Scene.5-5
「アヤさん……」
「あら、真琴さん。丁度よかったわ、今ノックしようと思っていたところなのよ」
「ど、どうして――、今頃はもうロープウェイに乗ってる位の時間じゃ……」
扉の向こう側には、ここに居る筈のない彼女の姿があった。
時計を見間違えたかと再度手元で確認してみるけれど、時計の短針はやはり限りなく9に近いところを指している。
手間が省けた、なんて言わんばかりに平然としている彼女の態度が分からなくて、目を瞬かせていると、
「やだぁ、真琴さん酔っ払ってるの? 凄くお酒の匂いがするんだけど」
「あ……」
今の今まで色んなアルコールを飲み尽していただけあり、呼気で気付かれてしまったらしい。
アヤさんは綺麗な顔を顰めて小さくため息を吐いた。
「そんなんじゃ、怜だって呆れて心変わりしちゃうかもしれないわよ?」
「え?」
「全く、そんなに飲んでるとは思わなかったわ」
「アヤさん、今何て言ったんですか?」
最早苦笑を通り越して面白がっているような彼女へ、問い質す様に言った。
「えぇ? そんなに飲んでるなんて――」
「そうじゃないです、その前! そのひとつ前の言葉です」
「……ああ、だから、そんなんじゃ怜だって呆れて心変わりしちゃうかもって?」
「――それってどういう……っていうか、アヤさん、この時間は高遠と函館山で約束してるんじゃないんですか?」
「あらあら、そんなに興奮しないでよ」
頭の中がクエスチョンマークでいっぱいな私を落ち着かせるように、アヤさんはひらりと片手を振った。
「……うーんとね。結果だけ言うと、振られちゃったのよ、私」
「えぇ!?」
「シッ、大きな声を出さないで。そろそろ消灯の時間だから、先生方が見回りに来るわ」
周囲を気にする素振りをしてから、アヤさんは人差し指を唇に当て、私の瞳をじっと見つめた。
「真琴さん、五分だけ部屋に入れてくれる?」
「あ、はい――」
と答えた時には、彼女は私の身体をすり抜けて、靴を脱いでいた。
奥のテーブルに並んだ空き缶が目に付いたのだろう。アヤさんは、
「……わ、部屋の中もお酒の匂い。って、真琴さん、一人でこんなに空けたの!?」
ぎょっとした様子であからさまに目を瞠った。
「あ、いえ、さっきまで芽衣がいて……」
素直に認めるには気が引けて芽衣の名前を出したけど、殆ど私が飲んだことには変わらない。
「信じられない、修学旅行だっていうのによくこんなに飲んだわね」
「…………返す言葉もありません」
さほど咎めるようなニュアンスは感じられなかったものの、アヤさんの言葉に胸を突かれる思いだった。
アヤさんの言うことはもっともだ。仕事の一環での旅行だというのに、私ったら何をやっているんだか。
情けなさで一気に酔いも醒めてしまいそうだ。
「うふふ、別に貴女を怒りに来たワケじゃないのよ? そんな顔しないで」
目に見えて落ち込んだ表情でもしていたらしい私の頬をアヤさんが人差し指で軽く突き、背後の扉を閉めた。
「あの、よかったらテーブルの方に」
「ううん、直ぐ帰るからココで良いわ」
彼女を奥へと促したけれど、首を横に振ってじっと私を見た。
「真琴さんに今どうしても伝えなきゃいけないことがあって寄っただけなの。あまり時間がないから簡潔に言うわね。
私、真琴さんに今日の時間を譲ってもらったでしょう? それで、夕食前に電話で連絡したの。
『どうしても今日の夜、プロポーズしてもらった函館山で貴方に伝えたいことがある』って」
「……はい」
「そしたら怜ってば、何て言ったと思う?」
高遠はそれを受け入れたんじゃないのだろうか?
私が首を傾げていると、アヤさんは不満を隠しきれない表情で細く息を吐いた。
「……『どうして彩と行かなきゃいけないんだ?』ですって。失礼しちゃうと思わない?
だから、ムードに欠けるかとも思ったけど、私から全部説明したのよ。真琴さんに頼んで時間を譲って貰ったこと。
それと、昔怜にプロポーズしてもらったあの場所で、今度は私からプロポーズしたかったってこと」
「それで、高遠は何て答えたんですか?」
「『冗談じゃない、いい加減にしてくれ』って怒られちゃった」
「え!?」
「しかもね、その後慌てて真琴さんの心配をし始めちゃったのよ」
「……私の?」
「そう。真琴さんが急に怜との約束を断った理由が私のためだ、って分かったからだと思うんだけど、私の一大決心した逆プロポーズなんてそっちのけで、
『だから返信が無いのか』みたいなことをブツブツ言って切られたわ。酷過ぎない!? ――って、真琴さん、大丈夫?」
アヤさんは話の後半になると、ないがしろにされた悔しさからか苛立ったような声を上げていたけれど、
私は余りの驚きと、次いでじわじわと込み上げてくる安堵感に、ぺたりと膝をついてしまっていた。
「……あ、アヤさん、それ……本当ですか?」
私を立ち上がらせようと差し出された彼女の手に頼りながら訊ねる。
「本当よ。私がそんな嘘吐いたって何の意味も無いじゃない。……私、何だか馬鹿馬鹿しくなって何も言う気にならなかったわ。
結局、今も学生時代と同じ気持ちを引きずり続けてたのは私だけだったってことよ。怜は私のことなんて何とも思ってないのね。
近頃は真琴さんと上手く行ってないみたいだったから、もしかしてと思ったんだけど――単なる勘違いだったみたい」
「何とも、思ってない……?」
起き上がった私は、お礼を言うことも忘れて半信半疑で呟いた。
高遠は、アヤさんのことを何とも思っていない。
聞き間違いじゃなく、彼女は今そう言った……?
「――とにかくそんな感じで、会う時間すら作ってもらえなかったのよ。5年間のブランクは怜にとってちょっと長すぎたみたい。
ま、私だってそれ位は覚悟してたわ。……当然よね、私は怜を捨てて自分のプライドを取った女だもの。
怜が私を恨む事はあっても、私が怜を恨む資格なんてこれっぽっちもない」
アヤさんは自嘲の笑みを零して、何かをふっ切るような深い深いため息を吐いた。
「だから、約束通り、もういいわ」
「え、約束通りって?」
何のことだか分からないという様子の私に、アヤさんが可笑しそうに噴き出した。
「やだぁ、忘れたの? 昨日約束したじゃない――私から怜にプロポーズしてダメだったら、もう彼のこと諦めるって」
「あ……」
『今回――今回だけでいいの。もし、怜に断られたら、私……ちゃんと諦めるから』
昨日の彼女の言葉が脳内で再生され、そんなことを言っていたなと思い出す。
「私のことなんて全然眼中にないの、痛いほどよく分かったから。真琴さんにあげるわ」
「アヤさん……」
「それで怜から伝言まで言付かってきた私ってすごく優しくなぁい? 真琴さん、電話もメールも返事しなかったんですってね。
律儀っていうかバカ正直っていうか……うふふ、まぁそこが真琴さんの良いところでもあるんだけど」
「………」
「それって、私のために義理を通してくれてたってことでしょう? だから、私もその分は返そうと思ってね」
アヤさんはくすくすと笑いながら脇に抱えたバッグから携帯電話を取り出すと、何やら操作を始めた。
もしかしたら、その伝言とやらはメールで受け取ったのかもしれない。
「……『約束通り、気が向いたら函館山の展望台まで来るように伝えてくれ』ですって。勿論行くでしょう?」
「あ、はいっ」
「それならなるべく急いだ方がいいわ。たしかあの場所って営業が22時までだったと思うのよね。
タクシーに乗りさえすればそんなに時間は掛からないけど――真琴さん、大丈夫? 酔っ払いだから心配よ」
「だ、大丈夫です! 何だかビックリして、頭も冴えちゃって――」
体調は悪くないことをアピールしようと、大きく頷こうとしたのだけど―――。
「!?」
動かした頭が妙に重たく感じて、それを支える足元がふらつき、はずみで持っていたバッグも落としてしまう。
「ほらぁ、全然ダメじゃないの」
「お、おかしいなぁ……。割と意識はハッキリしてるんですけど」
張り詰めていた気持ちが解れて、頭より身体に酔いが回ってしまったのだろうか。
アヤさんに肩を貸り、支えてもらいながら私は情けない声を上げた。
「さては、普段飲まない量飲んだわね?」
「………そうかもしれません」
「もー、ホント無茶するわね。これで明日具合悪くても誰にも同情して貰えないわよ?」
「……はい、すみません」
改めて自分の愚かさを反省し項垂れていると、アヤさんは支えている側の手で私の背中を叩きながら、
「どうせ失恋したと思ってヤケ酒のつもりだったんでしょうけど。そういう意味では、アテが外れてよかったわね?」
「………」
勘のいいアヤさんにはそこまでお見通しだったらしい。何も言えないでいると、彼女は面白がってまた声をたてて笑う。
「ふふ、素直ね、真琴さん。……って、こんなことしてる場合じゃないわね。怜が待ってるだろうから、早く行ってあげて。
流石に、一緒に行ってあげるほどのお節介はできないわよ、ちゃんと行ける?」
「はい、大丈夫です」
私は少しふらつきながらもアヤさんの身体から離れ、落ちたままだったバッグを拾って貰い、それを受け取った。
「それならいいんだけど」
「アヤさん」
「何?」
「……ありがとうございます。あの、高遠の伝言とか教えてくれて」
黙っていることだって出来たのに、彼女はわざわざそれを伝えに来てくれた。
そのお礼だけは告げて出ていかなければいけない気がして、私はドアに手を掛けたまま彼女を振り返った。
「いーえ。私の完敗だもの。それに、色々引っ掻きまわしたのは私だから、せめてこれくらいはしないとでしょ。
ついでに真琴さんの替わりにヤケ酒の続きやっててあげるわ。嫌とは言わせないわよ?」
「……アヤさん、ちゃっかりしてるなぁ」
彼女はこんな時でも思いのほかマイペースだった。舌を出して、いつものように突飛なことを言い出す。
私はそんなアヤさんの表情を今日初めてまじまじと覗き込み、あれ、と思った。
いつも目尻を囲むようにクッキリと引かれているアイラインが欠けている。
私の前ではこんな風に明るく振舞っているけれど、彼女の高遠への想いは12年分だ。
――涙で消えていたっておかしくはない。
「ほーら、何ボーっとしてるの?」
「は、はい!」
彼女の葛藤の跡に気を取られていると、そんな私を急かす様にアヤさんが促す。
私はひとつ返事をして、後ろを振り返らずに部屋を飛び出した。
・
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なるべく他の教員に見つからないようにホテルを出て、覚束ない足元のまま直ぐにタクシーを拾った。
行先は勿論函館山のロープウェイ。短く告げると、私は後部座席に凭れた。
思ったよりもずっと酔っているらしい。部屋からタクシー乗り場がこんなに遠いなんて思わなかった。
バッグの中のメイクポーチから、アイシャドウのコンパクトを取り出して顔色を確認する。
うわ、顔赤いなぁ。あーあ、化粧も崩れちゃってる。
……これじゃ、誰がどう見たって飲み過ぎ、か。
高遠に会ったとき、本当に呆れられて愛想尽かされなきゃいいけど。
―――って、高遠!
そこまで思考を巡らせて、私は初めて肝心なことに思い至った。
函館山の展望台で待ち合わせってことだったけど、具体的にどの辺に居るんだろう?
ていうか、何も考えずに行ってバッタリ会えるような広さなの?
……まずい。初めて行くからどんな所かも想像つかない。
いや、でも携帯電話があれば……そう、携帯があるじゃない。
「あ!」
私は慌ててバッグの中身を漁り、その携帯電話を取りだした。
そして、ディスプレイを開き、その画面が真っ暗なことを確認する。
いけないいけない、電源切ってたんだった。
液晶画面に起動の『Welcome!』という表示が映るなり、メール作成画面に移動した。
早速高遠に連絡――……と。いや、待って。
そういえば、さっきは大急ぎでホテルから出てきちゃったから、生徒のもとへ行った芽衣に何も言わないままになっちゃったんだっけ。
まずは、芽衣を置いて外に出たことを伝えないと……。
――――――――――――
宛て先 : 月島芽衣
件名 : ごめんね!
――――――――――――
本文 :
今、ちょっと用事ができて、
外にいるの。あと2時間もあれ
ば戻るから。
そっちは大丈夫だった?
―――――END―――――
これでよし、と送信ボタンを押す。
そもそも芽衣は携帯を持って出て行っただろうか、という疑問が頭を掠めるけれど、どちらにしろ直に部屋に戻るだろうと思い、
あまり深く考えるのは止めた。
続いて高遠にメールを送るべく作成画面を開いたところで、ディスプレイが突然点滅し始めた。
『電池がありません 充電してください』
「嘘でしょ!?」
「どうかしましたか、お客さん」
私が声を上げると、ドライバーが不思議そうな声音で訊ねてくる。
「あ、いえ……」
何だってこんな時に……!
運の悪さに叫びたい気持ちを堪えて、私はパチンと携帯を畳んだ。
―――困ったことになった。これじゃあ、連絡もつかないじゃない。
携帯さえあれば……と思っていたのに、高遠と会えるかどうかも怪しくなってきたワケだ。
焦る私を余所に、タクシーはロープウェイ乗り場に到着してしまう。
「……ここが、ロープウェイ乗り場か……」
車を降りてすぐ、夜の暗がりに映える白っぽい建物が目に付いた。
チケットカウンターは入って直ぐ。山麓の乗り場と売店もその中にあり、私はそれぞれを目に焼き付ける暇もなく乗車券を買い、
発車間際のゴンドラに滑り込んだ。
この時間でも割と乗ってる人が居るんだ。いや、逆にこの時間だから、かな。
主にカップルや親子連れなどで混み合う箱の中を、落ち着いた女性のアナウンスが流れていく。
私はその声へ意識を注ぐこともなく、窓ガラス越しに映る紺色に様々な思考を重ねていた。
高遠はアヤさんのことを何とも思っていない。
アヤさんはさっきそう言ったけど、それじゃあ、居酒屋のキスや化学室での「ごめん」は何だったっていうの?
最近彼女と仲良く見えたのは何故?
私はアヤさんの代わりなんじゃなかったの?
―――彼を失うかもれないという恐れが無くなった今、訊きたいことはたくさんある。
早く彼に会いたい。会って本当のことを知りたい。
私は充電の切れた携帯をぎゅっと握りしめた。
そのためには、何としても彼の姿を見つけ出さないと……。
膨れ上がる期待と不安を乗せ、ゴンドラは山頂へ向かって上昇していった。
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