Epilogue



「それで? 夜景を見て、プロポーズの予約をされて、どうしたの?」

 二泊三日の修学旅行から帰ってきた夜、私は自宅でアヤさんと遅めの夕食を取りながら、昨日の報告をしていた。

「アヤさんに教えて貰った――あの、夜景の中にハートマークが隠れてる、でしたっけ? あれを最終のゴンドラまで探してました」

「ふーん、そう。で、見つかった?」

 疲れていたので、献立は直ぐ出来るよう缶詰のトマトソースを使ったパスタにした。

 ローテーブルで向かい合うアヤさんが、スパゲッティをフォークでくるくると綺麗に巻き取りながら口元へ運び、唇に触れたトマトソースを指先で拭う。

「それが、全然。そもそも夜景の何処かだなんて、範囲が広すぎて見当もつきませんでしたよ」

 ムキになった私は何が何でも探してやろうと意気込んでいたけれど、難易度は高く、結局見つからないままタイムリミットを迎えてしまったのだった。

 昨日は飲み過ぎて無茶をしたため気分の悪さを引きずっていた私だけど、この時間になって漸く何か胃に入れても良い気分になった。

 アヤさんよりも一回り小さいお皿に一度フォークを置いて、首を横に振る。

 すると、その言葉を待っていたかのようにアヤさんが笑顔を見せて、

「あららー、残念ね。それって、二人の恋は実らないっていう暗示なんじゃないかしら?」

 なんて、嬉しそうに語りだした。

「……いやいや、だから高遠に『落ち着いたらプロポーズしたい』って言われたんですって。すごく順調ですよ」

「でもまだされてないでしょ? これから何が起こるか分からないじゃない」

「あー……まぁ、そうですね」

 アヤさんはこんな感じで、相変わらずのマイペースだ。

「私なんてプロポーズされて、結婚式寸前まで言ったのに結局しなかったんだから。人生何があるか分かんないわよ?」

「それはアヤさんの問題でしょう。高遠はする気だったんですから」

「あーあ、本当に勿体ない事しちゃったわー。逃がした魚は大きいってまさにコレよね。あの時結婚してればねぇ〜」

「………」

 アヤさんは盛大にため息を吐いて見せた。けれど、直ぐに。

「なーんてね」

 と、小さく舌を出した。

「私、今でも怜のこと愛してるけど、だからってこの5年間の全てを後悔しているワケじゃないわ。

結婚しなかったから得たものだってあったし、それがあるからまた怜と向き合いたいって思えたんだもの。

もっとも、彼にとってはとっくに終わった話だったみたいだけどね――ごちそうさま」

 私と違い体調が万全なアヤさんは、もうパスタを平らげてしまったようだ。

 ローテーブルの下からティッシュペーパーの箱を引き寄せ、一枚手に取ると口元へ持っていく。

「昨日も言った通り、怜の事はきちんと諦めるつもりだから安心してよね。それと、近いうちに真琴さんの家も出るわ」

「出るって……次の部屋は見つかったんですか?」

「まぁそんなとこ。それに、いつまでも貴女にお世話になってると、貴女が怜と一緒に暮せないでしょ?」

 高遠とヨリが戻らなかったことで、彼女が此処に居る理由は無くなったという意味もあるのだろうけど、

 それにしてもアヤさんはいやに潔くそう申し出た。

「私はまぁ、そうして頂けると有り難いんですけど……でも、ちょっと寂しくなりますね」

 あんなに手強いと思っていたアヤさんなのに、繋がりが減ってしまうことを思うと少しだけ寂しく感じてしまって。

 ポツリと本音を零すと、彼女は可笑しそうに声を立てて笑った。

「ふふ、真琴さんってホントお人好しね。最初は凄く私の事迷惑がってた癖に」

「そりゃ……誰だって、恋人の元カノと同居なんて嫌に決まってるじゃないですか」

「そうよね。私だったら絶対提案しないわ。相当変わってるわよ、貴女」

「………ですよね」

 そうかもしれない。相手は恋敵だっていうのに――私は本当におめでたい人間だ。

 項垂れる私の姿を見て、彼女はまた一頻り笑った。けれど。

「アヤさん?」

 私はふっと遠い目をした彼女の表情を窺った。彼女はじっと私の目を見つめながら、

「ねえ、真琴さん。怜と付き合うようになったのはどうして?」

「…………」

 突然、何の脈絡もなく訊ねられたので、私は思わず黙り込んでしまった。

 高遠と私の間に起こったあの出来事は、きっと話さない方が良いだろうと瞬間的に判断したからだ。

「もったいぶらずに教えてよ、ね? いいじゃない」

 それを見て、アヤさんはどうやら私が恥ずかしがっているのだと勘違いしたようだ。そういうつもりではないんだけど。

「……最初は、凄く嫌いでした」

 私は例の事件には触れない様に言葉を選びながら、それでも嘘にならない様に答えた。

「へぇ、そうなの?」

「彼は確かに外から見れば完璧で、申し分無い人だったけど、何ていうか……知り合って直ぐは仲が悪かったんですよ」

「ふうん、なるほどね。じゃあ、どうして怜に興味を持つようになったの?」

 アヤさんが続けてそう訊ねたので、私は唇に人差し指を置いて考え込んだ。

「うーん……思い返してみると、彼の容姿や能力とかっていうよりは、寧ろ彼の不器用な所に惹かれたんだと思うんですよね」

「怜が、不器用?」

「はい。世渡りは憎たらしい位に上手いのに、自分の本心を伝えられないところとか。あと人並みに弱点とか意外性を持ってたところとか。

第一印象があまりにも欠陥が無くて人間に見えなかった分、そういう部分を見つけて面白くなっちゃったのかもしれませんね」

「――例えば?」

「え?」

「怜の弱点とか意外性って……例えば何?」

 アヤさんの声が詰問口調なのが気にかかりながらも、私は「そうですね」と切り出した。

「些細なことかもですけど、あの人、コーヒーとか紅茶に砂糖めちゃくちゃ入れるじゃないですか。超甘党っていうか」

「ええ、変わってるわよね」

 アヤさんがこくりと頷いたのを見て、私は続けた。

「あと、付き合ってみると凄く嫉妬深かったり」

「そうね。それで?」

「んー、一緒に暮らしてた時期があるなら知ってるかと思いますけど、朝、マトモに起きれないくらい低血圧だったりとか、実は寂しがり屋だったりとか」

「え……」

「体面気にする割には適当なところは適当ですよね。……あ、都合が悪くなると黙るところは腹が立ったりもするけど、まぁ分かりやすいからいいかな」

「………」

「それに、優しそうな外見の癖して意地悪っていうか、サディスティックな一面があったり……」

 夜は特に――なんて、何ベラベラ喋ってるの、私!?

「と、とかっ、まぁ他にも色々ありますけどっ」

 うっかり正直を言い過ぎて、顔が熱くなってくる。訊かれたからってキレイに白状しなくてもよかったのではと思っても、もう遅い。

 何かアヤさんに面白可笑しく突っ込まれるのでは――そう覚悟して、ちらりと彼女を見た。

 けれど、彼女は妙に真面目な顔つきで、

「それ、本当?」

 と、訊ねた。

「え? は、はい」

 最初の方は一緒に頷いて聞いていてくれた彼女なのに。

 途中から、何となく反応が冴えないなとは思っていたけど、一体どうしたって言うんだろうか?

「ふうん………」

 アヤさんは納得したというように頷いて、そして寂しそうにクスっと笑いを浮かべた。

「あの……? どうかしました」

「別に……私は随分長い時間を怜と過ごしたけど、怜のこと、あんまり分かってなかったんだなって思っただけ」

「……?」

 きょとんと彼女を見ているだけの私に、アヤさんはいっそ清々した様子で口を開いた。

「私には知らない怜の一面が他にもいっぱいあるんだなってことよ。……なぁーんだ、今の話聞いたら、分かっちゃったわ」

「え、え? どういうことですか、アヤさん!」

 何の話をしているのかさっぱり見当もつかない私は、まだ食べきらないパスタもそっちのけでテーブルに身を乗り出す。

 アヤさんはその私の動作を両手で宥めるようにしながら、ポツリと呟いた。

「――時間なんて関係なかったってこと」

「時間?」

「私が怜と付き合った7年間よりも、貴女と怜が過ごした時間の方がよっぽど密度が濃かったってことよ。

私なんかよりも真琴さんの方が色んな怜の姿を見てるのね、きっと。今ちょっと聞いただけでもこうなんだから」

「そ、そんなこと……」

 時間。その言葉に心許ないような感情が沸き起こる。

 アヤさんと高遠は、学生時代っていう掛け替えのない時間を共に過ごした恋人同士だった。

 その事実が、『彼女には敵わないのだ』というしこりになって胸に留まっていたのだけど……。

「怜はね、いつでもどんな時でも完璧だったわ。飲み会の時にも話したわよね。劣等感こそあったけど、

私にとっては何の不足も無い、尽くしてくれる申し分のない彼氏。でも今だから考えるのよ……それって怜の本当の姿だったのかなって」

「…………」

「私が辛い時はいつも助けてくれたわ。それなのに怜が私に弱みを見せたことは一度も無かった。カノジョなのに、不思議でしょ?

けど私は、そんな完璧な怜が好きだったし、求めていたの。まるで絵本の中から飛び出てきた王子様みたいな彼をね」

 絵本の中の王子様。そのフレーズが高遠の余所行きの表情にしっくりはまった。

「例え怜と結婚してたとしても、私達は長くは続かなかったかもしれないわね」

「ど、どうしてですか?」

「だってそうでしょう。彼は他の人と接するのと同じ……ううん、きっとそれ以上に気を遣って私と接してくれてたことになるでしょ。

そんな状態で、何年も何十年も一緒に居られる筈がないわ。怜はいつかそんな生活に疲れ切ってしまう」

 高遠がアヤさんに気を遣っていた? 恋人なのに?

「まさか。高遠だって気持ちが長く続くって思ったから、プロポーズしたんだと思いますよ?

高遠は言ってました。『彩と居る時だけ気持ちが落ち着いた、楽になれた』って……」

 彼女の言わんとするところがよく分からないでいると、そんな私を見てアヤさんがふっと微笑みかけた。

「私、真琴さんのこと好きだわ」

「アヤさん……」

「怜の相手が貴女で良かった。ううん、きっと……貴女だから怜は心を開いたんでしょうね」

「……どうでしょうか」

「ふふ、大丈夫よ。きっと貴女が想ってる以上に、怜は貴女のこと好きだから。……あら、真琴さん、ずっと手を付けてないけど食べないの?」

「あ……」

 彼女は私の瞳から視線を落とし、フォークを置いたままほったらかしのパスタを指して言った。

「飲み過ぎで食欲無いかもしれないけど、食べないと痩せちゃうわよ? ……私みたいに」

「!!」

 アヤさんは平然と言ってのけると、にっこりと邪気のない笑顔を浮かべた。それってどういう意味!?

「……良い性格してますね、アヤさん」

「今更気付いたの?」

「いえ……。十分承知してましたけど」

 私は半ばヤケになってフォークを手に取った。どーせアヤさんみたいなナイスバディじゃないですよーだ。

 でも、このやり取りもあと少しだなぁと思うと、やっぱりちょっと名残惜しいワケで。

 隣で、『怜は細い子が好みなのよ』なんて言うアヤさんと、結局夜更けまで軽口を叩き合うのだった。