Scene.1-4




 翌日、繰り返し鳴り響く目覚まし時計の音で、私は眠い目を擦りながら身体を起した。

 頭が痛くなりそうなベルの音にも、隣の高遠は気付くことすらなくまだ夢の中らしい。すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。

 相変わらず酷い低血圧っぷりだ。

 この男を直ぐに起そうと思っても無駄なのだ。それを心得ている私は、ベッドから降り、

 活動し始めたらしいネコ君に軽く挨拶をしてからシャワーを浴びに行く。

 高遠家に泊まる時は大体このパターンだ。

 私がシャワーを浴び、メイクをして、朝食の準備を済ませた後に高遠を起こしに行き、

 更には椎名君を起してからまた高遠の部屋に戻り、再び高遠を起す。

 5月、一番最初に高遠家に泊まった時は、高遠の具合が悪い所為もあり知らなかったのだけど、

 あの男は、私が知る限りで一番の寝起きの悪さだ。いっそ、そういう病気じゃないかとさえ思うくらいに。

 最初のうちは揺すっても叩いても起きない高遠に、朝っぱらからかなりの労力を使っていたのだけど、

 こうやって順序を踏めば最低限のエネルギー消費で彼を起せることに気がついた。

 ホント、普段はどうやって目覚めてるんだか……。学校に遅刻をしないことが奇跡に思えてくる。

 シャワーと着替えを終え、洗面所でパパッとメイクを済ませて廊下に出ようとしたところで、

 欠伸をしている椎名君と鉢合わせる。

「あれ、もう起きてたの?」

「あンまり眠れなかったから」

 私が訊ねると、椎名君は露骨に目を逸らして答えた。

「……芽衣と揉めたの?」

「別に」

 立ち入らないで欲しいと言わんばかりの口調で短く告げる。私もムッとして、

「芽衣、傷ついたみたいよ?」

「……」

「ちゃんとフォローしてあげてよ。芽衣が可哀想じゃない」

「そんなことより」

 そんなことって何よ!と言葉を荒げそうになったけど、

「昨日は一段と盛り上がったみたいで、ヨカッタね?」

 続きを聞いてきょとんとしてしまう。

「……昨日?」

「隣にオトシゴロな男子高校生が居るってのに、エンリョなんて1ミリもなく喘ぐンだな、真琴センセ」

 ――――!!

 口元を歪ませるように笑いながら、私にそんな皮肉を投げてくるものだから、

 昨日のハイライトが頭のスクリーンを流れていく――そして、頬が急激に熱くなってくるのがわかった。

「そ、そ、それって……!」

「まさか聞こえてないとでも思ってンの?」

 やっぱり、椎名君の部屋に聞こえてたんだ……!

 そうかもしれない、と思ってはいたけど、正面きって言われると恥ずかしくて死にたくなる。

「ち、ちが、昨日は、あれは高遠が――」

「言い訳する必要ナイし。昨日に限らず、大体聞こえてンだから」

「!!」

「真琴センセって普段から声大きいもンな。バレバレなんですけど」

「………」

 もう、椎名君を顔を見る勇気がなくて、視線が泳いでしまう。

 昨日だけじゃなく、いつも……?

 呆然とする私とは対照的に、椎名君は涼しい顔をしていた。そして、今思い出したと言わんばかりに、

「そうだ。朝さぁ、化粧、洗面所でするのやめてくンない?風呂とかトイレとか入れなくて、いつも困るンだよね。

それと、オレの部屋、勝手に入るのやめてよね?朝とかも別に起こしてくれなンて頼んでナイし。プライバシーのシンガイ」

 そう言うと、気が済んだらしい椎名君は私を追い払う仕草をした。

 おそらくシャワーを浴びるのだろう。流されるままに、化粧ポーチを持って扉側へと移動する。

「ちょ、ちょっと待ってよ、こっちはまだ芽衣の話が――」

「……別に真琴センセに話すようなコトじゃない」

 眉間に皺を寄せて、不快感を露わにする椎名君。それでも私が廊下側に出たのを見計らうと、

「そもそも――アンタ達が余計なコトしなきゃ、こンな風に揉めなかったンだけどね」

 嫌味のような言葉を呟いてから、勢いよく扉を閉め、鍵をかけられた。

「……何だってのよ」

 結局、芽衣の話は誤魔化されてしまった。

 一体、何をそんなに隠しているっていうのか。疚しくないなら疚しくないで、きちんと説明すればそれで済むのに。

 ……それにしても、椎名君が色々私に不満を持っていたことまで判明して、少し落ち込む。

 化粧の件は気をつけるにしても、遅刻魔の彼の手助けになればと思って起こしに行くのはマズいのか。

 そりゃそうだよね、よかれと思って勝手にやってたけど、許可なんてとってなかったや。

 だって放っておいたら寝てるんだもん。高遠家の低血圧DNAは強力だ。

 私はスッキリしない気持ちを抱えながら、そうだ兄の方を起こさないと、と高遠の部屋へ向かった。

「おはよう――……と」

 扉を開けて挨拶を投げてみるものの、反応は返ってこない。
 
 ……そうだろうと予想はしていたけども。

「起きないと、準備の時間なくなっちゃうよ?」

 私がベッドの前に戻ると、高遠は先ほどと体勢を変えることなくまだ眠っていた。

 人の気持ちも知らないで、まぁ平和そうな寝顔だこと。

 一昨日も昨日もあまり休めなかったからだろうか。こうなれば、実力行使しかない。

「もー!いい加減に起きてよっ!!」

 シーツを引っぺがしてみたものの、反応はほぼ無し。続いて、枕を抜いてみた――ダメだ、やっぱり効果がない。

 更に、頬をぺちぺちと叩いてみても、寝返りをうつ程度だった。

 そうか――じゃあもう、アレしかないか。

 実は、高遠を起こす唯一にして最強のテクニックがあるのだけど、できればこれはあまり使いたくない。

 何ていうか……恥ずかしい、というか、バカップルっぽいからだ。ついでに、何やってるんだろ、という気分にもなる。

 でもしょうがない。今日はあまり時間もないし、遅刻するワケにもいかないから――。

「よし、じゃあ最後の手段か……」

 私は小さく呟くと、ベッドの上に上がり、膝で体重を支えながら彼の身体を跨いで、唇にそっと口付けた。

「う………ん」

 寝言?何かを呟く高遠。そろそろ呼吸がし辛くなってきたのだろう。段々酸素が無くなって、嫌でも目が覚めるという仕組みだ。

 ちなみに、口元を手で押さえる方法は過去にチャレンジしてみたけど、失敗に終わっている。

「ん……っ」

 ぱち、と目の前の瞳が開かれた。それを合図に、私はベッドから降りる。

「おはよう」

「………」

 高遠は目を何度か瞬かせながら、私の顔をじっと見ている。

 何か言いたいことがあるワケじゃない。まだ完全に目覚めてないだけだ。

「…………………今、何時?」

「そろそろ起きないと、遅刻しちゃう。早く準備済ませてね」

「………………うん」

 まるでテンポの合わない会話。解ったんだか解らないんだか微妙なセンの高遠を置き去りにして、私はまた廊下に出た。

 後一回、起こしに行けば何とかなるだろう。

 ぱたぱたと慌しくキッチンに向かうと、朝食の準備に取り掛かる。

 いつも食材の少ない高遠家なので、昨日は夕食の買い物ついでに、朝の必需品も揃えてみた。

 今日のメニューは、トーストにトマト入りスクランブルエッグ、ベビーリーフのサラダ。あとはホットミルク。

 高遠の分のミルクには、勿論砂糖をたっぷり――極度の甘党っていうのも最近は慣れた。

 健康診断で引っかからない程度にしてほしいところではあるけど、嗜好の問題だから、強く言えるのは結婚した後かな、と思う。

 ……結婚、かぁ。

 5月に高遠の家に泊まった時は、「高遠と結婚なんて絶対にありえない!」と思っていたけど、

 最近は一緒に居ることも多い所為か、何となぁく将来的には、出来たら楽しいだろうなあって考えてしまう。

 私は暴走してしまうところがあるから、それにブレーキをかけてくれる高遠の存在はありがたいし、

 高遠だって私が居て助かっている部分がある、と信じたい。

 もっとも、高遠にその気があるかはわからないけど――付き合ってまだ4か月だっていうのもそうだし、

 結婚っていうイベントで、彼が心に傷を作ったのも知っているから、口にする気も全くないんだけど……。

 そんなことを思い巡らせていると、トースターのチン!という音が聞こえて、現実に引き戻される。

「お皿、お皿――」

 パンを回収するべくお皿を手に取ったところで。

 椎名君の部屋の扉が開く音がした。ついでに、足早に廊下を歩く音も。

 何となく気になって廊下を覗いてみると、既にブレザー姿の椎名君が、スクールバッグを肩に掛けて家を出ようとしてるところだった。

「ちょ、ちょっと!椎名君」

 あまりにもナチュラルにフェードアウトしそうな彼を、思わず呼び止めた。

「……何?」

「朝食、食べていかないの?折角作ったのに」

「いらない」

 それだけ言い残して、彼は振り返りもせずに出て行ってしまった。

 何よ。心優しい私が、キチンと3人分作ったっていうのに!

 どうせ、また芽衣について私が煩く言うとでも思ったのだろう。

 先手を打たれてしまった感にやれやれとため息を洩らしたところで、今度は高遠の部屋の扉が開いた。

 今日はまだ一回起こしただけなのに、珍しい。ちゃんと起きてくれて、手間が省けた。

「…………そろそろ、朝食?」

「うん、今出来たから食べちゃって」

 眼鏡は装着しているものの、まだ多少焦点の合わない高遠が頷くのを見届けて、私は支度が途中だったことを思い出してキッチンに戻った。

 ・
 ・
 ・

 1.5人分のスクランブルエッグや、砂糖たっぷりで血糖値急上昇必至なミルクなんかを平らげるころには、高遠は平素の彼に戻っていた。

「そういえば、隼人は?」

「知らない。ゴハンも食べずに出て行ったけど」

 今更な質問な気もしたけど、答えてあげると彼はふうん、と頷くだけだった。

「ふーん、じゃない!椎名君ね、やっぱり変よ。芽衣のこと、絶対答えようとしないんだから」

「そう」

「そう、って……あのねぇ、昨日も言ったけど、貴方は血の繋がったおにーさんなんでしょ?弟の様子とかね、もっと気にできないの?」

「……気にしてないってことではないけど」

「気にしてないじゃない。全然関心なさそうだもの!大体ね、やっぱり昨日のアレ、聞こえてたんだって!」

「昨日の、アレ?」

「だから――昨日の夜のことよ」

「ああ、そうなんだ」

「……!」

 そんな、他人事みたいに!

 起きぬけで頭が働いていないこともあるのだろうけど、反応が薄い高遠に段々、腹が立ってくる。

「嫌味言われる私の身にもなってよ!もう恥ずかしくて死にそうだったんだからね!」

「………朝からそんな一人でカッカしなくたって」

 何気ない高遠の一言に、頭の中でブチっと音がした。

 本当にもう、この兄弟ときたら!

「あーそうですか、すみませんね!!……じゃあもう芽衣のことも、貴方には頼らない。私が直接椎名君に問い質してやるんだから」

「真琴――」

「私、先に行くからね。ネコ君のご飯と、後片付けよろしく!」

 そう言うと、ダイニングの椅子に掛けて置いたバッグを掴んで、私は高遠を置いてマンションを出た。

 早朝といえど、まだ夏の面影が残る9月の空気は、もわっとしていてうっとおしい。

 その苛立ちも加算され、踏み込む足の力は強い。

 どちらにしろ、私と高遠は一緒に通勤が出来ない。

 いくら校長と教頭に知られてるとはいえ、他の教師や生徒の目があるからだ。

 だからいつもは、高遠が先に出て、私がネコ君のご飯を用意したり、朝食の片付けをしてから学校に向かうのだけど、

 今日は怒りに任せ、彼に押し付けてしまった。

 高遠のヤツ、自分は弟とさほど係わらないからって、私の立場なんて気に掛けもしないんだから。

 それに……高遠も椎名君も、芽衣の気持ちなんて考えないんだろうか?

 繊細な芽衣のことだ。もしかしたら、酷く落ち込んでいるかもしれない。

「……芽衣。大丈夫かな」

 一度悲観モードに入ったら、思い込みの強い芽衣のことだ。自分で自分を追い詰めたりしてないといいんだけど……。

 閑静な住宅街を抜け、成陵のある通りに出る頃には、私は息を切らしていた。

 それだけ早足で来たということだろう――自分の短気さというか、直情さに自分で呆れてしまう。

 こういう部分がダメなんだよね、とか思っていると、通用門から中へ入っていこうとする見慣れた女性の後姿があった。

「芽衣!」

 見間違えるワケがない。私が声を掛けると、その女性はゆっくりと振り返った。

「あ、真琴ちゃん……お早う」

 彼女に追いつくように慌ててダッシュして、その肩を軽く叩くように手を乗せた。

「芽衣、昨日はあの――大丈夫だった?」

 挨拶もそっちのけでそう訊ねる。どんな風に声を掛けていいか解らなかったから、抽象的な言葉を選んでしまう。

「うん……あの、心配掛けてごめんね。メールも返さなくて、ごめんなさい」

 それでも芽衣には意図が通じたらしい。ただ、表情が憂色を帯びている。

 予測はしていたけれど、何も解決していないようだ。

「それは全然、気にしなくていいんだけど――椎名君たら今日の朝も、何も話してくれなくて」

「そうなの……」

 芽衣はふうっと辛そうにため息を吐いて、校舎の中へと促した。

 肩を並べて歩きながら、私は腹立たしげに、

「でも何かおかしいのよね。クラスメイトの女子のことは置いておいても、頑なすぎるっていうか、

絶対に口を割ろうとしないの。高遠も珍しいって言ってたよ」

「………」

「もしかしたら、特殊なバイトでもしてるのかなーっていう話もしたんだけど、そのセンも薄いみたいだし」

「バイト?」

 芽衣がその単語に興味を惹かれたらしく、聞き返してくる。

「うん、まぁ――例え話だけど、ホストとか、そういう言い辛いバイトしてるのかなーって」

「ホスト………」

 そう呟きながら、芽衣の瞳が怯えたように揺れた。

「いや、でも高遠はその可能性が低いって言ってたからさ。そういうことではないと思うよ」

「……うん」

 まるで事実のように受け止めた芽衣に、私が焦ってフォローを入れると、芽衣もハッとしたように頷いた。

 ただでさえ不安がってる芽衣に、余計な情報は入れないほうがよかったか……。

 内心でそんな反省をしつつ、職員用のシューズボックスでパンプスから内履きに履き替えていると、
 
「あの」

 と、何処からか声を掛けられる。

 隣に居た芽衣もその声の主を探すように折っていた身体を起こした。

「すみません、お訊ねしたいんですけど」

 そのクリアーで品のある声の主は、直ぐ後ろにいた。

 髪色は主張し過ぎない程度のブラウンで、パーマのかかったミディアムヘア。センターで分けた長めの前髪が大人っぽい。

 肉食女子とでも言うのだろうか、いかにも男性にチヤホヤされそうな、作りのハッキリした、気の強そうな顔立ちの美人。

 メイクは、ヌーディーに纏めているけれど、映えそうだからガッツリやったら高級クラブに居てもおかしくないだろう。

「あの……?」

 そんな美しい女性を目の前に、私も芽衣も反応がワンテンポ遅れてしまう。

「……あ、えっと、はい」

 慌てて私が応えた。

「校長室ってどちらでしょうか?」

「ああ、校長室なら1階の、ここの廊下をまっすぐ行った所にありますよ。プレートがあるので解ると思います」

「そうですか、どうも有難う御座います。助かりました」

 女性はふわりと艶っぽい笑みを浮かべ、会釈をすると、私の示した方へ歩いていった。

 高校備え付けのスリッパの音が遠のいていくのを聞きながら、私と芽衣も傍らにある階段を上る。

「何だか、凄く雰囲気がある美人さんだったね」

「うん」

 芽衣が素直に感想を洩らす。私も同感だ。

「見たこと無い人だけど、先生なのかな?」

「うーん……それはどうかなぁ」

 私は唸りながら首を傾げた。 

 紺色のピンストライプのスーツは、膝上丈のスカートに少しスリットが入っていて、なかなか、いや、結構セクシーだった。

 スーツの胸元も大きく開いていたし、教師としてその格好は如何なものか……なんて、私でさえ思ってしまう程に。

「でもPTAの人って感じでもなかったよね」

「そうだねー、親御さんにしては若すぎるかな」

 おそらく歳は私達より少し上か、変わらない位だろう。

 肌もキレイだったし、何より彼女の持つ艶やかな雰囲気が『グラマラスな女性』っていうイメージそのものだった

「でも、いいなぁ。憧れるなぁ……」

 教育現場にはむかないかもしれないけど、私は純粋にああいう女性になりたいと思った。

 今の私は直情的で、単純で、落ち着きが無くて――まだまだ大人の女性としては落第点なのだけど、

 彼女のようにもっとオンナっぽく振舞えれば、今朝の不毛な短気なんかも起こさないで済むと感じたから。

 ―――でも、まさかこの女性が、私と高遠の仲を脅威する存在になろうとは。

 この時は全く知る由もなかったのだった。