Scene.5B-1



 我が成陵高校の一大イベントである二学年合同の修学旅行は二日目を迎えていた。

 札幌から特急電車に乗り函館駅に到着すると、私は自分のクラスを整列させつつ人数を確認する。

 ……うん、大丈夫。みんな揃ってる。

 私は気が小さいものだから、移動教室の時などでもこういう瞬間は少しドキドキしてしまう。

 三学年の学年主任であると同時に旅行の責任者である小宮先生に報告を済ませてから、

「それでは昨日同様、自由に観光を楽しんで貰いたいと思います。何かあったらすぐに私まで連絡してください」

 クラスの生徒達に大きく声を張り上げるよう意識しながら告げた。

 各自決められた班ごとに駅の改札へと向かっていく中……。

「芽衣センセ」

 男性の声で名前を呼ばれて振り返った。

「もしよかったら、なんですけど……」

「またオレ達の班と一緒に回りませんか?」

 そこに居たのは肩までの黒髪で利発そうな女子生徒と、少し長めの茶髪で両耳に複数のピアスホールがある男子生徒。

 紺野さんと土屋君――私は思わずギクリと身体が強張った。

 また、というのは、昨日の札幌も私が同行したからだろう。

「えっと……あの……」

 私はしどろもどろになりながら、彼らの後ろに立っていた別の男子生徒を盗み見た。

 明るい髪色や着崩した制服は土屋君と同じ。兄弟と知ったから、綺麗に整った顔立ちは益々同僚である教師に似て見える気がする。

 不意に、その男子生徒と目があった。

「……っ」

 彼は私の視線を煙たがるように瞳を逸らす。何気ないその動作に、胸にちくりと刺が刺さるような痛みを覚えた。

 ……私のこと、興味無くなるどころか嫌いになってしまったのかな。

「月島先生、いいですよね?」

 にっこりと私に微笑みかけてくる紺野さんに、私は思わず「ええ」と答えてしまっていた。

「よかったー、私達の班は元町の方に行こうって話してたんです。ね、土屋?」

「ああ。じゃセンセ、早速向かおうよ」

「……は、はい」

 頷いたものの、私の意志は間逆――できれば、彼らの班と行動を共にするのは避けたかった。

「椎名、そんな顔しないでったら」

 紺野さんが、面白くなさそうにしている彼の頭を軽く叩いた。

 椎名君はぶつぶつと何事かを呟いているのだけど、彼女はそれを宥めるように何か耳元で囁き掛ける。

 ………本当に、仲良さそうだなぁ。

 それなのに、どうして私を誘うのだろう。

 楽しげに触れ合う彼らの様子を間近で眺めたくはなかった。

 折角、自分の気持ちに折り合いをつけて、想いを断ち切ろうとしているのに――それを邪魔しないでほしい。

 教師としての私と、女性としての私。二つの感情が鬩ぎ合う中、私達は元町方面へと向かった。

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 椎名君――椎名隼人君は私にとって、所謂『ただの担任しているクラスの生徒』ではない。

 学校には内緒で、ある時期は一週間に一度あるか無いか位の頻度で、ご飯を食べたり映画を見に行ったりする関係。

 かといって、『付き合っているの?』と訊かれれば、私も分からなかったり……。

 話すことは他愛のないことで、正直なところ友人と話す内容と何ら変わらない。

 春の出来事以来、キスはおろか手も繋いだことは無いし、彼の方もそういう素振りというか欲求は見せない。

 私の場合、男の人と付き合ったことがないから、どういうことをしたら『付き合っている』というライン上に居るのかを測れないのもある。

 教師と生徒なのだから、決して褒められるようなことをしているのではないというのも分かっているけど、私の気持ちは止められなかった。

 ……椎名君が好き。外で会っている時は立場なんて関係なく、一人の男性として彼を意識している。

 彼も私をそんな風に想ってくれているのだろうと、希望的観測をしていたのだけれど……。

 どうやらそれは私の勘違いだったみたい。

 ここ一月ほどの間、椎名君はやけに紺野さんと仲が良い。

 放課後も、塾のある日以外は殆ど彼女と一緒に帰っていくし、家に帰ることも少ないって聞いている。

 それに――、一番引っかかっているのは。

 『椎名君たらね、放課後、紺野さんの家でイチャついてるみたいなのよ!』

 『……え?』

 『だからね、言い辛いんだけど……つまり、一線越えちゃってるみたいってこと。分かるでしょ?』


 以前、親友であり同僚である真琴ちゃんに言われた言葉が、あまりにもショックで。信じられなくて。

 ……そもそも、私と彼とは明確に『付き合っている』なんてことを確認し合ったりはしていない。

 でも、彼の口から聞いていたんだもの……まだ一学期だった時の話だけど、ハッキリと私に言ってくれたこと。

 『オレ、兄弟だからって、怜の替わりになれるとは思ってない。ていうかムリだって解ってる』

 『でもだからこそ、怜じゃなく、オレを見てほしい。今はムリでも……いつか』


 まだその時は、彼のお兄さんである高遠先生に失恋したばかりだった。

 あの頃の私は高遠先生が大好きで大好きで堪らなくて、彼を想うあまり我を忘れて酷いことをしてしまった。

 そんな私を想い続けてくれる、っていうのは……本当に嬉しかった。

 ―――あの時の言葉はそういう意味じゃなかったの?

 ……でも。そうだよね。椎名君はまだ高校生だもん。

 年が離れてる上に内向的な私より、若くて明るい子の方が似合うし、気が合うに決まってる。

 だからもう、彼を想い続けるのは止めた。彼が新しい恋愛を始めているのであれば、私はそれを尊重したい。

 それを彼が望んでいるのであれば、私は――……。

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 行動班は四人一組。

 私が同行したのは、紺野さん、土屋君、長澤さん……そして椎名君のグループだった。

 先頭を歩くのは土屋君。何だか、妙に張りきっている。

「函館のことならオレに訊いてくれよ」

 彼は得意げに自分を指差しながら、そう言って皆にアピールした。

「え、それどういうこと?」

 ツインテールを揺らしながら、すぐ後ろの長澤さんが訊ねた。

 長澤葉月。彼女は隣を歩く紺野さんと仲のいいお友達。

 絵が好きで芸術系の大学を目指していると、進路面談で話してくれていたっけ。

「土屋のヤツ、小学校卒業まで函館に住んでたんだって」

 紺野さんが答えると、土屋君は頷いて、

「そーそー。事前に復習してきたから、色々案内できるぜ〜」

 と笑った。なるほど、地元だったんだ。

「皆は元町の何処を回る予定なの?」

 私が誰にともなくそう訊ねる。

「教会をメインに回ろうかって話だったんだよね。ね、椎名?」

 紺野さんが声を遠くへ飛ばすように、椎名君にトスした。

 最後尾を歩く椎名君は特に反応せず、私や皆が振り返ってもそっぽを向いているだけだ。

「椎名、ご機嫌斜め?」

「さぁー?」

 長澤さんがこっそり訊ねるけど、紺野さんはくすっと笑いながら肩を竦めただけだ。

 その表情は、不機嫌である理由を知っている表れのような気もする。

 ……意識のし過ぎかもしれないけど、紺野さんは意図的に私を呼んで、この状況を楽しんでるんじゃないだろうか。

 彼女はきっと、私と椎名君が気まずい雰囲気であることを知っている。

 だから、私が班に入ると椎名君が面白くないっていうのも理解しているだろうことで……。

 …………。

 なんて、考えてしまった自分が凄く嫌になる。

 そんなことをして一体誰が得をするっていうの?

 紺野さんと椎名君が上手く行ってるなら、私をわざわざ呼ぶ必要なんてない。

 これは偶然。たまたま私が一人で居たから、土屋君が誘ってくれただけ。

 椎名君を取られてしまったのが辛いからって、紺野さんのことを悪く思うなんて。私って最低だ。

 自分の大人げなさに落ち込んでいると、市電乗り場に着く。

 土屋君が言うには、元町の観光スポットは路面電車を利用するのが便利らしい。

 移動は普段電車が殆どな私達にとって、アスファルトの道路の上を走るのはやけに新鮮に思えた。

「さて、じゃあ早速回って行きましょうかねー」

 僅か数分の乗車を終えると、土屋君を先頭に緩やかな石畳の坂道を上っていく。

 レトロな雰囲気の建物が多く、開放的な広い道路が印象的だった。

「なんだか横浜みたいだね」

 途中で何気なく長澤さんが言った。そうかもしれない。

 昔、中学校の遠足か何かで、真琴ちゃんと一緒に横浜の洋館がいっぱい並んだところを散歩した思い出がある。

 その時もこんな感じで、おしゃれな建物や道が多かった気がした。

「うん、雰囲気が似てるよね。ずーっと上っていけば眺めもいいんだろうなぁ」

 長澤さんの言葉を受けて、紺野さんが言いながら目を細めた。

 この坂をずっと上って行った先には、確か函館山があるはず。

 函館山のロープウェイで山頂に行くと、100万ドルの夜景が見れるんだっけ。

 真琴ちゃんは今回の旅行で高遠先生と行くつもりらしく、嬉しそうに教えてくれた。

 ………いいなぁ。と、素直に羨ましく思ったところで。

「そーそー、デートに最適!」

 なんて、土屋君が相槌を打った。デート、という単語に思わず椎名君を見てしまう。

「デート、だって。椎名」

「………うるせェな」

 紺野さんが含みのある笑顔で椎名君の隣に移動した。小首を傾げる仕草に、椎名君は眉を顰めてぶっきらぼうに言った。

 何でもないワンシーンなのに、私は彼らの姿を見て少なからず衝撃を受けた。

 二人のやり取りが、その空気感が、初々しい恋人同士のように見えて――心が凍りつく思いだった。

「芽衣センセ?」

 様子がおかしいと思ったのだろう、土屋君が私に声をかけてくれる。

「ううん、何でもないの」

 無意識に俯いていた私はパッと顔を上げ、平気だと言うアピールのつもりで首を横に振った。

「そっか、それならいーけど。ンじゃま、そろそろメインの教会巡りといきますか。オレのおススメ順に行くからな」

「はーい」

「頼りにしてるよー土屋ー」

 女の子たちが楽しそうにそう返事をすると、私達は早速、西洋風の白い建物を一つ一つ見て回った。

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「……ああ、そうだ、この先、ソフトクリームの激戦区なんだよな。皆で冷やかしにいこうぜ」

 いくつか教会を巡った後、土屋君はガイドブックを捲りながら思い出したようにそう言う。

「いいねー」

「食べる食べる!」

 女の子たちは相変わらずハイテンションで、彼の問いかけに答えているけれど、私は気が気じゃなかった。

 どうしてかって――――その、どうしても椎名君と紺野さんに目が行ってしまうからだ。

 教会を一つ訪ねるたびに、出口の前で二人が何かコソコソと話をしていた。

 厳かな雰囲気を意識してか小声で何を言っているのかまでは分からなかったけれど、

 程近い距離――例えば耳元だったり――で囁き合うのが視界に入ると、落ち着かない気持ちになってしまう。

 二人の表情から察するに、内容はおそらく真面目なことだと思うけど……。

 一体何を話しているっていうんだろう?

 『将来はこんなところで式を挙げられたらいいね』

 とか? でなければ、

 『いつか二人でまた此処に来ようね?』

 とか、かな。……ああ、妄想が止まらない。

 何にせよ、はっきりしたのは椎名君はもう私なんて眼中にないってことだ。

 観光中、ちっとも私の近くには寄って来てくれない。

 話し相手は殆どが紺野さんで、たまに土屋君や長澤さんと冗談を言い合う位。

 そんな風に露骨に避けられると、悲しくなって来ちゃうよ。

 
『……オレ、芽衣センセに信用して貰えてなかったことがショックだ』

 不意に、彼と最後に言葉を交わした時のことを思い出した。

 そうだよね。私は彼を傷つけてしまったんだもの。

 椎名君が私に対して腹を立てていたとしても、何の不思議もない。

 無駄と知りながらも、私はもう一度椎名君へと視線を向けた。

 偶然私の方へと身体を向けていた彼は、案の定、直ぐに反対側を向いてしまった。

 予想していたこととは言え、現実に行動に移されてしまうとダメージは大きい。

 本当に……本当に嫌われてしまったんだな、きっと。

 私はすうっと息を吸い込んで、深いため息を吐いた。

「――あ、ごめん、土屋。私達ちょっと……。直ぐ戻るから先行ってて」

 ノリノリでソフトクリーム屋さんへ向かっていた紺野さんは、ふと何か思いついたようにそう言った。

 そして――近くに居た椎名君を手招くと、二人して坂の下へとあっと言う間に駆けていってしまう。

「……なンだ? アイツら」

「何だろうねぇ? 変なの。ま、いっか」

 取り残された土屋君と長澤さんは、不思議そうに顔を見合わせていたけれど、深くは追及せずに先にソフトクリーム屋さんへ向かうことにした。

 ……何なんだろうか。よく分からない。

 分からないけど、土屋君達がさほど訝らないということは、紺野さんと土屋君が二人して消えてもおかしくない関係だということじゃないだろうか。

 そう思うと―――これが決定的な出来事のように思えた。

 だとしたら「二人はどうしたの?」なんて野暮なことを訊く気は起きない。

 ―――やっぱり、今の椎名君の心の中に私はいないんだね。

 昨日、真琴ちゃんに『椎名君のことは諦める』って言ったばかりなのに、一緒に居ると気持ちが揺らいでしまう。

 でも、これでもう分かったつもり。あの楽しい時間は終わってしまった。

 もう戻れない。椎名君と何でもない会話をしながら笑い合っていた頃には……。

 私は一度振り返り、二人の背中が見えなくなったことを確認してから、前を行く土屋君達に遅れないように歩調を速めた。