私また最終選考で落ちたよー」

「私も。いつも最終で落ちるんだよね……本当、ユーウツだぁ」

 卒研で一緒の友達が、研究室に入るなりそうボヤいていた。

 大学4年、桜も散り始めた季節だというのに、就活中の彼女たちは一向に内定が出ないようだ。

 大企業を狙っているようだから、仕方ないのだろう。

 一流大学のプライドも手伝って、下手なところで妥協をする気は無いらしい。別に、その根性は悪く無いと思う。

「彩はいいなぁ。卒業と一緒に永久就職でしょ」

「しかもあの高遠とだよね。いい就職先見つけたよーマジで。絶対将来安泰じゃん」

 周囲にはそういう選択をする子は居なかったから、結婚の話題は研究室の間でもよく上がっていた。

 怜は大学でも相変わらずの人気っぷりで、結婚を決めた時は少し優越感、だった。

 おめでたいことだから、こんな風に囃し立てられるのも悪い気はしなかった――――最初は。

「でもさ、彩もよく決心したよね。私だったら直ぐに結婚とかって考えられないや」

「彩は高1の時から高遠と付き合ってるって話だよ。年数で言ったら妥当かなーとも思うけど。ね、彩?」

「う、うん……」

「そりゃそうなんだけどさ、てことは高遠としか付き合ったことないんじゃないの?」

「そうだけど」

「この先もしかしたらいっぱい出会いとかもあるかもしれないし、ちょっと勿体ない気もするなぁ。

結婚って――そこで人生ある程度決まっちゃう気がするからさ。少ししたら子供産んで育ててー、みたいな」

「…………」

「自分の時間も制限されちゃうし、ホント彩は偉いよ。高遠のために結婚に踏み切ったんでしょ?」

「…………別に、偉いってワケじゃ」

「彩だって、相手が高遠だから決めたんでしょ。高遠だったら間違いなさそうじゃん」

「それもそうだね。この先、高遠以上の物件が現れることは無いんじゃない?」

「物件って言うなよー。でもま、言えてるよね」

「そ、そうかな……」

 楽しげな笑い声に合わせつつも、内心、何処か気分が晴れなかった。

 その子達に悪気がないのは分かっている。でも、一言一言がちくちくと刺さるようで、胸が苦しくなる。

 そういう時こそ怜と会って、彼と居るのが一番幸せだと実感することが出来れば気持ちも落ち着くのだけど、

 彼は当時研究で忙しく、なかなか一緒の時間を取ることができなかった。

 理系の研究室は、その研究室ごとにハードさが違う。怜の所はコアタイムの幅が広かったため、

 どうしても会いたい時は、彼の所属する研究室まで直接訪ね、少しだけ時間を作ってもらう――そんな生活が続いた。

「よぉ、長谷川。またダンナ待ちか?」

 いつものように彼の研究室の前で、一続きの実験が終わるのを待っていると、白髪混じりで、汚れた白衣を纏った男性が私の肩に触れる。

「小林先生、歩きタバコは禁止ですよ」

「ははっ、相変わらずカタいなぁ、お前」

 私がすかさず指摘すると、先生は律儀にもポケット灰皿にそれを始末して、可笑しそうに笑った。

 目元にくっきりと深い笑いジワ。人の良いおじさん、というような容姿の彼が小林先生――怜の研究室の教授だった。

「もう少しで一段落するから、少し待ってな」

「はい、ありがとうございます」

「お前のダンナ、使い勝手いいモンだから、次の学会に向けて色々やってもらってんだよ。悪いなあ忙しくして」

「……次の学会、ですか?」

「そうそう、高遠を連れて行こうと思ってな」

「…………」

 学会に出向くのは良い経験になる。だから応援してあげなきゃいけない。

 でも、私はそれを知った瞬間、素直に喜べなかった。その上―――ずるい、妬ましい。そういった負の感情に襲われる。

 自分にとっても衝撃的だった。

 気付かない間に、私は大好きな怜を妬んでしまっていたのだ。

 こんな風に思っちゃいけない。私は何て酷い人間なんだろう。

 自分の思考の醜さに嫌気がさしたけれど、この感情はどうすることも出来なかった。

 私が進路それ自体に燻っている中、怜は自分のやりたいこと、決めたことに向かって着々と成果や経験を積んでいる。

 いつまで経っても、私は怜を越えることが出来ないばかりか追いつくことも出来ない。一方的に差が開いてしまう。

 どうしよう―――どうしたらいいんだろう……。

「どうした、長谷川」

 先生の声にハッとした私は、小さく首を横に振った。

「そうか。……しかし、お前もラッキーだな。高遠みたいに出来たダンナ捕まえるなんて」

「…………」

「絶対逃すなよー、後で後悔しても遅いんだからな。ウチの女房なんかしょっちゅう、もっとマシな男が良かったって――」

「―――先生に言われなくたって、それくらい分かってます」

 おそらく、彼にとってはただ口にした冗句だったのだろう。

 私も普段ならマトモに受けたりせず、笑って頷けた筈だ。

 でも、もうそんな話には飽き飽きしていた。怜は誰もが羨む理想の男性――十分過ぎるほど知っている。

 そんな彼の存在をただ有り難がっていればいいっていうの?

 『結婚って――そこで人生ある程度決まっちゃう気がするからさ』

 友達が口にした言葉が蘇り、それに心を抉られながら、私はぎゅっと拳を握った。

 もう私はこれから先、眩しいだけの怜を見ていることしか出来ないんだろうか?

 そんなの嫌だ。私だって……私も――――。

「長谷川」

 よっぽど動揺した表情をしていたんだろう。

 小林先生が心配そうに私を覗きこんでいる。気遣わしげな瞳が、私を見下ろす。

「―――すみません、私、今日は帰ります。高遠君にもそう伝えてください」

「おい、長谷川――」

 逃げるように研究室棟の廊下を駆けていきながら、私は帰る道すがら自己嫌悪に陥ったのだった。

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 その年の冬、怜は当初の宣言通り私にプロポーズをしてくれた。

 同じ学部で気心の知れた仲間6人と一緒に言った卒業旅行――行先は、北海道の札幌、小樽、そして函館。

 なかなか予定が合わないもので3泊4日の短い旅行だったけれど、その最後の宿泊日、彼は二人きりになりたいと、

 夜、皆がホテルでお酒を嗜む中、私を外へ連れ出した。

「何処に行くの?」

「夜景が綺麗な所があるんだ」

 タクシーを降りたのはロープウェイ乗り場だった。

「此処は………」

「100万ドルの夜景って言われてるんだよ。函館山は」

 暗がりの中、ゴンドラに乗り込み山頂まで登っていくと、まるで万華鏡を覗いたようなキラキラした世界が広がっていた。

「うわぁ……綺麗」

「もっと上の方に出てみよう。良く見える筈だから」

 彼に付いて屋上の展望スペースに出た。眼下に見下ろす函館の街から、色とりどりの光が溢れている。

 私がその美しさに心を奪われていると、彼はコートのポケットから四角いケースを取り出し徐に開けた。

 中身は、一粒のダイヤが輝くエンゲージリングだった。

「貰ってくれる?」

 彼は微笑みながら、冷たく悴んだ私の手を取り、左手の薬指にそれを填めた。

 勿論、嬉しい気持ちもあった。嘘じゃない。

 学生の彼がコレを用意するには、色々と苦労があったんじゃないかと推測できる。

 けど―――装着した瞬間、私にはその指輪が見えない鎖を伴った拘束具に思えてしまった。

 これからはずっと、彼のために生きていかなければいけない。

 精神的にも肉体的にも縛られるような強制力を感じてしまい、愕然としたことがよく記憶に残っている。

 自分でも異常だと思った。

 世界で一番大好きな恋人、それも非の打ちどころのない完璧な男性が誠意をもって求婚してくれているというのに……。

「………当たり前じゃない。有難う、怜」

 さしずめダイヤの手錠、だろうか。心のざわめきを抑えて、私は最高の笑顔を作って見せた。

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 この歪んだ気持ちを、自分自身ではどうすることもできないままに卒業式が近付いていた。

 周りの友達は皆、就職、進学など、新しい進路の話に花を咲かせている。

 その会話に入れない疎外感が、彼への憎しみを深めていく。

 怜は相変わらず私に優しい。

 私がこんな醜い感情を抱いていることなんて知りもせず、ひたすらに私を愛してくれる。

 だけど私は、怜が想ってくれれば想ってくれるほど、その分彼を疎ましく感じるようになってしまう。

 ……悪循環だった。

 怜を好きだという気持ちと、怜を妬ましいと思う気持ち。二つは矛盾しているようで、それぞれ同時に存在している本当の感情だった。

 精神的にも追い詰められて、辛い日々が続く。

 こんなにも大事にしてくれる彼を憎んでしまうことに、罪悪感を覚えないワケはない。だから辛かったのだ。

 そんな私を余所に、彼は教員採用でも難関で知られる母校、成陵高校への着任を決めていた。

 彼は本当に優秀なんだと思い知らされる。なのに、私は一体何なの?

 ―――怜ばっかり。私の夢は諦めさせたのに、自分は夢を叶えようとしている。

 苦しさから逃れたかったために、いつの間にか責任を彼自身に擦り付けてしまっていた。

 資質的に負けず嫌いな私だ。私がずっと味わってきた挫折感を、怜にも――そんな残酷な思いが頭を掠める。

 それだけはしてはいけないことだと、理性で堪えていたのに。

 その引き金を引いたのが、怜の研究室の小林先生だ。

 怜を待つ時間を利用して、私と先生は接する機会が多かった。

 会話をする時間を重ねる度に、彼は奥さんとあまり上手くいっていないということを知った。

 彼は、私に口酸っぱく「高遠のことを幸せにしてやれ」と言っていた。奥さんからなかなかぞんざいな扱いを受けているらしい。

 先生のことを特別、男性として見たことはなかったし、先生も私を異性として見てはいなかったと思う。

 だからアレは―――本当に発作的なことだったのだ。
 
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 卒業式を終え、結婚式まで2週間を切った頃、大学の近くで偶然小林先生に会った。

 大学の外にも拘わらず、汚れた白衣の襟を立て春風を避けているようだ。

 彼は私に気付くと、両目の笑いジワを深く刻んだ。

「よぉ、花嫁」

「小林先生……」

「何浮かない顔してんだ? もうすぐ人生最大の幸せを迎えるようなヤツが」

 先生に指摘されるまで全然気付かなかった。

 結婚式の日取りが近付くにつれ、私の中をえも言われぬ不安が蝕んでいく。

 両親も、親戚も、そして怜も、私を結婚という二文字で縛りつけようとしている。

 それに笑顔で答えなければいけないというプレッシャーに、私は今にも押し潰されてしまいそうだった。

「先生――――」

「ん?」

 先生とは4年生の一年間、本当によく話していたし、結婚という特異な選択をしてしまった以上、大学の友達には弱みを見せられなかったこともあり、

 彼の姿を見た瞬間何とも表現できないこの気持ちを吐露したい衝動に駆られた。

 普段なら自尊心に阻まれてそんなことはしないのだけど、それだけ参っていたということなんだろう。

「私、もう辛い……全部、辛いんです」

 怜に劣等感を持っていること。進学を諦めたこと。そのために怜を妬んでいること。それでも愛していること。

 今にしてみれば稚拙で恥ずかしい内容だけれど、私は包み隠さず全部先生に話した。

 先生は取り留めのない私の話を真剣に聞いてくれた。全てを聞き終えた後、

「長谷川、式の前に、ちょっと俺に付き合ってくれないか?」

「え?」

 式の一週間前、先生は私を家に呼んだ。

 先生は奥さんと二人暮らしだと聞いていたけど、家の中に生活感はあまり感じられなかった。

 というか、女性が住んでいるような痕跡が見当たらない。そんな印象だった。

「実はさ、とうとう女房に逃げられたんだ」

 勧められて私がソファに掛けると同時、先生はそう言って苦笑した。

 大学在学中から続けていた自らの研究に没頭するあまり、いよいよ愛想をつかされたのだという。

 結婚当初から家庭を顧みないタイプだったようで、私が想像していた以上に夫婦仲は冷え切っていたんだそうだ。

「それでも、最初は女房も許容してくれてたんだぞ。『貴方の天職なんだから、思う存分頑張って』ってな。

頑張り過ぎたらこの有様だ」

 自分のことで精一杯で気が回らなかったけど、その時の彼の横顔がとてもやつれて見えた。

 口では何でもないように言っていても、相当堪えているのだ。

「子供が欲しいって言ってたんだが、俺には煩わしかったんだよ。年取った今では悪いことをしたなと思っているけど」

 先生は慣れた手つきでインスタントコーヒーを淹れ、二つテーブルに置くと、少し間を開けて私の横に掛けた。

「つまりな、長谷川。最初から気持ちが寄り添った夫婦でさえ、上手くいかないこともあるんだ。そうじゃない二人ならどうなる?

そのうち些細なことから我慢が重なって、堪え切れなくなって、壊れてしまうってこと――容易く予想できるだろう」

「…………」

「迷っているならもう一度よく考えろ。長谷川だけじゃない、高遠の人生まで左右することなんだからな」

「…………」

 迷っているなら考えろ。

 彼の言うことは、もう何回も、何十回も、ひょっとしたら何百回も頭の中をループしていることだ。

 考えて分かることなら、とっくに結論を出せている筈なのに。

「わかった、じゃあ質問を変えよう。お前にとって一番大事なことって――譲れないものって、一体何だ?」

「私の、譲れないもの?」

「真っ先に思い浮かんだものを、守れるような決断をしたらいい」

「私の……譲れないモノ……」

 呟きを唇に乗せながら、怜と出会ってから今まで――約7年間の思い出が、頭のスクリーンに散りばめられていく。

 大好きな彼。真っ先に彼を選んであげたかった。

 それなのに、楽しく過ごした記憶より、惨めな気持ちの方がありありと蘇ってくるのは何故だろう?

 ―――私なんか、怜と結婚する資格なんてない。

 もうこんな情けない感情から解放されたい。あんなに輝いている怜と一緒にいたら、私はどんどんダメになってしまうかもしれない。

 全てを彼の所為にして、彼を恨み、嫌悪してしまう前に―――。

「小林先生、私……」

「ん?」

 長い逡巡のあと、私はコーヒーを啜る先生に身体を向けた。

「私――先生にお願いがあるんです」

 譲れないものを守るため、私は覚悟を決めて告げた。