Scene.5-4
―――――――――――― 送信者 : 高遠 怜
件名 : 今日の夜 ―――――――――――― 本文 :
俺の手が空くのが多分21時
頃なんだけど、その時間に
直接函館山で待ち合わせ
でも構わない?
―――――END―――――
「真琴ちゃん?」
「………」
「ねぇ。真琴ちゃんってば」
「……あ」
私がベッドに寝転んだまま携帯のディスプレイを片手に固まっていると、
それを不審に思ったらしい芽衣が呼びかけてくる。
「どうしたの? いくら朝食がバイキング形式だからって、時間に限りがあることには変わらないんだから」
パジャマ姿の私とは違い、横にいる芽衣は既に着替えやメイクを済ませている。
その彼女が腕時計を気にしていたものだから、つられて私も携帯で時間を確認する―――ああ、もうこんな時間か。
我が成陵高校の朝食は7時〜8時の間ということになっていて、その一時間であればいつ会場に向かってもいいことになっている。
「真琴ちゃん、まだ着替えてないでしょう? あれ、お化粧もまだじゃない」
「うん――ちょっと調子悪くて」
「え、具合悪いの、大丈夫?」
「うん……そんなに大げさなことでもないの。でも食べると気分悪くなりそうだから、芽衣だけ行ってきて」
「真琴ちゃん……」
芽衣は何か言いたげな顔をしていたけど、長い付き合いということもあり、私が詮索して欲しくないということを理解したらしい。
優しい親友は追及することなく、
「早めに帰ってくるね」
とだけ言って部屋を出た。
芽衣の足音が遠ざかるのを待って、私は盛大にため息を吐いた。
―――調子が悪い筈だ。昨日は全くと言っていいほど眠れなかった。
理由なんて決まっている。高遠とアヤさんのことが頭から離れなかったからだ。
『高遠の恋人』というポジションをアヤさんに返そうと決めたのに、私の気持ちは未だ何処か割り切れないでいる。
頭では分かっているのだ。
高遠がずっと想っていたのはアヤさんで、その彼を捨てたものだと思っていたアヤさんも、本当は同じ気持ちだった。
二人が結ばれることが一番望ましい。例え、私が高遠と別れなければいけないとしても……。
「…………」
今までアヤさんのことで苦しんできた高遠が、これで救われるのだと思えばどうってことない。
そう自分に言い聞かせながら、彼のメールに返事を打った。
――――――――――――
宛て先 : 高遠 怜
件名 : ごめんなさい
―――――――――――― 本文 :
夜は会えない。
あの場所は、アヤさんと行く
べきだと思うから。
―――――END―――――
寝不足で回転の鈍い頭を必死に働かせて文面を考えたけど、これが精一杯だった。
本当はもっと分かりやすい言葉で、ストレートに「別れよう」って言うべきなのかもしれないけど、
そうしてしまったら何か――余計な未練たらしいことまで書いてしまいそうで、踏み切れない。
アヤさんにとって函館山は特別な意味のある場所だ。高遠にとってもおそらくそうだろう。
プロポーズっていう大切な思い出の場所をアヤさんに譲ったということで、身を引くという私の意志が伝わると信じたい。
……どちらにしろ、後のことはアヤさんに任せればいい。私の役目はここまでだ。
私は携帯のディスプレイを閉じると、彼からの返事を恐れるようにそれを遠ざけ、
重たい身体を起こして朝の準備に取り掛かった。
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修学旅行二日目は、まず札幌から函館へ移動するところから始まった。
特急に乗り込み約三時間揺られながら駅に到着すると、早速とばかりに各班、元町やベイエリアへと散らばっていく。
異国情緒の漂うこの場所はかねてから興味があって、ゆっくり回ってみたいと思っていた筈なのに、
今日ばかりは何を見ても何に触れても、あまり心に響かない。
それでも生徒を引率する立場として仕事をこなしたつもりではあるけど、観光を終えてホテルに着いた頃、
徒歩の移動が中心だったこともあり、私は完全に体力を使い果たしていた。
「あ、お帰り、真琴ちゃん。今日も同部屋だね、よろしく」
カードキーで扉を開けると、私よりも一足早くホテルの部屋に到着していた芽衣がそう笑いかけてくる。
内装は昨日泊まった部屋とさほど変わらない。ベッドが二つに、一人掛けのデスクとテレビ。
テーブルセットが付いている分、こちらの方がリッチな感じはするけれど。
「うん」
私もそう頷くと、昨日のように荷物をばら撒いたまま入り口側のベッドに倒れ込む。
「どうしたの、やっぱり具合悪い?」
「んー……」
到着するなり突っ伏したままの私を、芽衣の声が気遣ってくれる。
精神面での不調の方が断然大きかった私は、曖昧に濁すだけにした。
「フロントで薬とか貰ってこようか?」
「……そういうんじゃないの。大丈夫」
「そう? この後、見回りの予定はあるの?」
「ううん、今日はもう何の予定もないから」
見回りというのは、生徒たちが夜に外を出歩かないか、それと消灯時間にきちんと就寝しているかを確認する仕事だ。
全ての職員が一日目と二日目どちらかに、時間交代制で行うことになっている。
私は高遠と予定を合わせるため昨日のうちに済ませてしまった。
……高遠、か。
私は仰向けになって腕時計を覗いた。
そろそろ18時。観光を楽しんでいた生徒や先生方がホテルにチェックインする時間帯だ。
今日の夕食は全体で取るのではなく、朝食同様、班ごとに20時までならどのタイミングで済ませてもいいことになっている。
その後、高遠はアヤさんとホテルを抜け出して、あの思い出の場所へと向かうのだろう。
このホテルから函館山へはタクシーを使えば何てことない距離で、限られた時間でもプロポーズのやり直しくらいは可能だ。
高遠はきっと迷わず受け入れるに違いない。
…………。
「ねぇ真琴ちゃん、多分後の時間の方が混み合うだろうから、先に食べちゃおうか?」
「うん――そうだ、芽衣」
「何?」
「芽衣はさあ、今日はこの後見回りとか、外に出る予定は無いの?」
「私? ……無いけど、どうしたの?」
芽衣は一瞬、おそらく椎名君でも想い浮かべたのだろう。少し寂しげな表情を浮かべてから、首を横に振った。
「それなら、私に付き合って貰ってもいいかなあ?」
私はベッドから起き上がり甘えた口調で言うと、彼女の機嫌を窺うように小首を傾げた。
・
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「もー芽衣、今日は楽しく飲もう、ね?」
夕食後、私はこっそり近くのコンビニで買い込んで来たアルコール類をバッグから出し、テーブルの上に次々と並べた。
「ま、真琴ちゃん、これ今の間に買ってきたの?」
「うん、そうだけど」
ビールやチューハイ、ハイボールやカクテルなど、あらゆる種類の缶を取り出しては置いていく様を見て、芽衣はあんぐりと口を開ける。
「よくそんなに買ったね」
「うん、もうね、今日はとことん酔っ払おうと思って」
そう意気込んでみせながら椅子に腰かけると、それに倣うように芽衣も向かい側へ座った。
こういう旅行なら教員同士で軽い飲み会みたいなのもあるかと思いきや、空いた時間は個々に過ごすのが暗黙のルールらしい。
生徒の引率とはいえ3日がかりの大仕事だから、少しでも休む時間を作りたいと言う気持ちは分からなくない。
そのお陰もあり、こうして芽衣と密やかにお酒を嗜むことが出来るのだけど。
「……ねぇ真琴ちゃん、もう訊いて良い? 何かあったの?」
芽衣は、朝とはまるきり違う私のカラ元気な姿に眉を顰めて続けた。
「それに、今日は高遠先生と何処かに出かけるんじゃなかったの? その前にこんなに飲んだら――」
「ああ、それはもういいの」
私は何でもないように言った。
「もういいって?」
「高遠との約束、アヤさんに譲っちゃった」
「え?」
「ついでにね、カノジョって立場も――アヤさんに返そうと思って」
「ええ?」
芽衣は私の言葉に面食らい、ただただ驚くような声を上げるだけだ。
「だから芽衣、今日はとことん付き合ってよ」
「うん、それは全然良いんだけど……。 でも真琴ちゃん、その話本当なの?」
「何が?」
「それってつまり――高遠先生と別れるってことでしょ?」
「そういうことになるね」
私は頷きつつ、手近にあったレモンのチューハイの缶を開ける。
「そんなあっさりと……」
「だってしょうがないもん、高遠はアヤさんが好きなんだから。はい、芽衣にはこれ」
理解できないと言いたげな芽衣に、彼女が好きそうな桃ベースのカクテルを差し出した。
「あ、ありがと……。え、待って、高遠先生が長谷川先生を好きって、それ本当なの?」
「うん。高遠、やっぱりアヤさんが好きだったみたい。何だかんだで忘れられなかったんだよね」
「そんな……」
「芽衣には応援して貰ったし、色々あったから本当に申し訳ないんだけど……高遠が私と付き合ったのも、私がアヤさんに似てるからなんだって。
本人が現れたら、私に勝ち目なんてあるワケないっていうか――」
自嘲の笑みを零すはずが、零れたのは涙だった。ポタリとチューハイの缶の縁を弾いて落ちる。
「真琴ちゃん……」
それを見逃さなかった芽衣が、驚いたように私の名を呼んだ。
「やだ、別に泣くつもりなんて無いんだけどな。もう、自分なりには納得してるんだよ、それが一番いいって。
ただ、やっぱり、高遠のこと好きなんだよね。……私が我慢すればいいだけの話なのに」
「真琴ちゃん、いいよ。そんな風に強がらないで」
芽衣の言葉に顔を上げると、彼女は小さく首を振った。
そして、その丸い瞳を潤ませ、細い声を震わせながら続けた。
「私の前では強がらないで。……分かってるつもりだから。真琴ちゃんの言ってることが本当なら、
私、真琴ちゃんの気持ちが誰よりもよく分かるから―――」
「芽衣……」
芽衣が椅子から立ち上がり、私の首元に抱きつきながら掠れる声で囁いた。
彼女も今、私と同じ気持ちを抱いている。
愛する人の心変わり――それは、自分自身ではどうすることもできない、絶望的な状況。
私達は慰め合うように抱き合いながら、擦り切れた心の痛みをアルコールで紛らわせた。
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「大体ねぇ、失礼なのよ。どーゆーこと? 代わりって」
テーブルの上にズラリと並べたアルコールの缶を半分ほど消費するころには、私はかなり開放的な気分になっていた。
何となく頭や身体がフワフワして、思っていること全てを口に出していいように思える。
そりゃそうだ。空になった缶は殆ど私が消費したと言っても過言ではない。
「本当ね。高遠先生、酷いこと言うんだから」
芽衣は私に比べたら微々たる量しか飲んでいないけれど、元々そんなにお酒に強くないものだから、既に顔が真っ赤になっている。
「もうサイテーよサイテー。こっちは歓迎会の時にアヤさんにキスしたのも知ってるんだからー」
「え!? そんなことしてたの?」
「してたしてたしてた。私見ちゃったもん。お店の入り口でねー、しかも高遠から!」
「ますます酷い! 高遠先生、そういうところはちゃんとしてると思ってたのに」
……あれ、この話、さっきもしなかったっけ? 芽衣の反応も2、3回は見てるような。
そんなデジャヴに襲われるけど、まあいいや。気持ちいいからこのまま愚痴ってしまおう。
お酒が進むうちに、とうとう芽衣には全て話してしまった。
最近、高遠との仲が上手くいってなかったこと。それが歓迎会でのキス事件が原因だったこと。
化学室での「ごめん」、そして、アヤさんの告白――。
この感じだと、何回かループして話してしまったかもしれない。それでも芽衣は迷惑なそぶりも見せず毎回聞いてくれている。
………いや、もしかしたら彼女も酔っ払っているだけなのかもしれないけど。
「酷いって言えばね、私も今日は散々だったの」
「芽衣もー?」
「うん。今日は紺野さんに誘われて、また椎名君の居る班で行動してたんだけど」
「紺野さんって、椎名君と仲良い子だよね?」
芽衣はこくりと頷きながら、とろんとした目を伏せた。
「途中で、二人でコソコソしながら何処か行っちゃったりとかして」
「えぇー何それ、感じ悪い!」
「……折角忘れようとしてるんだから、そういうことするくらいなら呼んでくれなきゃいいのにって思っちゃった」
「うわ、最悪。全く、あの減らず口男ったら、どんだけ芽衣に辛い思いさせたら気が済むワケ!?」
私は憤りながら新たに開けたハイボールの缶を傾け、嚥下する。
「……でもね、不思議なんだけど、寂しいなって思う気持ちはあっても椎名君を責める気持ちにはならなくて」
「芽衣は優しいからだよ。優し過ぎるくらいに」
私が口を尖らせると、対面の彼女は少し照れたようにしながらも首を振った。
「ううん、そういうことじゃなくて。……やっぱり、私って椎名君のこと好きなんだなって。しみじみ思っちゃったんだよね」
「………」
「あはは、今さら再確認したってどうにもならないことなのにね。胸にぽっかり穴が開いたような、そんな感じ」
「……うん」
まるで自分の心境をそのまま言い当てられたような思いがして、私は頷くしかできなかった。
「ねぇ、真琴ちゃん」
「何?」
「私達、今まで何をするのも一緒だったでしょう? 学校も、就職先も。
まさか――失恋するのも一緒なんて思わなかった。そんな所は重ならなくたっていいのに」
「………本当だね」
何気ない芽衣の言葉が可笑しくて、つい噴き出してしまった。
「でもね、今回のことを決断できたのは芽衣のお陰なんだよ」
「私の?」
「そう」
芽衣は少し意外そうに眼を瞠った。
「昨日、私がホテルに帰ってきた時、『椎名君のことが好きだから、彼のことを忘れる』って……そう言ったじゃない?」
「うん」
「自分のことに置き替えてみて気付いちゃったんだよね。高遠のことを好きなら、彼が一番愛している人と結ばれるようにしてあげるべきだって」
「…………」
「アヤさんは一途に高遠のこと好きで、高遠もアヤさんのこと忘れられなくて。……それなら、私が身を引けばいいんだってやっと分かった」
「ごめんね、真琴ちゃん……それって、私が余計なこと言ったから――」
「あ、ううん、勘違いしないで。別に芽衣の所為だって言ってるワケじゃないの」
私は感謝の気持ちを伝えたつもりだったのだけど、当の彼女は責任を感じてしまったらしい。
居心地悪そうに俯いてしまう芽衣に慌てて片手を振った。
「……それにね、謝らなきゃいけないのは私の方だよ。芽衣と椎名君の仲を気まずくしちゃったのは、私が余計なことしたからだし」
あの日――私は辛い出来事から目をそらすため、勢いで「椎名君の部屋を調べてみよう」なんて言ってしまった。
それが芽衣と椎名君の関係を壊してしまう原因になってしまって……何度謝っても足りないというのに。
「真琴ちゃん、だからそれはもういいって言ったじゃない」
芽衣はこの話が出ると、決まって気丈に微笑んでくれる。
「彼を信じたい気持ちは勿論あったけど……私が100%椎名君を信じていたら、真琴ちゃんの誘いを毅然と断ってたと思う。
そうできなかったってことは心の何処かで彼を疑って、真実を知りたいって思ってた証拠なの、きっと」
「………」
「だから、何度も繰り返しちゃうけど、真琴ちゃんが謝る必要はないの。……ね?」
「芽衣……ありがとう」
芽衣がそう言ってくれることで、あの日から私に圧し掛かっていた罪の意識が薄れていくのを感じた。
その思いやりを受け止め、掛け替えのない親友が彼女で良かった、と心から思った。
と――飲みかけのハイボールの缶の傍に置いた私の携帯が振動を始める。
ディスプレイを開いて確認してみるとメールではない。着信だ。
――――高遠からだ。
朝、私が例のメールを彼に送信すると、何時間か後に一通、返信がきた。
―――――――――――― 送信者 : 高遠 怜
件名 : Re:ごめんなさい ―――――――――――― 本文 :
どういうこと?
―――――END―――――
私はそれ以上の返信を控えた。
直にアヤさんから高遠本人に連絡が行くと思ったのだ。直接彼に別れを告げる勇気はまだない。
「真琴ちゃん、出なくていいの?」
振動を続ける携帯と睨めっこしている私を気にして、芽衣がそう訊ねる。
「……うん」
私は頷きながら赤い電話マークのボタンを長押しして、電源を切った。
そしてその出来事を忘れるように、ハイボールを口にする。
「そういえば、長谷川先生には伝えてあるんでしょう? ……その、高遠先生を諦めるってこと」
「うん。昼間少しだけ一緒に行動したから、伝えたよ」
芽衣はおそらく、私の反応を見て、今の着信が高遠だと感付いたのだろう。だから、アヤさんのことを訊いてきたのかもしれない。
アヤさんは私の返事を聞くと、至極嬉しそうに笑みを浮かべた後、私に深々と頭を下げた。
そして「ありがとう、真琴さん」と、声にならない声で呟いた。
私はふと腕時計を見た。20時40分過ぎ……二人ともホテルを出発した頃だろうか。
いや、もう考えたくない。いっそ、考えられなくなるほど、酔っ払ってしまえたら―――。
私はハイボールの缶を一気に飲み干すと、今度は柑橘系のカクテルに手を伸ばした。
「真琴ちゃん、流石に飲み過ぎだよ。二日酔いになっちゃうよ?」
時間が経つにつれどんどんペースが速くなる私を心配して、芽衣が窘める。
「いーの! 今は飲みたい気分だから、いっぱい飲むよー」
「真琴ちゃんったら。明日具合悪くなっても知らないんだからね」
芽衣の気遣いを振り切り、私は新しい缶を開けた。
その時、部屋の扉から、コンコン、とノックのような音が聞こえてきた。
「真琴ちゃん、今何か聞こえたよね?」
「……んー、聞こえたような、聞こえなかったような」
ノックにしては控えめなもので、アルコールに支配されつつある私には、一瞬、聞き間違いかとも思える程度だった。
私達が顔を見合わせていると、今度は先ほどよりも少しだけ大きな音でコンコン、と扉を叩く音がする。
「……誰だろう? 私、ちょっと出てくるね」
扉側に近かった芽衣が立ち上がり、扉を開けて外を覗いた。
「――あら……? 紺野さん」
芽衣は驚いたように声を上げた。私から扉の向こうは見えないけれど、芽衣の言葉からして3−Cの紺野さんだろう。
職員の部屋割は旅行のしおりにも載っているようだから、生徒が訪ねてきてもおかしくは無い。
「月島先生、大変なんです」
私も聞き覚えがあるその声の主は、どうしてか切迫した様子だ。芽衣を急かす様に息を切らせている。
「ど、どうしたの?」
「すみません、先生、ちょっと来てもらえませんか?」
「え……?」
「お願いします、出来るだけ早く! 一緒に来てくださいっ」
何かトラブルがあったらしいことは、彼女の動転した様子で伝わってくる。
状況を理解した芽衣は、先ほどまでリラックスさせていた表情をきゅっと引き締めて私を見た。
「芽衣、早く行ってきなよ」
芽衣の視線に頷きながらそう言うと、彼女はすぐさま、
「ごめんね、真琴ちゃん。ちょっと行ってくるね!」
と言い、紺野さんと共に廊下へ駆け出して行った。
――――何があったんだろう? 生徒はもうそろそろ消灯の時間だと言うのに。
事によっては、私も一緒についていくべきだったか……そんなことが頭を掠めたけど、いや、と思いなおす。
いよいよ目の前がぼんやりしてきた。生徒の手前、こんな酔っ払い教師が現れるワケにもいかない。
「はぁー……」
私は新たに開けたカクテルの缶を傾けながら、電源の落ちた携帯電話を見た。
「………今ごろ、何で電話なんてしてきたんだろう」
これから最愛の人とデートの筈なのに、今更『代わり』だった私に何の用だというのか。
なんて、悪態をついてしまいながら、寂しさを誤魔化すようにひたすら缶の中身を飲み下した。
―――そう、寂しい。
もう高遠と今までみたいに触れ合えなくなるなんて、たまらなく寂しい。
でも、それで高遠が幸せになるなら……。
………。
「あはは、なーんちゃって……」
そこまで思って、お酒によって変に気分が高揚してしまった私は、なんだか可笑しくて笑いが込み上げてきてしまう。
昨日から何度も何度も自分に言い聞かせ、つい今しがたも口にしたその言葉。
『高遠のために、彼を諦める』
いい感じに浮ついた今の思考では、自己犠牲めいたその言葉がやけに滑稽に響いた。
私って、そんな風に物分かりのいいタイプだった?
欲しいものは欲しいって、キッパリ言える人間じゃなかったっけ?
くよくよ同じことで悩み過ぎて、感覚が麻痺してしまったのかもしれないけど――そんなの、全然私らしくない。
そもそも、私……高遠の気持ちを自分で確認したことなんてあったっけ?
高遠がアヤさんを好きでも、私は彼のことが好きだと、一度でもそう伝えたことはあった?
熱く火照った頬を両掌で覆いながら、働きの悪い頭で必死に思考を巡らせてみる。
…………答えはNOだ。
そう思い至ったところで、私は音を立てて席を立った。
足元がふらつき、身体を支えるためにテーブルに体重を預ける。
すると飲みかけの缶が倒れ、その拍子に僅かに残った中身がテーブルに水溜りを作ったりしたけれど、そんなのもう目に入らなかった。
確かに、高遠には幸せになって欲しい。
でもその隣に、少しでも私が居れる可能性があるのなら――最後に一度だけ、その可能性にかけてみたい。
この気持ちを彼に伝えよう。
私がこんなにも彼を好きで、彼の傍に居ることを望んでいるということ。
それでもなお高遠がアヤさんを選ぶのであれば、そのときは勿論、仕方がない。
けど、一度も彼に気持ちをぶつけないまま別れるのは、やっぱり違うと思うから。
そう心に決めると、私は携帯を拾い上げ、ベッドの脇に置いてあったバッグを片手におぼつかない足取りで扉に向かった。
やたら重たく感じるそれを身体全体で押し開けると――……。
「―――え?」
開いた扉の向こうには、意外な人物の姿があった。
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