Scene.5B-2
「大体ねぇ、失礼なのよ。どーゆーこと? 代わりって」
その日の夜、宿泊先のホテルでは。
お酒の空き缶に囲まれた真琴ちゃんが、怒りのためか声高に不満を吐露していた。
「本当ね。高遠先生、酷いこと言うんだから」
彼女に比べ減りの悪いカクテルの缶を片手に頷きながら、頭の中でぼんやりと彼のことを想い浮かべた。
高遠先生――嘗て私が恋をしていた人であり、大切な親友の恋人でもある男性。
色んな女性から声は掛かれど誠実な彼は、真琴ちゃんしか見ていないものだと思っていた。
なのに――……。
「もうサイテーよサイテー。こっちは歓迎会の時にアヤさんにキスしたのも知ってるんだからー」
「え!? そんなことしてたの?」
「してたしてたしてた。私見ちゃったもん。お店の入り口でねー、しかも高遠から!」
私を見つめる目が何処となく据わっているのは、かなりお酒が回っている証拠なのだろう。
早口で捲し立てた後、彼女は気持ちを紛らわせるように缶の中身を消費していく。
最初、真琴ちゃんから「今日は付き合って」って言われた時は、まさかこんなに深刻な話が展開するとは思わなかった。
修学旅行だというのに物凄い量のお酒を買い込んで来たものだから、ただ事では無いとは思っていたけれど、
内容を聞いて私は自分の悩みを一瞬忘れてしまうほどビックリした。
『高遠先生は、昔の恋人である長谷川先生を忘れられずに今も引きずっていた』
『そして、真琴ちゃんの向こう側に長谷川先生を見ていた――つまり、真琴ちゃんは長谷川先生の代わりだった』
ただでさえ酔った真琴ちゃんからこんな風に愚痴を聞くのは珍しい。
普段は楽しいお酒をモットーにしている筈なのに、先ほどから何度も繰り返す様子を見て精神的に限界だったのだなと感じた。
当然と言えば当然なのだけど……やっぱり失恋っていうのは辛い、よね。
「ますます酷い! 高遠先生、そういうところはちゃんとしてると思ってたのに」
友達の失恋話はそれだけで悲しいものだけど、相手が以前好きだった人だったりすると余計にショックだ。
近くで見ていた感じでは、真琴ちゃんをとても大事にしていてくれたように思えたんだけどなぁ……。
そういう気持ちも入り混じって、私もつい語調が強くなってしまう。
「……酷いって言えばね、私も今日は散々だったの」
「芽衣もー?」
昼の出来事が頭を掠めて思わず声に出すと、真琴ちゃんがかくんと首を傾げて訊ねた。
「うん。今日は紺野さんに誘われて、また椎名君の居る班で行動してたんだけど」
「紺野さんって、椎名君と仲良い子だよね?」
私は返事変わりに一度頷いた。そして、少なからずアルコールの影響を受けた重い瞼を伏せる。
「途中で、二人でコソコソしながら何処か行っちゃったりとかして」
「えぇー何それ、感じ悪い!」
「……折角忘れようとしてるんだから、そういうことするくらいなら呼んでくれなきゃいいのにって思っちゃった」
目を瞑っていると、その分あの時の光景が鮮明に蘇ってくるような気がする。
私は逃れるように瞳を開けて嘆息した。
楽しそうに椎名君を促す紺野さん。その紺野さんに言われるがまま共に駆け出していく椎名君。
示し合わせたような二人の行動の意図が、私にはまったく分からなかった。
もっとも、彼らが何をしていたかなんて探るつもりもないし、二人が再び合流した後も訊かなかった。
「うわ、最悪。全く、あの減らず口男ったら、どんだけ芽衣に辛い思いさせたら気が済むワケ!?」
真琴ちゃんは自分のことのように怒ってくれたのだけど……。
「でもね、不思議なんだけど、寂しいなって思う気持ちはあっても椎名君を責める気持ちにはならなくて」
「芽衣は優しいからだよ。優し過ぎるくらいに」
私は首を横に振る。
「ううん、そういうことじゃなくて。……やっぱり、私って椎名君のこと好きなんだなって。しみじみ思っちゃったんだよね」
「………」
黙ってしまった真琴ちゃんを見て、呆れられてしまったかな、と内心苦笑した。
……自分でも、どうしようもないなって思う。
こんな思いをしても、私は未だ彼のことが好きなのだ。
「あはは、今さら再確認したってどうにもならないことなのにね。胸にぽっかり穴が開いたような、そんな感じ」
「……うん」
彼はもう新しい恋愛をしている。そう分かっているのに。
「ねぇ、真琴ちゃん」
「何?」
「私達、今まで何をするのも一緒だったでしょう? 学校も、就職先も。
まさか――失恋するのも一緒なんて思わなかった。そんな所は重ならなくたっていいのに」
「………本当だね」
真琴ちゃんはそこで小さく笑った。
そうだよね。小さな頃から大の仲良しだけど、こういう時まで同じっていうのは、なんだか可笑しい。
「でもね、今回のことを決断できたのは芽衣のお陰なんだよ」
「私の?」
どういう意味だろう、と思って、私は訊き返した。
「そう。昨日、私がホテルに帰ってきた時、『椎名君のことが好きだから、彼のことを忘れる』って……そう言ったじゃない?」
「うん」
「自分のことに置き替えてみて気付いちゃったんだよね。高遠のことを好きなら、彼が一番愛している人と結ばれるようにしてあげるべきだって」
「…………」
「アヤさんは一途に高遠のこと好きで、高遠もアヤさんのこと忘れられなくて。……それなら、私が身を引けばいいんだってやっと分かった」
「ごめんね、真琴ちゃん……それって、私が余計なこと言ったから――」
「あ、ううん、勘違いしないで。別に芽衣の所為だって言ってるワケじゃないの」
私の一言で真琴ちゃんの気持ちを左右してしまったんだとしたら、申し訳ないことをした。
そう思って俯きがちに口を開いたけれど、真琴ちゃんは片手を振って否定する。
「……それにね、謝らなきゃいけないのは私の方だよ。芽衣と椎名君の仲を気まずくしちゃったのは、私が余計なことしたからだし」
「真琴ちゃん、だからそれはもういいって言ったじゃない」
今度は私が静かに、ゆっくりとした口調を意識して否定する。
彼女は、椎名君の部屋での一件をずっと気にしてくれているようで、これまでも何度か頭を下げてくれた。
「彼を信じたい気持ちは勿論あったけど……私が100%椎名君を信じていたら、真琴ちゃんの誘いを毅然と断ってたと思う。
そうできなかったってことは心の何処かで彼を疑って、真実を知りたいって思ってた証拠なの、きっと」
「………」
「だから、何度も繰り返しちゃうけど、真琴ちゃんが謝る必要はないの。……ね?」
「芽衣……ありがとう」
真琴ちゃんは少しホッとしたようにそう言った。
真琴ちゃんは悪くない。悪いのは、彼を信じることができなかった弱い私。
『……オレ、芽衣センセに信用して貰えてなかったことがショックだ』
あの時の彼の台詞が心からのものだったとしたら、彼の心が離れてしまった原因はやっぱり私にあるのだ。
椎名君に私を選んでもらえる自信がなかった――だから、彼を信じることが出来なかった。
そんな私の心なんて当然、見透かされてしまうに決まっている。それで結果的に彼は紺野さんを選んだのに。
なんて考えていると、突然―――テーブルの脇に置いてあった真琴ちゃんの携帯が振動した。
真琴ちゃんは直ぐ携帯を手に取りディスプレイを開いたけど、液晶画面を見つめたままフリーズしてしまった。
こんなに長く鳴るってことは、おそらく通話着信なんだろうけど……。
「真琴ちゃん、出なくていいの?」
お節介かな、と思ったけれど、微動だにしない彼女の様子が心配でつい訊ねてしまった。
「……うん」
彼女は結局通話をすることなく着信を切ったようだった。
表情が心なしか強張っているように感じる――相手はきっと、高遠先生。ううん、もしかしたら長谷川先生かもしれない。
「そういえば、長谷川先生には伝えてあるんでしょう? ……その、高遠先生を諦めるってこと」
「うん。昼間少しだけ一緒に行動したから、伝えたよ」
「真琴ちゃん、流石に飲み過ぎだよ。二日酔いになっちゃうよ?」
例の電話が来てから、真琴ちゃんはあからさまにアルコールを運ぶペースが早くなった。
このままだと体調に差し支えそうな気がして、私は慌てて制したけれど、
「いーの! 今は飲みたい気分だから、いっぱい飲むよー」
……なんて、全く聞く耳を持ってくれない。
「真琴ちゃんったら。明日具合悪くなっても知らないんだからね」
彼女は一度言い出したら引かないタイプだということをよく知っている。
少しでも気を紛らわすことができるのであれば、今日だけは大目に見よう――そんな風に肩を竦めたところで。
扉の方から物音が聞こえた……気がした。
「真琴ちゃん、今何か聞こえたよね?」
「……んー、聞こえたような、聞こえなかったような」
扉を叩く音。誰かが部屋に訪ねてきたのだろうか?
でもこんな時間に誰が?
思わず真琴ちゃんと顔を見合わせていると、もう一度、コンコン、とその存在を主張する音が聞こえてくる。
「……誰だろう? 私、ちょっと出てくるね」
今度はノックだと確信した私は、椅子から立ち上がり、ロックを外して外を覗いた。
其処に立っていたのは――つい数時間ほど前まで行動を共にしていた、紺野さんだった。
「――あら……? 紺野さん」
「月島先生、大変なんです」
私が驚いて名前を呼ぶと、制服から私服に着替えた彼女は慌てた様子で私の腕を掴んだ。
走って来たのだろうか、少し苦しそうに息を切らしている。
「ど、どうしたの?」
「すみません、先生、ちょっと来てもらえませんか?」
「え……?」
「お願いします、出来るだけ早く! 一緒に来てくださいっ」
紺野さんの様子がおかしい。一体何があったのか訊かなければ。
そう思って口にしたのだけど、余程の緊急事態らしく、説明すらもどかしいとばかりに私を促す。
――トラブルの場所は生徒の部屋、だろうか。とにかく、早く向かわないと。
部屋の中の真琴ちゃんを振り返ると、私が言葉を紡ぐより先に、
「芽衣、早く行ってきなよ」
と、真琴ちゃんの方から背中を押してくれた。
「ごめんね、真琴ちゃん。ちょっと行ってくるね!」
私は彼女にそう言い残して、紺野さんに手を引かれたまま廊下を駆けていく。
……本当は、ホテルの廊下は走っちゃいけませんって注意していたんだけど、今はそんなことを言ってる場合じゃない。
紺野さんのこの慌てようは、何か大変なことが起きたとしか思えない。
「紺野さん、場所は何処なの? 誰の部屋?」
「…………」
私が訊いても彼女は答えてくれない。気が動転して私の声が届いていないのかもしれない。
エレベーターの前までやってくると、彼女は下の階へ行くボタンを押したので、私は不審に思って訊ねた。
「うちのクラスの部屋なら上の階じゃないの?」
3−Cの子たちが宿泊する部屋は、私と真琴ちゃんの部屋の一つ上の階に纏めて振り分けられている筈。
「いいんです、下で」
それなのに、彼女はきっぱりとそう答えた。
「だって、そんなのおかしいわ。今は消灯前の時間でしょう? 皆、部屋で就寝の準備をしてるんじゃ――」
「あ、エレベーター来ましたよ、乗って下さい」
「え? あの―――」
紺野さんに腕を引かれて、私は箱の中に押し込められる。
彼女は一階のロビーのボタンを押して、扉を閉めた。
私達を乗せた箱が下の階へと移動し始めると、彼女は私の腕を掴んでいた手を放し、少し気だるげに角へ寄りかかる。
その動作はさっきまでの慌てふためくそれではなく、堂々と落ち着いてさえ感じるものだった。
彼女の態度も気になったけど、今はそれよりも……。
「……まさか、この時間に外に出てる子がいるってことじゃないわよね?」
エレベーター特有の、重力による不快感に支配されながらも、私は訊かなければいけないことを口にした。
いくら成陵は物分かりのいい子が多いとはいえ、旅行でハメを外して夜遊びする子が出ないとも言い切れない。
だからこの時間帯はロビーの入り口付近に見張りの教員が配置され、そういうことが起きない様になっているのだ。
「はい、そうです。だから、他の先生に見つからない様に出ないといけないんで、月島先生も協力して下さいね」
「なっ……そんな、ダメよ。それじゃあ他の先生に黙って外へ出るってこと?」
「そういうことになります」
「だ、ダメよ、こんな時間に外に出るなら他の先生に一言行っていかないと。緊急事態だってことも伝えなきゃ――」
「月島先生」
彼女が真顔で私の名を呼ぶのと同時、エレベーターが一階に降りたことを告げる。
「……お願いです。椎名のためにも、ここは何も言わずについて来て下さい」
「っ……!?」
椎名君? 今回のトラブルに椎名君が関係あるっていうの!?
エレベーターの扉が開いて、彼女はそっと外の様子を窺った。
ワケも分からないまま、私は彼女の後ろからホテルの正面玄関を覗いてみる。
しかし、そこに配置されているだろう教員の姿が無い――おかしい、この時間は誰かしら一人は付いている筈なのに。
「大丈夫ですね、急ぎましょう」
誰も居ない自動ドアの前を、紺野さんはさも当たり前のように通過していく。
「……変ね、教員がいないなんて」
「何処かのクラスの生徒が呼んだのかもしれませんね。人数が足りませんーとか言って」
「………」
もしかして確信犯、なのだろうか。いかにもそうなるように仕向けたような言い方だった。
「もしそうなら、紺野さんが居ないのだってバレちゃうわ」
「私は平気です。葉月が上手くやってくれてると思うから」
葉月――あぁ、長澤さんのことだろうか。
そうやって言葉を交わしている間に、ホテルの直ぐ傍にあるタクシー乗り場へ連れて行かれる。
「すみません、××町の方へお願いします」
待機していたタクシーに乗り込むと、紺野さんが何やら場所の名前を告げたけれど、私にはよく聞き取れなかった。
運転手さんは「畏まりました」と頷いて、車を発進させる。それを確認すると、紺野さんは安堵したように大きく息を吐いた。
「ね、ねえ紺野さん」
「何ですか?」
「椎名君は――椎名君は、無事なの? 何があったの?」
事故であれば、彼が巻き込まれているのではないか――そんな不安が拭えない。
「…………」
紺野さんは俯いて、ポケットから携帯電話を取り出すと操作を始めた。
メールでも打っているのだろうか。私の質問には意図的になのか答えてくれない。
「紺野さん」
「…………」
……ダメ。彼女は携帯に集中していて答えてくれそうもない。
私は彼女を問い質すのを諦め、この数分間のうちに起こった出来事を反芻し、そこからヒントを得られないかと考えた。
『月島先生、大変なんです』
『お願いします、出来るだけ早く! 一緒に来てくださいっ』
彼女が慌てた様子でそう言って、私を外に連れ出した。
『……お願いです。椎名のためにも、ここは何も言わずについて来て下さい』
椎名君のため。彼女は確かにそう口にした。ということは、やっぱり……。
「無事でいて……椎名君……」
無意識のうちに震える両手をぎゅっと握りしめて、私は小さく呟いた。
紺野さんの言葉から連想するに、何か良からぬことに巻き込まれているんじゃないか。そんな思いが強くなる。
頭の中が彼の安否でいっぱいで、他のことになんて気が回らない。
……教師なのに。担任なのに。
本当なら、生徒である紺野さんと消灯時間後に外出するなんて絶対にしてはいけないって分かってる。
でも、今の私は最早、その『教師』だとか『担任』なんて肩書きはとうに脱ぎ棄ててしまっていた。
お願い、無事でいて! 私の大好きな人。
タクシーは私の祈りを乗せ、夜の函館市内を加速していった――。
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