Scene.5B-3




「次の信号を右に曲がったところで降ろして下さい」

 紺野さんが車を止めたのは、住宅街かと思える人通りのない場所だった。

「ここは……何処なの?」

 タクシーのライトが遠のいていく中、周囲を見渡してみる。

 正直、もう市内かどうかさえも分からないけれど、少なくとも観光地ではないようだ。

「こっちです」

「あ、ちょっと待って」

 颯爽とアスファルトを蹴って走り出す紺野さんを見失わない様に追いかける。

 全く知らない場所なのだ。こんなところで逸れてしまったら、それこそホテルに帰れるかどうかも怪しい。

 タクシーだって通りかかるかどうか……。

「ここを潜って下さい」

 おそらく、色はブルーの――暗がりだから自信は無いけど――破れたフェンスを指差した紺野さんが、

 まずは率先して身体を屈め、通り抜けようとする。

「く、潜るって、この中を?」

「そうです」

 高さは2m位だろうか。その一部が、丁度人が一人通れるくらいの幅に裂けていた。

 誰かが故意に破ったのかもしれないけれど、かなり昔からこんな状態だったように思う。

 一体このフェンスは何のために置かれたものなのか……よくよく眼を凝らしてみると、どうやら建物をぐるりと一周しているように見えた。

 気ままに伸びた雑草を掻き分け、紺野さんの指示通り屈みながら囲いを抜け敷地内に入り、そこから建物を向いた。

 建物には夜という時間帯の所為もあり人の気配を感じない。いや、そもそも使用されている気がしない。

 目の慣れてきた私は、前を歩く紺野さんに続きながら観察を続ける。

 全体に窓が多く、建物の中心にある入口はある程度の広さがあり――そして、その脇には下駄箱のような仕切りの多い棚が確認できた。

 まさか、ここって……。

「学校……?」

「月島先生。行きますよ」

 私の導きだした答えには触れず、彼女は私の手を引いてしんと静まり返った廊下を歩いていく。

 通り過ぎる部屋の前に『1-2』とか『印刷室』とか書かれた白っぽいプレートが出ているのを見ると、私の予想は当たっているのだろう。

 掲示板らしき壁に何も貼られていないところ、今は廃校となってしまっているのかもしれない。

 そう思うと、灯りが無いのも手伝って何とも物々しい雰囲気だ。

 意識すればするほど、パンプスの反響音さえ気になってしまう。

「足元、気をつけて下さいね。外から入ってきたゴミとかが落ちてることもあるので」

「え、ええ……」

 そう注意してくれる割には、紺野さんは迷いなくサクサクと進んでいくものだから不思議だなぁと思ったけれど、

 どうやら彼女は携帯電話のライトを懐中電灯代わりにしているようだった。

 まっすぐと続いていく廊下の途中で踊り場に出る。

 と、彼女はもう一度「足元に気をつけて」と告げ、二階へと続く階段を上っていく。

 その時―――。

「!!」

 何処からか、ポロン、と聞き慣れた打弦楽器の音がして、私は声にならない悲鳴を上げながらびくっと肩を揺らした。

「どうかしましたか?」

 足を止めた私を振り返り、紺野さんが短く訊ねた。

「い、今……聞こえなかった?」

「え?」

 紺野さんは不思議そうに首を傾げた。

 彼女には聞こえなかったのだろうか?

「今、聞こえたでしょう? ほら、ピアノの――」

「さぁ、私には特に」

 紺野さんは知らないとばかりに会話を切って、また階段を上り始める。

 私は恐ろしさから、さぁっと血の気が引いていくのが分かった。

 確かに聞こえたのに。音楽教師を生業としている私が聞き間違える筈はない。あれは絶対にピアノの音だった。

 ……そういえば、以前インターネットか何かで見た覚えがある。廃校の中には心霊スポットになるような所も存在するってこと。

 小学生の頃に、所謂『学校の怖い話』みたいなものが流行っていたという記憶も相まって、

 昔からその手の怪談が苦手だった私は既にノックアウト寸前だった。

「ね、ねぇ紺野さん……」

「何ですか?」

「ここ、何か変じゃないかな?」

「どういうことです?」

「だ、大体、ここに何があるって言うの? 椎名君は一体―――」

 私が恐怖心のあまり彼女を問い質そうとした時、突然、私の傍らで何かが震えだした。

「きゃああっ!」

「先生!?」

 私は泣きそうだった。もしや見えない何かが私に―――そう危ぶんだのもつかの間、私はその『何か』の正体に気がついて、

 安堵から階段にへたり込んでしまう。

「……ごめんなさい、何でもないわ」

 右手でそっと上着のポケットに手を差し込む。そこに入れた携帯電話が震えただけだった。

「ちょっとごめんね」

 私は紺野さんに断りを入れて、その内容を確認する。仕事に係わることであれば直ぐに応答しなければ。


 ――――――――――――
 送信者 : 千葉真琴
 件名 : ごめんね!
 ――――――――――――
 本文 :
 今、ちょっと用事ができて、
 外にいるの。あと2時間もあれ
 ば戻るから。
 そっちは大丈夫だった?
 ―――――END―――――


 メールは真琴ちゃんからだった。

 てっきり部屋で待ってくれているものだと思っていたけれど、彼女も外出しているようだ。

 『そっちは大丈夫だった?』

 ……まだ大丈夫かどうかが分からない。そう、一刻も早く椎名君の無事を確かめないと!

 得体の知れない恐ろしさに支配されつつあった私は、彼のことを想い、気持ちを奮い立たせて起き上がる。

「もう直ぐですから」

 私が怯えて座り込んだというのを察知したのだろう。気休めかなと思ったけど、彼女は階段を上がって直ぐの部屋に立ち止まった。

 ………?

 この部屋に何かあると言うのだろうか。

 私はプレートが無いか確かめるために上を仰いだ。

 『音楽室』―――その表記が見えた瞬間、私は再び背筋にゾクゾクっとしたものを感じた。

 やっぱり聞き間違いではなかった。私がさっき耳にしたのは、ピアノの音に違いない。

「ここに入って下さい」

「え、わ、私が開けるの?」

 生徒の前だというのについ情けない声を出してしまう。

「お願いします」

「え、で、でも……」

 紺野さんは涼しい顔で頷いているけれど、私はどうしても気が進まなかった。

 それに、椎名君が大変だと言うことと、この教室に入らなければいけないことがどうしても結びつかない。

 躊躇する私の背中を推す様に、紺野さんが、

「椎名のためにも開けてあげて下さい」

 とハッキリ告げた。彼の名前で訴えかけられたら、開けないワケにはいかない。

 意を決した私はごくりと唾を飲みこみながら、扉に手を掛けてスライドした。

 扉はガラガラと音を立て部屋の中の景色を露わにする。

 音楽室と思しきその部屋は全ての窓が開いていて、月の明りを十分に受け取っていた。

 教室の真ん中には鍵盤がむき出しのグランドピアノが一台。学習机が何台か後方に押し込められているのが目に付く。

「あ……」

 ――中心にあるピアノの前に人影が認められる。誰かが付属の椅子に座っているようだ。

 ゾワゾワとした気持ちが蘇る……まさか、本当に幽霊なんじゃ!?

 どうしよう――……思わずぎゅっと目を瞑ったその瞬間。

「―――――」

 ピアノが音を紡ぎだす。人生の中で、おそらく誰もが必ず耳にしたことのある懐かしい曲を。

 ド、ド、レー、ド、ファ、ミ。

 ド、ド、レー、ド、ソ、ファ。

 前奏部分で曲のタイトルが直ぐに浮かんだ私はついつい旋律を口ずさむけれど、お世辞にも上手だと言える演奏では無かった。

 右手と左手――メロディラインと伴奏が合っていないように感じるし、和音も綺麗に重なっていない。

 一体誰が弾いているのかと、そっと目を開いた。ピアノの前で一生懸命演奏していたのは……。

「し、椎名君」

 私は思わず彼の名前を呼んだ。

 彼は私の呼びかけに振り向くこともなく、一心不乱にメロディを奏でる……というより、鍵盤を叩いている、という表現の方が近いかもしれない。

 おそらくピアノを演奏したことはあまり無いのだと思う。

 鍵盤の触れ方にしても、ペダルの踏み方にしても、姿勢にしても、危なっかしいのは否めない。

 『Happy birthday to you』

 最後の旋律を弾き終えると、椎名君はふうっと息を吐いた。そして、椅子から立ち上がる。

「芽衣センセ、五か月も遅れちゃったけど」

「え?」

「誕生日、その……オメデトウございます、っていうか、ございましたってゆーか……」

 椎名君は極まり悪そうに頭を掻いて、俯いてしまった。

 え? 何?

 私も何が何だか分からなくて、頭が混乱してしまう。

「もー、椎名ったら。今が一番カンジンなんだからね! ちゃんとやりなさいよ!」

「ホントだよ。お前、ここでピシっとやンなきゃ何の意味もないだろ?」

 振り返ると、そこにはさっきまで一緒に居た紺野さんと、何故か土屋君の姿があった。

「ッせーな、だから今やってンだろ」

「いきなり何の説明も無くそんなこと言われたって先生もピンと来ないでしょ!」

「………」

 紺野さんが何かを促しているけれど、椎名君はたまに私の方をちらりと見るだけで、何も言ってくれない。

「しょうがないなぁ。本当は私が言うよりアンタが自分で言うべきなんだけど……月島先生、つまりね」

 やれやれと言わんばかりに紺野さんが腰に手を当て、私の方へと歩み寄る。

「椎名ったら、芽衣センセの誕生日知ってたのに、うっかりお祝いし忘れちゃったのを気にしてたんだってー。

で、ここに居る土屋に『何か良い案無いか』って相談したワケよ」

「そ。でもさ、俺が『こーゆーモノだと喜ぶンじゃね?』ってバッグやらアクセサリーやら色々プレゼントを提案しても、反応イマイチでさ」

 土屋君も紺野さんと目配せをしながら肩を竦め、音楽室の中へと入ってくる。

「何でかなーと思ったら、椎名ってば『品物だとどうしても怜のクオリティを越えられない』って」

「まァそりゃ社会人の方が金回りいいに決まってるよなー。オレ達受験生だから経済的にも苦しーってゆーか」

「じゃープライスレスなことしかないじゃない、バースデーソングの生演奏は? って私が提案して、ピアノを教えてあげることにしたんだけど」

「椎名のヤツ、メチャクチャ下手クソでさ。この一カ月死ぬほど練習したのに、全然成果出ないもンだから――」

「悪かったな、どーせ音楽的センスなンて持ってねーよ!」

 妙に息のピッタリ合ったやり取りを繰り広げる彼らに声を荒げる椎名君。

 私はその様子を、ぽかんと口を開けて見ていることしか出来なかった。

 椎名君の態度を面白がってるようにも見える二人は笑いながら続ける。

「大体さー、曲もガタガタだったけど、この場所だってロマンチックのカケラもないよなー」

「しょーがないでしょ。今日、函館の教会あちこち回ったけど、夜に忍びこんでパイプオルガン弾いても怒られなさそうなトコロなんて一つも無かったじゃない」

「忍びこむ!?」

 ぼーっと聞いていれば流されそうな発言だったけど、私は流石にビックリして訊き返してしまう。

「そうなんですよー。折角函館には素敵な教会が沢山あるんだから、利用しない手はないって思ったんですけどー……」

「半分ノリで言ってたこともあったけど、やっぱ現実的に考えればトーゼン無理って結論に至ったンだよな。で、慌てて椎名とも相談した結果、

 昔オレの住んでた近くに廃校になった小学校があって、そこの音楽室に賭けてみたってワケ。オレが引っ越してから随分長いこと経ってたから、

 取り壊されてるか中のモノが処分されてるかは覚悟してたンだけど、運よくそのまま残っててさ。マジでラッキーだったよ」

 オンボロだけどな、と土屋君がピアノを指差した。何処となく音程が合わなく聞こえたのは、長い間調律をしていない所為もあるのだろう。

 私はそこまで聞くと、呆れたんだか嬉しいんだかホッとしたんだか――色んな感情が綯い交ぜになって、涙腺が緩んでしまう。

「センセ?」

 瞳から零れ落ちた涙を見逃さなかったのだろう。椎名君が慌てて私の所へ駆け寄る。

「……った」

「えっ?」

「……よかった、椎名君――」

 他の生徒の前であるにも係わらず、私は駆け寄る彼の首元へしがみ付く様に抱きついた。

 普段の自分であれば絶対に湧かない勇気。自分でも大胆だと思ったけれど緊張の糸が切れた今だから表現できる、正直な気持ちだった。

「椎名君が命に係わる大変なことに巻き込まれてるんじゃないかって……私、心配で心配で……」

「え?」

 椎名君は酷く驚いたように声を発した。

「……おい紺野、お前、一体どうやって芽衣センセ連れ出して来たンだよ!?」

 椎名君の低いハスキーボイスが彼の胸を通して、擦り合わせた私の頬に響く。

「えー? 『椎名のためにも黙ってついて来て下さい』って言っただけだよ。何も嘘言ってないじゃん」

 本当は、『大変です』とも言われたと思ったけど……。どうやら私は、紺野さんの言葉を聞いて悪い様に早とちりしてしまったようだ。

「でも、わ、私……こんなこと考えてくれてるなんて思わなくて。この一カ月、椎名君がそっけなかったから、もう嫌われちゃったのかと思って……」

「芽衣センセ……」

「じゃあ椎名、暫く二人でごゆっくり〜」

「とはいえ早めにホテル帰らなきゃマズイからな。時間は気にしろよ?」

 とくん、とくんと椎名君の心音が伝わってくるのを感じていると、私の後ろで二人の声がする。

「え、あ……わかった」

 二人は廊下に出て行ったらしい。私達のために席を外してくれたようだった。

「えーっと……」

 椎名君は少し遠慮がちに私の肩を抱いてくれる。

「……芽衣センセ、ゴメン」

 そして耳元で囁き掛けるように言った。

「今年の誕生日は、怜と一緒に過ごしたじゃん。それ、正直凄く羨ましくて、さ。オレも、どうしても芽衣センセになにかしたいって思ってて。

そしたら、その、土屋と紺野が手伝ってくれるって言うから、折角の修学旅行利用しない手は無いって話で、協力してもらった……ンだよな」

 普段から、思っていることを中々ハッキリと伝えてくれないシャイな彼だから――全く他人の事は言えないのだけど――、

 照れくささからなのだろうか、困惑気味な口調だった。

「私、てっきり……紺野さんのことが好きになっちゃったのかと思った……」

「どーしてそーなンの?」

 それは心外とばかりに彼が私の顔を覗きこむ。幾分焦ったような彼の瞳と私のそれがかち合った。

「……だって、放課後はすぐに紺野さんと一緒に帰っちゃうし……。それに、あんまりお家に帰って無かったでしょう?」

「紺野のウチの電子ピアノ使って練習してたんだよ。で、そのかわり、オレが紺野の化学と数学の勉強を見てやってたの。

……自分ンちに帰らなかったのは、それで自分の予習と課題の時間が減ったから、そのまま土屋ンちに転がり込んで写させてもらったりしてたってコト」

 椎名君は小さくため息をついてから、

「――まァ、その後自分ンちに帰らなかった理由は他にもあって、土屋に『紺野とヤマしいことは何もしてない』ってアピールも兼ねたンだけど」

 と言った。

「……どういうこと?」

「そっか、芽衣センセは知らないンだよな。紺野、最近土屋と付き合ってるから」

「え!?」

 私は目を瞠って叫んだ。

「じゃ、じゃあ……真琴ちゃんが言ってたことは……?」

 真琴ちゃんは、椎名君と紺野さんが付き合ってて、一線を越えてしまってると教えてくれた。

 彼女は面白可笑しくそういう嘘を吐くタイプでは絶対にない。不思議に思って訊ねると、椎名君はあからさまに嫌そうな顔をして、

「だからさ、全てのゲンキョーは真琴センセなンだよな。ホントあの人、いー迷惑だよ。言ってることもなンか意味わかンなかった。

そーいえば、紺野とカラダの関係がどーたら、みたいなコト言ってたな。どーぜロクに人の話も訊かずに自己完結してカンチガイしたんだろ」

 彼は一度身体を離すと、彼女とのやり取りを思い出したのか片手でぐしゃぐしゃと頭を掻いた。

 そして、『ぶン殴られたのは忘れねェ』と小さく呟いた。怒りの篭った言い方を聞くに、相当痛かったのかもしれない。

「それなら、最近どうして私のこと避けてたの?」

「別に避けてはないよ……あァ、正直オレが怒ったこともあって気マズかったってゆーのはあったけど、土屋や紺野の手前、芽衣センセとは話し辛いンだよ。

アイツら、オレと芽衣センセが話してるの見ると、妙にニヤニヤしたりセンセの居ないところで冷やかしたりしてくるから」

 そういうつもりはなかったと否定しつつ、同級生の二人について話す時は眉間に皺を寄せていた。

「大体さ、紺野と付き合ってたとしたら、オレ、こんな必死になって出来ないピアノ弾く意味ある?」

「…………」

「無いでしょ? ……そりゃ、放課後何してンだって問い詰められる度に、毎回黙ってたのは紛らわしかったかもしれない。今は反省してる。

でも、変に真琴センセや怜に伝わったりしたら、オレらのやってることが台無しになるかも知れなかったからさ、絶対喋らないって決めてたンだ。

芽衣センセがオレの部屋に居た時はついビックリして――ってゆーより、今日の計画がバレたかもって焦ったから、

思わずキツいこと言っちゃって悪かったって思ってるけど……」

 椎名君の部屋に私と真琴ちゃんが無断に入った時のことだ。

 確かに、椎名君は真琴ちゃんが楽譜みたいなものを手に取っているのを見て、物凄い勢いで怒りだしたんだった。

 もしかしたら、あの楽譜は『Happy birthday』だったのかもしれない。だからあんなに怖い顔をしていたのか。

「ううん、それは私が悪いの」

 私はかぶりを振った。

「私が悪かったの……椎名君。私、自分に自信がなかった。だから椎名君に『信じて』って言われたのに、完全には信用できなかったの。

ほら、私と椎名君って付き合ってるワケじゃないでしょう。だから、本当に椎名君がまだ私のことを好きでいてくれてるかどうか分からなくて―――」

「付き合ってないの!?」

 と、私の言葉を遮って、椎名君が驚いたように声を上げた。

「え……?」

「芽衣センセ、今オレと付き合ってないって言った?」

「う、うん、だってハッキリとは言われてないし……」

 椎名君の動揺が窺えて、私がオドオドしながら答えると、彼は盛大にため息を吐いてその場にしゃがみ込んでしまった。

「え? な、何? 何か悪いこと言ったかな??」

「……別にいーけど」

 台詞と感情が一致していない声音が、足元から弱弱しく響く。

 この態度を見れば私が失言をしたのは明白だ。慌てて、彼と視線を合わせるために膝を折った。

「し、椎名君」

「……じゃーオレ、今までカンチガイしてたってコトじゃん。マジ恥ずかしいンですけど」

 肩を落として、いかにも落ち込んでいますというような素振りを見せる彼。

「……えっ、あの――」

「オレ、勝手に芽衣センセと付き合ってるつもりでいたンだよな」

「………!」

「オレと二人で頻繁に会ってくれるようにもなったから、てっきり……でも、そっか、芽衣センセはそうは思ってなかったンだな」

「だ、だって椎名君、ズバリ言ってくれたことなんて無かったじゃないっ」

「何となくフンイキで察知してくれてると思ってたンだよ。オレ、今まで散々好きだって言ってたじゃん」

「そ、そんなっ……!」

 雰囲気って、どんな雰囲気??

 思いがけない言葉に私も頭が真っ白になって上手く言葉が紡げない。

 でも、でも、でも。これってもしかして、逆に言うと……。

「……し、椎名君は、私と付き合ってもいいって……そう思ってるってこと、なの?」

「そんなコト、訊かなくても分かると思うンですけど?」

「わ、分かんないよっ」

 私は小さく首を横に振った。

「やっぱり私、自信ないんだもの。私は椎名君よりも年上だし、可愛いワケでも話が上手なワケでもない。

椎名君が好きでいてくれる理由なんて、一つも分からない――そんな私には、きちんと言ってくれないと、何にも……分からないよ……」

 男性経験はおろか、男の人と話すことさえままならない。

 いつも明るい真琴ちゃんの影に隠れて、助けて貰っているような私には、自惚れる要素なんて何一つ無いのに。

「…………」

 彼は私の弱気な台詞を聞き届けると、大きく息を吸い込んだ。そして。

「……自分でもどーしてか分かンないくらい、ホントに好きなンだ。芽衣センセが自分に自信が無いとか、そういうのは知らない。

でもオレは芽衣センセを可愛いと思ってるし、怜のことを忘れられたンなら今度はオレを見て欲しいって気持ちは変わらない。だから」

 いつになくまっすぐな瞳で私を見つめる。その真剣さに、目を逸らすことが出来ない。

「オレと、付き合って下さい」

「…………ぁ、う」

 大好きな男性に振り向いて貰えたのは、生まれて初めてのことだった。

 感激のあまり、彼の言葉を聞いた瞬間、目の前がぼやけて、何も見えなくなる。

 今まで、夢見るほどに叶わなかった恋が初めて実った――その嬉しさで、涙がぼろぼろ、両方の瞳から勝手に零れていった。

「芽衣センセ、な、なンで泣くンだよ」

「だ、だって……凄く嬉しいんだもん……わ、私、椎名君に告白、されたんだよね?」

「……改めて訊かないでくれよ」

「え、ち、違うの……?」

「あー、いや、そーじゃなくて……困ったな、そーゆー意味じゃない。もういーや、そーだよ、告白した!」

 椎名君にとっても一大決心だったのだろう。気恥かしさで濁した言葉を不安に感じていると、彼は開き直って言った。

「で? 芽衣センセ、返事は」

 続けて椎名君が促してくる。そうだ、舞い上がってしまって返事を忘れてしまっていた。

 私は頬に流れるものを手の甲で拭いながら、

「……こんな私でよければ、お願いします」

 と、会釈するように頭を下げた。月明かりが照らす椎名君の顔が、微笑みの陰影を形作る。

「嬉しかった……私のために、椎名君の手でバースデーソングを弾いてくれたこと。受験で大事な時期なのに、大変だったでしょう?

私のために、ずっと前から準備してくれてたなんて……紺野さんや土屋君にも、お礼を言わなきゃね」

「……芽衣センセ」

 耳元で囁き掛ける声音が、いつもより掠れて聞こえた。椎名君の指先が、私の顎にそっと添えられる。

 キスのタイミングなんて分からないけれど、これはきっとそういうことなのだろうと、互いの距離がなお縮まった。瞬間。

「もーそろそろいーかァ?」

「流石にリミットじゃないかなぁー?」

 廊下で待たせていた二人の退屈そうな声が、今しがた生まれていた心地よい緊張感を見事に攫って行き、

 それを合図に私達はどちらともなく背を向け、立ち上がった。

「話は済んだ?」

「……ああ、それなりに、な」

「なぁーに、もしかして邪魔した?」

 言葉の割には不服そうな椎名君の態度に、紺野さんはワザと茶化す様に言う。

「……ちげェよ」

 椎名君が舌打ちして答えるのを、紺野さんは肯定だと判断したらしい。キャッキャッと声を立てて笑いながら、

「椎名ってば分かりやすーい」

 とご満悦だった。土屋君はそんな二人を愉快そうに眺めている。

「ところで芽衣センセ、椎名の演奏、どうでした? マジヤバいでしょ、下手過ぎて」

「これでもそーとー練習させたんだけど、まー楽器はそンな急には上達しないってコトだよなぁ」

「お前らなァ……下手下手ってウルサいンだよ。しょーがないだろ、ピアノなんて初めてだったンだから」

 どうやらこの三人の中だと、意外にも椎名君はいじられるポジションらしい。そのやり取りが可笑しくて笑ってしまう。

「担任としては、ちょっぴり複雑なんだけどね。消灯時間後に皆を外に出しちゃったってことだから」

 私は立場的に一応言っておかなきゃいけないことを口にしながらも、自然と口元が綻んでしまう。

「でもね、本当に嬉しかった。……今まで貰った誕生日プレゼントの中で一番の思い出になりそう。ありがとうね」

 10月10日――私の誕生日である5月10日から5カ月遅れのバースデ―プレゼント。

 半年近くも時間が空いたプレゼントは今まで貰ったことがなかったけれど、彼らの気持ちが本当に有り難かった。

「それならよかったですよー。私達の協力した甲斐があるってことだよね――あ、そうだ、椎名」

 紺野さんがホッとした所作を見せた後、ふと切り出した。

「私が月島先生を二階に連れて来る時さ、うっかり鍵盤に触ったでしょ?」

「は?」

「月島先生、ピアノの音に怖がっちゃって大変だったんだから。自分の携帯のバイブ音にまで怯えちゃって、可哀想だったよ」

「こ、紺野さんっ」

 やっぱり紺野さんは、私がいつ襲われやしないかとビクビクしながら歩いていたことに気づいてたんだ。

 携帯電話の着信で竦み上がっていた自分を思い出して情けなくなる。

「オレ、触ってないよ」

 ところが、椎名君はさらっとそう言い放った。

「嘘、触ったでしょ? だって音がしたもの。私も月島先生も聞いたんだから」

「いや、だから触ってないって。なァ、土屋」

 紺野さんは口を尖らせたけど、椎名君は土屋君と顔を見合わせて首を横に振るだけだ。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 嫌な空気が走った。皆、口には出して言うまいという意志だけは見てとれる。

「と、とりあえず、他の先生達にバレるとヤバいから、早く帰ろっか」

「そ、そうね……早く帰らないと、明日の行動にも差し支えるかもしれないわっ」

 ――――私達が四人で固まって建物を出たのは言うまでも無い。