Scene.5-6




 ゴンドラから降りてロビーに足を踏み入れると、そこは既に別世界だった。

 ガラスを隔てて向こう側に、100万ドルの夜景と謳われる街並みが見渡せる。

「わ……」

 今日の昼間、生徒達と共に廻った施設の一つ一つが光を纏い、夜空に広がる星座のように――ううん、それよりも色鮮やかで、

 華やかな景色が眼下に広がる。

 正直、この場所でも十分なくらいの眺めだった。実際この場所で立ち止まる人達も結構多い。

 高遠は確か、展望台で待っていると言っていたっけ。

 私はチケットと一緒に貰ったパンフレットを見た。

「展望台は四階か……」

 自由の利かない身体でなんとか階段を上っていく。足が思うように動かないのがもどかしい。

 そのせいか運動量の割にはゼーゼーと息が切れ、四階に着くなり壁に近くの凭れて呼吸を整えた。

 思ってたより広い。それが正直な感想だった。

 山頂の展望台っていうから、もっとこう、小ぢんまりしているような想像をしていたんだけど、

 途中階にスーベニアショップやレストラン、イベントスペースなんかがあったりして、当然訪れる人の数も予想以上だった。

 では肝心な展望台はどうか――そう思って外に出て行ってみると。

「わわわ………」

 四階の屋外展望スペースは二箇所ある。小高い丘のような場所と、そこを囲むように一段低くなっている、ゆとりのある場所。

 そのどちらからも360度、ぐるりと街を見下ろすことはできるのだけど……。

 何にせよ人が多い!!

 おそらく、殆どが観光客なのだろう。私達同様、夜景の時間帯を狙って来ているのだと思うけど、

 どの場所も柵ギリギリまで人が押し寄せ、携帯やデジカメを持った片手を大きく上げてなんとか画像に収めようとしているのが見えた。

 こ、これじゃあ……高遠が何処にいるなんて、分からないじゃない。

 まさかこんなに混雑する場所なんて思わなかった――私は最早その役割を果たせなくなってしまった携帯を握りしめたまま、

 スカート姿であるにも拘わらず扉の所へしゃがみ込んでしまう。

 折角ここまで来たのに、会えないかもしれないなんて。本当にタイミングが悪い。

 虚脱状態に陥った私は急に身体を動かしたツケで、頭の中をぐるぐるとかき混ぜられるような感覚に陥る。

 私は瞳を閉じ、膝を抱えた手に額を付ける―――もうダメだ、一歩も動けない。

 高遠と会う手段も無いし、ひとまずはじっとして、動けるようになるのを待たないと――。

「随分時間が掛かったな?」

 聞き慣れた声は突然、頭上から聞こえた。

 それを合図に瞳を開けると、これまた見覚えのある黒い革靴が視界に入る。

 まさか。そう思って声の主を仰ぎ見た。

「た、高遠……」

 私は迷子の子供のような心細い声で呟いた。

「そんな所に座り込んで、どうした」

「………」

「真琴?」

 もしかしたら会えないかもしれない。そんな不安感から解放され、私は言葉を紡ぐのも忘れて高遠の足元に抱きついた――というよりしがみ付いた。

「ま、真琴!?」

「よかった……会えないかと思った……!」

 珍しくうろたえたような声を上げた高遠。私は彼のスラックスに触れたまま、ただ安堵感に浸っていた。

「……真琴」

 あまりにも必死な所作だったから、心情を察してくれたのだろうか?

 高遠の声色が幾分優しく、控えめなものになる。囁くように私の名を呼んだ。

「………」

 依然醒めない酔いも手伝い頭の中がぼんやりして、彼の声音に浸っていると。

「真琴、いい加減に起き上がってくれないか? 他人の目があるから」

 同じトーンだけれども、キッパリとした意思を感じる言葉だった。

 その内容にハッとして彼のスラックスから手を離す。周りに視線を向けると、何組かのカップルが私達を指差していた。

「ご、ごめんね、私っ……つい!」

 恥ずかしさから勢いで立ち上がろうとして、やはり足に力が入らない。

 フラリとよろける私の姿に、高遠が抱きとめるように手を貸してくれた。

「どうした、具合でも――……って、酔ってるのか?」

「っ……!」

 アヤさん同様、高遠にまでも触れ合った瞬間に見破られてしまう。

 言葉に詰まる私の様子は肯定の意だと思ったらしく、彼はやれやれと言わんばかりに、

「旅行とはいえ学校行事だ。そんなになるまで飲んで、幾らなんでも楽しみ過ぎだろう」

 と冷ややかな言葉を投げかける。

「……ごめんなさい、反省してます」

「まあ、過ぎたことはもういい。それより、俺が訊きたいのは」

 高遠は私の腕を引いて出入り口付近から距離を置くと、私の瞳を覗きこみながら言った。

「――どうして俺に何の断りも無く、真琴の替わりに彩が此処へ来るような話になったんだ?」

 疑問というよりは少し責めるような視線とかち合う。私はその瞳から逃れるように俯きながら口を開いた。

「だって……アヤさんから聞いたんだもん。函館山はアヤさんと貴方の大事な場所だって」

「そんなのもう関係無いだろう。俺と彩はとっくに別れてるんだから」

「でも、ここのところずっと彩さんのこと気にしてたじゃない! アヤさんにまだ未練があるんでしょう?」

 高遠があまりにも平然と言うものだから、頭に血が上ってつい強い口調で言ってしまう。

 アヤさんがさっき、高遠はアヤさんのこと何とも思っていないって教えてくれたばかりだけど、

 私の目にはそんな風に見えなかったもん。

「俺がアヤに未練? そんなワケないだろう」

「私知ってるんだから。アヤさんの歓迎会の時に、アヤさんとキスしてたでしょ」

 心外という様子の高遠に決定的な証拠を突き出してみる。

 見間違いだなんて有り得ない。私はこの目で確かに見たんだから。

 高遠の方から、アヤさんの唇に――――あぁ、思いだしたら余計に腹立ってきた!

 私が睨むように彼を見ると、彼は眉間に人差し指を当てて苦い顔をする。

「……見てたのか」

「見てました。だから、説明つけられるならしてよ」

「あれは仕方なかったんだよ。彩、酔いが回り過ぎて俺との昔話を他の先生に延々喋り続けそうだったからさ」

「それで?」

「……だから、そういうのは控えてくれって頼んだら、『キス一回で許してあげる』って言うから」

「それでキスしたっていうの?」

「他にどうしようもないだろう。あのまま昔のことをあれこれ言われて、関係無い人間に余計な詮索されるのも迷惑だからな。

どうせ海外生活の長い彩にとっては挨拶程度のことだろうとも思ったし」

 よくもまぁ、しれっと言えたものだ。

「ここは日本、そんなの理由にならないよ! ……どんなワケがあっても他の人にキスするのは嫌」

 元カノっていう、全く知らない人ではないからって気持ちもあったのかもしれないけど、浮気は浮気じゃないか。

「……真琴はそう言うと思ったから、黙ってたんだよ。それについては悪かったと思ってる。ごめん」

 彼の表情を見るに、言葉通り、悪いとは思っているみたいだった。

 ……確かに、あの時のアヤさんは相当酔ってたし、あの場を収めるためにはしょうがなかったのはあるかもしれない。

 本意じゃないというのであれば、百歩譲って許してやらないこともないけど――。

「そ、それじゃあ、あの化学室の時は何だったのよ?」

「化学室って?」

「だから、教育実習の檜山君がいた時の……私、言ったでしょう? 『アヤさんじゃなくて、私を見て』って」

「………ああ」

「そしたら貴方は『ごめん』って言った。それって、貴方にとって私はアヤさんの代わりだったと認めたってことでしょ?

それで分かったの。貴方の中にはまだアヤさんが居るって。愛するアヤさんの代わりに、私のこと……」

「ちょっと待て。どうしてそうなるんだ?」

「え?」

「さっきから同じことを訊いてるんだけど、そこがよく分からないんだ。どうして俺が彩をまだ好きだとかって話になるんだ?」

 ……どういうこと? だから、私もさっきからそれを説明しているというのに。

「だってそうじゃない? アヤさんを忘れられないから、彼女に似ている私と付き合うことにした。私に彼女を重ねて――」

「ストップ、そういうことか」

 高遠はエキサイトしつつある私を手で制しながら、盛大にため息をついた。

「……真琴」

「な、何よ」

「真琴が言ってることの半分は正しい。でも、半分は間違いだ」

「……?」

 高遠が何を言っているのか分からない。彼は極まり悪そうにくしゃりと前髪を掻いた。

「納得していないみたいだから言うけど、もう彩とのことは過去の話だと思ってる。でも――」

 高遠は言葉を選ぶように、慎重に続けた。

「……怖かったんだ、彩のこと。彩がどうして今更になって俺の前に現れたのかが分からなくて、怖かった」

「…………」

「けどそれも直に消えて、あとは怒りだけ募っていった。だから真琴に彩のことをどう思ってるか訊かれた時には、素直に答えたつもりだ。

恨んでいる、と」

 『どう思ってるって、決まってるじゃないか。恨んでるんだよ』

 強引にラブホテルへ連れて行かれた時、彼はハッキリとそう口にした。

 あの気持ちに偽りはない――そういうことなのだろう。

「じゃあ、どうして『ごめん』だなんて謝ったりしたの?」

「……あまり、話すのは気が進まないけど」

 高遠はそう前置きしてから、重たそうに口を開いた。

「彩と真琴を重ねて見てしまったのは認める。でも、それは俺が彩を想ってるからじゃない。

……真琴も。真琴も彩のように離れていってしまうんじゃないかと、そう思ったから」

「え?」

「――急に不安になった。彩と再会した日、癒えたと思っていた古傷から、当時彩を失って悩んだこと、苦しかったことが一気に飛び出してきた」

「………」

「結局、昔の俺には分からなかったんだ。どうして彩が俺と別れたがったのか。俺の何がいけなかったのか――何ひとつ、な」

「それは――」

 高遠の所為じゃない。そう言葉が零れそうになって口を噤んだ。

 ……アヤさんは私だから全て包み隠さず気持ちを吐露してくれたのだ。

 私の判断で高遠に真実を伝えてしまうのは止めた方がいい。アヤさんのプライドがそれを許さないだろう。

「また同じ過ちを繰り返してしまうかもしれないと思うと、余計彩への憤りも増した。

化学室で真琴に謝ったのは……そういう不安や怒りを全部真琴にぶつけて、発散してしまっていたことに気がついたからだ。

真琴は、自分が彩の代わりだって勘違いしたみたいだけどな」

「だ、だって――最初に貴方、言ってたでしょう? 私が昔の彼女と似てるから気になったって。それに椎名君にも『アヤと似てる』って言われてたし」

「確かに最初は似てるって言ったよ。でも、その後、『接してみたら違った』とも言ったろう? 彩と真琴は全然似てないよ」

 高遠はちょっと疲れた様に言葉を止めた。

 普段、内面的なことは口にしようとしない彼だ。慣れないことで落ち着かないのだろう。

 その間、高遠の言葉が何度も頭の中でリフレインした。

 『化学室で真琴に謝ったのは……そういう不安や怒りを全部真琴にぶつけてしまっていたことに気がついたからだ』

 ラブホテルや化学室で普段よりも強引に求められた気がしたのは、高遠の中でそういう消化しきれない不安が渦巻いていたからなんだ。

 『――今日は、呼ばなくていい』

 あの時ホテルで名前を呼ぶことを拒んだ理由はおそらくアヤさんを意識していたからなんだろうけど、それは彼女に気持ちがあるからじゃなくて。

 彼女の存在を思い出すことで不安に心を攫われない様にするため、だったのかな。

「でもそれから貴方、私のこと避けてなかった? ……それなのに、アヤさんとは仲良くなってたように見えたし」

「避けてたつもりはないんだけど、真琴に八つ当たりしてた後ろめたさはあったかもしれないな。

彩とは――まぁ、もう同僚になってしまったし、かなり時間も経ったから、いつまでも昔のことを引きずり続けるのもよくないかと思って。

他の先生方と同じ距離感で付き合う分にはいいかなと思ったんだよ。それが裏目に出て、真琴に疑われるなんて思いもしなかったけどな」

「う、疑うわよ! それでなくても私に対してはいつもそっけないじゃない。学生時代、アヤさんにはマメに尽くしてたくせに」

 高遠の言い方引っかかりを感じて、私は口を尖らせながら言った。

「……そうやって、素直に『妬いてます』って言ってくれたらよかったじゃないか。そしたら直ぐに解決しただろう?」

「別に妬いてません!」

「どうだかな」

 私の反応が面白かったらしく、高遠は小さく笑った。

「――でも本当、知らないところで色々話が進んでて焦ったよ。俺を譲るだの譲らないだの猫の仔じゃあるまいし、頼むから俺に相談してくれ。

彩から連絡が来た時は、本気で意味が分からなかったからな」

「……うん、ごめんなさい」

「大体、俺はいつも彩の前では真琴と付き合ってるって断言してたの、知ってるだろう?」

「……はい」

 考えてみればそうだった。高遠の口から直接、彩さんのことが気になるみたいなことは聞いていない。

 ――やっぱり全部、私の早とちりだったってことなんだろうか?

 そう考えた途端、空回りしていた自分が恥ずかしくなった。

「あと、どうして携帯の電源切ってたんだ? 連絡つかなくて、来る気がないのかと思った」

「あ……ごめん、最初はアヤさんと過ごすだろうと思って、諦めるために切ってたんだけど……。

やっぱり諦めきれずにタクシーに乗った時に電池切れちゃって」

 私はずっと手の中にあった携帯を見せてから、バッグの中にしまった。

「……そういうことか。全く、この人ごみの中で見つけられなかったらどうするつもりだったんだ?」

「う……。だから、ここで途方に暮れてたのよ。でもどうして私が来たって分かったの?」

「扉の近くで待ってればすぐ見つけられるだろうと思ってたからな。――まぁいい。折角だから、夜景を見てから帰ろう。もうあまり時間がない」

「う、うん」

 何だか後半怒られてばかりな気がしないでもないけど、一通り言いたいことを言って高遠はスッキリしたらしい。

 思い出したように柵の方を指し、私の手を引いて歩きだした。

 ドキっと心音が高鳴るのが分かる――高遠のヤツ、人前で手を繋ぐのは好きじゃないはずなのに。

 酔っ払ってたお陰で嬉しい誤算だ。

 私は彼と歩調を合わせ、到着した時よりは大分人が少なくなったその場所で街の灯りを見下ろした。

 ――――さっきはロビーでもいいやと思ったけど撤回。

 遮るものが無いと、街の光がより鮮明に、ダイレクトに視界に飛び込んでくる。

「キレーだね」

「ああ」

「アヤさんと来たときもこれだけキレイだったの?」
 
 私は彼の手を握ったまま、ちょっとだけ意識して訊ねた。

 すると、高遠は目を伏せ、その情景を思い浮かべるような素振りを見せてから笑みを浮かべた。

「あの時は冬だったから一面雪景色で、もっと……ガラス細工みたいに綺麗だった」

「ふーん、そう」

 つまらなそうな返事だな、と自分でも思った。

 過去の事だし、面白くないと感じたってどうしようもないんだけど、高遠が少しの淀みもなく言うんだもん。

「まーそうよね。一世一代の大決心、プロポーズだもの。鮮明に記憶に残るはずよ」

「失敗したから余計にな。出来ればそういう思いはもう避けたいよ」

 自嘲めいた冗談を零す彼に、私は声を立てて笑いつつ、

「次は大丈夫でしょ」

 と、何気なく言ったのだけど――私はその意味を考えてから慌てて首を振った。

 次って……今付き合ってるのは私だから、まるで暗にプロポーズOKって言ってる風に聞こえたりしないかな!?

「えっとあの、今のは特に深い意味は無くてね――何ていうかつまり、流石にこういう不幸は二度も起こらないって意味で!」

「そんなに頑張って否定しなくてもいい。誰も深読みなんてしないから」

「……あ、そう」

 高遠は私の反応に肩を竦めていたけれど、それでも私の言いたいことは理解したようだった。

 うん? でもこれ、否定をしたらしたで、結婚が嫌だって感じに伝わらないだろうか?

「あっ、でも別に次の相手が私じゃダメってことじゃなくて、寧ろそれならそれで構わないっていうかっ……」

 ってちょっと待って、何言ってるの、私……!? 
 
 墓穴を掘ってあたふたしている様を、高遠は冷静且つ愉しそうに眺めていた。

 その視線がいたたまれない。

「か、か、構わないっていうのはあくまで受動的感情で、積極的にどうこう思ってるワケじゃ――」

「真琴」

 高遠は、静かに私の名を呼んだ。

 照れもあり、盗み見るように彼を向くと――さっきまでの面白がるような表情から一変、いつになく穏やかで優しい瞳で私を見つめていた。

「な、何?」

 内心を見透かされてるようでまともに顔を合わせられない私は、目をそらしたまま返事をした。

「―――今はまだ教師になったばかりで、あまり余裕が無いだろうから縛るようなことは言いたくないんだけど」

「う、うん……」

「そのうち仕事にも十分慣れて、その時俺達の関係が変わってなかったら……今の話の続きをしても構わないか?」

「………!」

 話の続きって、それってつまり、プロポーズってこと……?

 全然予想していなかった高遠の言葉に、心臓の音が跳ね上がるのと同時、頭がぼーっと熱くなった。

「正直、真琴に函館山に行こうって言われた時、断ろうかと思ったんだ。俺には辛い思い出しかない所だからな。

でも、真琴と一緒に新しい思い出が作れるならそれでいいと思えた。

……今だって彩のことを、本当に過ぎ去った『思い出』の一つとして考えることが出来たし、な」

「…………」

「真琴、返事は?」

 高遠に促され、それまで言葉を失っていた私が目を瞠る。

 思いがけずこんな日にプロポーズの『予約』を申し込まれたことが嬉し過ぎて、音にするのを忘れてしまっていたらしい。

「そ、それは……そんなの……」

「ん?」

「………嫌なワケ、ないじゃない」

「嫌じゃない?」

「あー、もうっ……そんなこと言われて、嬉しくない子なんているはず無いでしょ!」

 口に出した時はもう遅かった。

 ……ダメだ。私ったら、そんな言い方全然可愛くないじゃないか。

 でもこんなこと言われたのなんて初めてで、どんな風に応えていいのか分からない。

 頬が熱い。私は無意識に両手で顔を覆っていた。

「そういう反応、真琴らしいな」

 高遠は意地悪な笑い交じりでそう呟いた後、それでも、

「―――ありがとう、期待してる」

 と、耳元で囁いた。

「…………うん」

 私はと言うと、面映ゆさのあまり頷きを返すので精一杯だった。