Scene.5-3
「それで、先生に何をお願いしたんですか?」
「私と一緒に駆け落ちしてくれるように頼んだの」
アヤさんは、融けかけたアイスクリームをスプーンで掬い上げて口元に運んで言った。
「駆け落ち――」
「なーんてね。そんなこと、良い大人がOKするワケないでしょ?」
彼女はあっけにとられた私の顔を見て可笑しそうに笑った。
「駆け落ちなんてしてないのよ、私」
「どういうことですか?」
話がさっぱり見えない。堪らず私が訊ねる。
「私は結婚で潰れてしまいそうな自分自身を護ることを選んだ。だから咄嗟に、先生の家に私を置いてくれるように頼んだのよ。
当時、私と怜は既に同棲していたから、彼と一緒じゃ決心が鈍ると思って――信頼している先生とはいえ仮にも男性相手に、
よくそんな大胆なこと言ったと思うけど」
「先生は何て?」
「一蹴されたわ。馬鹿言うんじゃないって怒られた」
ただの教授と学生の関係であれば、まともな反応だろう。
「だけど私は引かなかった。小林先生ね、丁度次の日から同業者と懇親旅行みたいなのに行く予定があったのよ。
そのメンバーの中に、私が当時一番興味があった生物化学の、権威と呼ばれる方がいらっしゃったの」
椎名君の話では、確かアヤさんが消えたのは結婚式の一週間前ということだった。
「アヤさん、まさかその旅行に……?」
「そう。連れて行って下さいってお願いしたわ。先生は大分渋っていたけど、最終的には知識欲を訴えかけて粘り勝ち。
有意義な旅行だった。明確に進路を決めたのもその時だったの」
「…………」
切羽詰まった状況とはいえ彼女の行動力に仰天して、フォークに刺したチーズケーキがぽろりとお皿に落ちて戻る。
「だから私、そういう意味では怜を裏切ってないのよ。小林先生とは、本当に何でもなかったんだから」
「で、でも、高遠は駆け落ちって言ってたじゃないですか。ちゃんと、先生の名前まで出して――」
「ええ。私が怜にそう説明したからね」
「な、何でですか!? だって、小林先生との間には何も無いって、今言ったじゃないですか」
「うーん………どうやって説明したらいいのかしらねぇ……」
アヤさんは頬杖をつきながら、発言を整理するように少しずつ区切るような口調で続けた。
「結局、私は心の何処かで怜のことをライバルだと思っていたのよ。私よりも抜群に優秀な彼に、敵対心を持っていた」
「……はい」
「だから、そういう人間に対して――劣等感を持ってます、貴方が羨ましいです、だなんて言えないじゃない?」
「……は、はぁ」
おそらく彼女はそうあって然るべきだと思っているのだろう。いまいち同感できない私は返事に困ってしまう。
「結婚の話を解消する理由が欲しかった。他に好きな人が出来たって言うのは、一番理に適ってるでしょう」
「つまり、それって――言い方悪いですけど、高遠と別れるために小林先生の名前を利用したってことですか?」
「そうね。間違いじゃないわ」
「…………」
「呆れた? でもね、その時は真剣だったの」
「高遠に対しては悪いと思わなかったんですか?」
彼女のそういう複雑な思いを、きっと彼は察していなかっただろう。
可哀想なのは彼だ。事実ではなかったとしても、信頼していた教授や恋人に裏切られたという心の傷は癒えない。
問い詰めるように訊ねると、彼女は少し沈黙してから、
「思ったわ。でも、思わなかった」
と、どちらともつかない返事をした。
「彼のことは愛していたの。これは嘘偽りのない本当の気持ちよ。けど、彼を妬ましいと思う気持ちも存在していたって言ったでしょう。
ピカピカに磨き上げられた宝石みたいな彼に、傷をつけてあげたかった。そうすることで、私の方が彼より優位に立てる錯覚がしてね」
「……え?」
「私に裏切られたということで、怜が傷つくのは分かっていたわ。怜が人生で最初に味わうだろう挫折が私のことだと思うと、嬉しかったの」
いよいよアヤさんが何を言っているのか、私には理解できなくなってくる。ううん、したいとも思わないけど。
私はキッと対面の彼女を睨みつけた。
「そんなの――アヤさんの逆恨みじゃないですか。高遠は、何にも悪くないのに」
この人は、そういう身勝手な主張を続けて心が痛まないのだろうか?
アヤさんの言い分を支持できない分、私の口調はどんどん彼女を追い詰めるものに変わっていく。
「……そうよね。怜は、何も悪くない。悪いのは私なの。怜と対等で居たいと望んでしまった、この私」
私の反応は予想していたようで、彼女は静かに頷いて小さなため息を吐いた。
「でもね、何度も言うけど、怜を愛している気持ちは変わらなかった。高校でも、大学でも、海の向こうに行ってからもずっと。
離れれば離れるほど彼の存在を大きく感じてしまったのね。寂しさから逃れるために他の男と付き合ったりもしたけど、全然ダメだった。
それで、自分のしてしまったことに後悔したわ。私は何て未熟で、駄々っ子のような真似をしてしまったんだろうって」
「………」
「もう一度、怜と付き合いたいと強く思った。でも、今帰国したってきっと同じことの繰り返しになるでしょう。
だから自分磨きに専念したの。次また怜に会える日が来たとき、堂々と胸を張って居れる自分で居たかったから。
外見も内面も、彼に釣り合うような『完璧な女性』で在りたいと――この数年間は、それだけを考えて過ごしてきたのよ」
『彼はきっと以前の面白みの無い彼じゃない。そんな風に女性を愛することが出来る人だったって知って、
俄然、怜ともう一度付き合いたいって思ったの。きっと今回は上手くいくわ』
いつだったかキスマークの痕を指して、私にそう言ったことがあった。
高遠と別れたのは『身体の相性』だとか『高遠が優し過ぎて物足りない』だとか、そんないい加減な理由じゃない。
彼に負けじとする彼女のプライドが繕った余所向きのエピソードなんだろう。
けど――……。
『きっと今回は上手くいくわ』
妙にキッパリと言い切ったこのフレーズだけは――今度は高遠を愛することだけに専念できるという自信の表れだったのだろうか。
アヤさんの言っていることには到底納得できないし、高遠側に立っている私としてはもっともっと言いたいことはたくさんある。
でも実際、今の彼女は輝いている。
最初にアヤさんと顔を合わせた時、少なくとも私にとっては理想の女性だと思えた。
やり方は間違っていたとしても、彼女はその言葉通り、一途に努力を重ねてきた。
海外での経験。洗練された容姿。おおらかな対応、それに華やかな笑顔。
明るいを通り越して突拍子のない発言と大人っぽくて刺激的な服装は、ちょっとやり過ぎだったかもしれないけど、
それだって彼女なりの努力と言えなくはない。
全ては、高遠ともう一度出会い、やり直すため少しずつ積み重ねてきたモノ。
そう考えると、不器用ながら彼女の高遠への想いの強さが伝わってくるように思えた。
「……だからね、真琴さんと怜が付き合ってるって知った時はすごくショックだったのよ?」
アヤさんはちょっといじけた様に言ってみせながらも、小さく笑った。
「5年前、私が小林先生達との旅行から帰って来て、もう怜とは結婚できない――そう言った時ね、彼は初めて私にキツくあたったの。
それまでは常に優しくて穏やかだった彼が、『どうしてなんだ、何がいけなかったんだ』って、何度も」
「………」
高遠は普段感情を露わにするタイプではない。彼がそんな物言いをするのはとても稀なことだ。
「でも私は答えなかった。だって、彼の所為じゃないんだもの。怜がいけない部分なんて何もなかった。
もう何を言っても無駄だと思ったのね、彼は最後に『ずっと彩だけを想っているから』って言い残して、婚約の破棄を了承してくれた」
だから、と言葉を強めるように私の目を見つめながら、彼女が続ける。
「怜はまだ私のことを好きでいてくれてるに違いないって確信があったから、赴任先も成陵に決めたのに……。
彼の隣には貴女がいた。それで、取り乱してしまったのよ。あの時はごめんなさい」
あの時――いつだっただろうと思考を巡らしてみると直ぐに思い至る。
『そんなの嘘よ! そんなの嘘……怜、私のことが好きだって――ずっと、ずっと私だけを想ってるって……そう言ったじゃない!』
彼女があれだけ憤っていたのは、裏切られたという感情があったからだったのか。
「もう相手がいるんじゃ、今までの私の努力って何だったの? って思ったけど、ネコの姿を見て少し安心したのよね」
「……安心?」
「ええ。私が飼いたいって言ったネコを彼は相変わらず可愛がってくれてたから。怜ってね、本当は動物とかあまり得意じゃないのよ。
だから、きっとまだ私に未練があるだろうって思えて」
「それは……」
動物に関しては飼った以上の責任もあるし、一概にそうとも言えないのではないか、と思ったけど、
以前、椎名君も似たようなことを言っていた気がするし、否定はできないか。
「まぁ、長々と臆面もなく色々話したけど、何が言いたかったかって言うとね、真琴さん」
アヤさんはアイスコーヒーで口直しをしながら、ストローに付いたグロスを指先で拭った。
「私は、確かに身勝手な理由で怜と別れてしまったかもしれない。でも、それでもずっと怜だけを愛していたの。
お願い、最後のチャンスを私に頂戴――彼にプロポーズしてもらった函館山で、今度は私からプロポーズさせて欲しいの」
「っ――あ、アヤさん」
彼女の動作につられ口に含んだアイスティーを吐き出してしまいそうになりながら、私は目を瞠った。
「何度も言うけど、真琴さんには本当に申し訳ないと思ってるの。勝手なことを言ってるって重々承知してるわ。
本当は割り込む気なんて無かったけど、怜との大切な思い出の場所なの――だから、どうしても我慢できなかった」
「………」
「今回――今回だけでいいの。もし、怜に断られたら、私……ちゃんと諦めるから」
「あ、諦めるって……え?」
「だからお願い。最後のチャンスを下さい」
そう深々と頭を下げるアヤさんの姿はいつもの奔放な彼女とは別人のようで、私も一瞬言葉を忘れてしまった。
今回のプロポーズが失敗したら、彼女は高遠との復縁を諦める、と――そう言った。
そこまでして頼み込んでくるのだから、アヤさんはよほど明日の函館山に思い入れがあるのだろう。
大好きな人からプロポーズされた場所だ、そう思って当然だ。
だけど――……。
『――――ごめん』
私はアヤさんの代わりだった。そう知ってしまった今は、到底譲るワケにはいかない。
譲るということは、そのまま私の『カノジョ』という立ち位置をアヤさんに返すことになり、高遠との別れを決定づけてしまうだろう。
第一、私にとっても明日は高遠との関係を修復できる最後のチャンスなのだ。
このままアヤさんが高遠に想いを伝えてしまえば、きっと二人は……。
「……嫌です」
不意に零れた私の声は震えていたかもしれない。
アヤさんが心もとない様子で私を窺うのが分かる。
「わ、私……やっぱり納得できない。どの道、アヤさんが高遠を捨てたことには変わらないじゃないですか」
「真琴さん……」
「私だったら、自分のささやかなプライドのために大切な人を切り捨てたりはしない。本当に大切だなんて言えないです」
「…………」
「だから、その……譲れません。彼をこれ以上苦しめないで下さい」
私は嘘を吐いた。
アヤさんは高遠を愛している。そしておそらく、高遠もアヤさんを……。
苦しんでいるのは、二人の想いに抗おうとしている私だけだ。
でも私と高遠が上手くいっていないことに感付いているアヤさんには、そんなのお見通しなのだろう。
彼女は、傍らに置いたハンドバッグから青いケースを取り出した。
私が高遠の部屋で見たのよりも少し小さい、指輪のケースだ。
無言で中を開けると、控えめな一粒ダイヤがキラリと光った。
「どうしても捨てられなくて、怜と別れてからずっと傍に置いてるの。これを持っていると、彼と繋がっていられる気がしてね」
「………」
「随分と回り道をしたけど、やっと彼に誇れるような私になって戻ってきたつもりなの。怜を傷つけ苦しめてしまった分、
彼を幸せにしてみせる。それだけは約束するわ」
「………」
「返事は、今すぐじゃなくてもいい。今日一日考えてみてほしいの」
「…………はい」
考えたくない。考える必要はない。そんな気持ちでいっぱいだったけど、私は頷いた。
「じゃあ、堅苦しい話はここでお終いね、聞いてくれてありがとう。……そろそろ、仕事に戻らなきゃかしら。
何だか疲れちゃった気がしないでもないけど」
「……そんな。旅行、まだ始まったばかりですよ」
おどけた口調のアヤさんに、私が苦笑して言う。
「うふふ、そうね。でもじゃあ、もう少ししたら出ましょうか。駅の周辺に居れば、何処かのグループが通りかかるでしょう。
そしたら便乗して観光しましょ」
「そうですね」
私は相槌を打って、食べかけのケーキを口に運んだ。
雑誌やガイドブックで人気を博しているという代物だけど、今の私には味なんて全く感じられなかった。
・
・
・
「真琴ちゃん、お疲れ様」
「あ、芽衣」
夕刻、宿泊先のホテルに着くと、ロビーのソファで何かを書き留めている親友の姿があった。
膝に乗せたボードにクラスの名簿のような紙が貼ってある。
「クラスの皆はもうチェックイン済ませたの?」
「うん、今最後の班が到着したところ」
なるほど、人数の確認をしていたみたいだ。
「真琴ちゃん、荷物置きに行く? キー出そうか」
「お願いしていい?」
「勿論。寧ろ、一緒に行くね」
「有難う」
芽衣はサッと立ち上がって、フロントにキーを取りに行ってくれる。
職員用の旅行のしおりを見るに、私と芽衣はツインで同室。気心の知れた間柄なのでラッキーだった。
「エレベーターはこっちね」
芽衣に案内されながら、私はしげしげと建物の内装に目を配る。
所謂、ビジネスホテルみたいな感じだ。趣や飾り気はないけど清潔感があるし、まだ新しいのか建物そのものが綺麗だ。
修学旅行だと思えば無難な選択だろう。
「真琴ちゃん、今日はどのあたりを回ったの?」
「2年生の班と会ったから、その子達と時計台に行ったりしたよー」
「長谷川先生も一緒だったの?」
「…………あぁ、うん」
「そう」
そんな会話を交わしているうちに、部屋の前までたどり着く。
芽衣は鍵を開けて私を促した。
「ふう、やっと荷物が置ける――よいしょっ、と」
私は中に入るなり、入口の脇にボストンバッグを置いた。極端に重いものは入れていないつもりだけど、
歩き回って疲れた身体には煩わしい。
「あれ、でもじゃあ長谷川先生は?」
「さあ。私みたいに自分の荷物でも一旦置きに行ったんじゃないかな」
芽衣が扉を閉めつつ訊ねたことを返事しながら、私は一目散にベッドへと向かった。
そして、二つ並ぶそれの近い方にごろりと横になる。
「真琴ちゃん、せめて大きいバッグだけでもそっちに持って行こうよ」
入口に置きっぱなしにしたままの荷物達を見かねて、芽衣が運んでくれる。
この子は本当に気の利く優しい子だ。
「何だか疲れちゃってさ」
「修学旅行なんて慣れないしね」
「うん―――まぁ、他にも色々あって」
仰向けから寝返りを打って、室内を見渡してみる。
ロビーからして内装はイメージ通りだった。スタンダードなビジネスホテルのツイン。
テレビ、一人掛けのデスクにベッドが二つ。確認してないけど、おそらくユニットバスが付いてるだろうと予想できる。
「色々?」
「んー……」
芽衣にアヤさんの話をぶちまけたいとも思ったけど、程なくして夕食の時間だからそんな暇はない。
そもそも、私と高遠が上手くいっていないということを芽衣は知らない。
悪戯に心配させたくないという気持ちもあり、曖昧に濁した。
「そういえばさ、芽衣こそ今日はどうだったの?」
「うん……」
話題を彼女にすり替えるなり、目に見えて芽衣の表情が暗くなる。
「真琴ちゃん、私ね……椎名君のこと、もう忘れようと思う」
「え!?」
驚いて起き上がりこぼしのように反応する私の横で、芽衣は静かに、けれどもはっきりと言葉を重ねた。
「今日、椎名君がいる班に誘われて少し一緒に行動したんだけど……やっぱり、私もうダメみたい。
椎名君、紺野さんに夢中なんだもん」
「夢中って、どうしたのよ?」
私が間髪入れずに問いかけると、芽衣は小さく横に首を振った。
「……もういいの。椎名君が紺野さんのことが好きって分かったから、私は彼の気持ちを尊重しようって思う。
真琴ちゃん、今まで力になってくれてありがとう」
「芽衣……そしたら芽衣の気持ちは――」
「いいの。椎名君のこと好きだから、彼が紺野さんと居た方が幸せだって言うなら止める権利なんてないもの。
だから、お邪魔虫はもう止めるの」
芽衣は懸命に笑顔を作ろうと努力しているのが窺えたけど、くりくりと丸い瞳が潤んで今にも頬を濡らしてしまいそうだった。
「………」
あの気弱な芽衣が、ここまでキッパリと言い切るのだから、考えに考え抜いてたどり着いた結論なのだろう。
ここで私が無責任に言葉を投げるのは気が引けて、何も言うことができなかった。
「真琴ちゃんも、長谷川先生のことで大変かもしれないけど――何かあったら相談してね。
前にも言ったけど、真琴ちゃんと高遠先生には上手くいってほしいって思ってるから」
「………うん。ありがとう」
「うん」
頑張って向けてくれている芽衣の笑顔が痛々しくて、ちゃんと彼女の顔を見ることができない。
椎名君、散々芽衣を悲しませるようなことはしてないって言ってたくせに、結局こうなったんじゃないの。
苛立ちから、真っ白なシーツに生意気な口だけ男を思い浮かべ睨みつけた。
「……あ、私、小宮先生に人数報告しに行くの忘れてた。ちょっと行ってくるね」
「うん、分かった」
「もしかしたら時間かかるかもしれないから、夕食の召集時間になったら先に行っちゃっていいからね」
「はーい。行ってらっしゃい」
意識的に明るい声音で芽衣を送り出してから、私はばったりとベッドに倒れこんだ。
『真琴ちゃん、私ね……椎名君のこと、もう忘れようと思う』
兄が兄なら弟も弟だ。高校生の癖に二股かけるなんて、ホント許せない。
あんな男、芽衣に相応しくないと思ってたけど、いざ芽衣から紺野さんに本格的に乗り換えたと知れば、それはそれで腹が立つ。
……ただでさえ、昼間のことでむしゃくしゃしていた気持ちが、余計に落ち着かなくなってしまった。
…………。
アヤさんの話は、思っていた以上に赤裸々なものだった。
彼女が高遠に対して抱いていた劣等感、敵対心、嫉妬心。そういうのを、ありのままに話すのは、どんなに親しくても抵抗が生じる。
ましてや私はアヤさんにとって恋敵なのだから、彼女は話しながらも内心穏やかじゃなかっただろう。
『返事は、今すぐじゃなくてもいい。今日一日考えてみてほしいの』
返事、か。
そんなの決まってる。絶対に嫌だ。
私の中では相変わらず、あの二つの出来事が頭を占拠していた。
居酒屋でのキスと、化学室での『ごめん』。
高遠がアヤさんに傾いているのは明白だ。だからこそ、明日は譲れない。譲りたくない。
何が何でも断ってやる。そんな気持ちでシーツに包まり、ぎゅっと瞳を閉じた。
その時―――。
『椎名君が紺野さんのことが好きって分かったから、私は彼の気持ちを尊重しようって思う』
何気なく蘇った芽衣の言葉に、ふと、自分自身に置き替えて考えてみた。
『彼の気持ち』―――つまり、高遠の気持ちってことだ。
高遠はまだアヤさんを想っている可能性が高い。アヤさんも、ずっと高遠を想い続けていた。
彼が一番ネックにしていた駆け落ちの話だって、アヤさんの作り話で事実は無かった。
破談の一番の原因であるアヤさんが抱えていたコンプレックスは、彼女自身の努力で解消されている。
―――――あぁ、何だ。これでハッピーエンドじゃないか。
もう二人の間を遮るものは何もない。何も……。
ううん。一つだけあった。
「私だ……」
それに気が付いた瞬間、私は急に全身から力が抜けていくような感覚に襲われた。
私はずっと、アヤさんが私と高遠の仲を割こうとしていると思っていた。
でもそれは大きな間違いだったんだ。本当は逆。想い合う二人の間に割って入っていたのは私の方。
「…………」
昔アヤさんがしたことを納得できようができまいが、正しいと思えるか思えないかはもう問題じゃない。
『いいの。椎名君のこと好きだから、彼が紺野さんと居た方が幸せだって言うなら止める権利なんてないもの。
だから、お邪魔虫はもう止めるの』
芽衣の言うとおりだと思った。
高遠が好きだから、彼には出来る限り幸せになってほしい。
でも、アヤさんに裏切られ傷ついた心はアヤさんにまた愛されることでしか癒せないのかもしれない。
それなら、私はアヤさんに譲ってあげるべき……なのだ。
明日の夜の約束も、カノジョという立ち位置も―――。
『だから、お邪魔虫はもう止めるの』
お邪魔虫はもう止める。それで大好きな彼が幸せになるのなら。
それがきっと、少なくとも彼にとっては最良の選択だ。
私は、高遠と付き合い始めてからずっと考えていた。
元恋人の心変わりが彼の心を頑なにしてしまったのであれば、私が彼を想い続けることでそれを解してあげたい、と。
でも、人の心は変化し続ける。変化し続けるものに絶対なんてあり得ない。
私が彼を愛しているという気持ちは、絶対じゃない。永遠だとは限らない。
それなら――彼のためにも、アヤさんに隣に居て貰う方がいいんだ。
高校の時からずっと一途に想っていた相手なんだもん。大学までの7年間と、別れてからの5年間。
「12年かぁ……」
ポツリと音にしながら、改めて長いな、と思った。
四季を12回繰り返す間、ずっと一人の人を思い続けているということだ。
その12年の想いに比べてしまったら、私と高遠が過ごした5カ月間なんてほんの一瞬に過ぎないような気がする。
それがやけに悲しくて、目の奥から溢れるもので視界がぼやけた。
たったの5ヶ月、そう思えば大丈夫。
直情型の私のことだ。今までもそうだったように、少しの間落ち込めばケロリと忘れる。
……忘れられる。
「真琴ちゃん、ただいま」
扉の音と共に、芽衣の声が呼びかける。
「そろそろ夕食の時間だよ。レストランホールに集まって、って」
「うん、分かった。今行く」
私はメイクを崩さないよう、滲んだ目元を指先で押さえながら立ち上がった。
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