Scene.1-5
「お早う御座います、千葉先生、月島先生」
職員室の扉を開けると、癒し系ボイスの小宮先生がプリントの束を抱えていた。
「お早う御座います、小宮先生」
「お早う御座います」
私も芽衣も軽く頭を下げて朝の挨拶を済ませると、小宮先生は丁度良かったとばかりに、
「これを各先生方の机に回ってお渡ししてるところなんですよ。どうぞ」
と、その束から1部ずつ、私達に手渡してくれた。
「えーと、これって……?」
「修学旅行の資料です。月島先生は3年生の担任ですから勿論ですけど、千葉先生も養護補助として参加して頂くことになってますよね?」
そういえば――この間の職員会議でそんな話が出たような気がする。
この学校はつくづく変わっていて、修学旅行というイベントは2,3年合同、それも10月中旬に行われる。
そんなシステムはあまり聞いたことがなくて、何故2学年合同なのかを以前教頭先生に訊ねたら、
「2学年合同なら2年に1回の実施で済むでしょう?」
との回答が返ってきた。って、そりゃそうなんだけど……。
2年生はまだいいかもしれない。でも、名門校の受験生としては、正直旅行なんてしてる場合ではないんじゃないか?とも思ったりする。
それでも特に生徒側から不満が出ていないのを見ると、問題ないのかな。
生徒の椎名君は当然として、芽衣は3−Cの担任だし、高遠も2−Aの担任だから、私だけ仲間外れで寂しいなぁと感じていたところに、
偶然、引率の件が回ってきたというワケ。
何せ2学年に跨る大旅行だということで、養護名目の教員が何人か必要になる。ラッキーな話だった。
「時間のある時で結構ですので、お読みくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「どうもありがとうございます」
小宮先生は私達にそう笑いかけた後、まだ行き渡っていない教員のもとへ、同様に配布しに行った。
まだホームルームの開始時間まで30分位はある。
なので、疎らに出勤してくる職員を見つけては資料を渡す小宮先生のはとても忙しそうだ。3年の学年主任って大変だな。
「修学旅行かー……懐かしいなー。私達は関西方面だったっけね」
自分のデスクに向かいつつ、バッグを椅子の背もたれに下ろす。
そして、「後で確認すればいいか」と手にしたプリントを一番上の抽斗に仕舞って、高校時代に思いを馳せた。
「ね。私達は高校2年生の時だったかなあ。真琴ちゃんったら、シカせんべいを鹿にあげないで自分で食べたりして」
「え、そうだっけ?」
「そうだよ。で、お腹を空かせた鹿に追いかけられたりしてたじゃない?」
「う……そうだったかも……」
芽衣に突かれて、昔の記憶の扉が開いた。私ってば、高校生の癖にそんなしょうもないことをやらかしてたとは……。
「め、芽衣だって舞妓さんと写真が撮りたい!って、散々祇園をウロウロして、結局会えなくて泣きそうだったじゃない」
「え、そうだったかな……」
私が、思い出しついでに得た情報を指摘すると、少しだけ頬を赤らめて首を傾げる。心当たりがあるのだろう。
「……でも何だかんだで、やっぱりいい思い出になったよね」
「うん、学生時代の旅行って、後から思い出すと若かったなーって思うこともあるけど、でも行ってよかったって思えるもんね」
「それがまさか、私達が引率する側になるなんて、不思議な感じだね」
芽衣の言葉に同感だ。学校関係のイベント全てに思うことだけど、
今まで生徒側に立っていたものが、教師側で体験してみると色々と考えさせられることがあり、
いつまでも自分達が楽しむっていうんじゃダメだよなぁ、と思う。
「私も真琴ちゃんと一緒で、修学旅行は初めてだから……不安だけど、高遠先生と真琴ちゃんも一緒だから、何とか頑張れそう」
そこに椎名君の名前が出ないことを突っ込みたかったのだけど、自重した。
芽衣もいっぱいいっぱいなのだから、逐一そうやって芽衣の気持ちを揺さぶるのは可哀想だと思うし。
「うん、大丈夫。芽衣は3年の担任立派に務めてるじゃない。だから、旅行だって心配することないよ」
「ありがとう、真琴ちゃん」
芽衣が少しホッとしたような笑顔を見せたとき、扉の音と共に、朝のケンカの相手が入ってくるのが視界に入った。
「――あ、高遠先生、お早う御座います」
「お早う御座います、小宮先生」
「すみません、いきなり何なのですけれども、今度の修学旅行の―――」
目で追ってみると、高遠も修学旅行の資料を受け取ったようだ。
紺のスーツに、青系マルチストライプのネクタイ。それに、トレードマークのノンフレームの眼鏡。
朝の姿とは一転、いつもの『信頼できる高遠先生』として出勤してきた高遠の姿を見て、やっぱり良い子って凄い。と思わずにいられない。
「それと高遠先生。例の化学科の非常勤の先生についてなんですけど」
「はい」
「今日、挨拶にいらっしゃるそうです。勤務に当たるのは来週の頭からだそうなのですが、よろしくお願いしますね」
「解りました。わざわざ有難う御座います」
―――化学科の非常勤? 高遠、そんなこと言ってたっけ?
「新しい先生が入るのかな?」
芽衣も彼らの会話をさりげなく追っていたらしく、私の耳元でそう訊ねてくる?
「さぁ……?」
と素直に答えて、私は高遠のデスクに向かった。芽衣も私の後ろをついてくる。
「お早う御座います、高遠先生」
にっこり、と極上の笑顔を作りながら、デスクでバッグの中を整理しているらしい彼へと、空々しくも話しかけた。
学校で会話するときはお互いに丁寧語――そんなルールを作っている。理由は1つだけ、私達の関係を悟られないためだ。
「お早う御座います、千葉先生」
作り笑顔なら高遠も負けない。他の先生方に振りまくような篤実な微笑を浮かべて、他人然とした挨拶をする。
「高遠先生、お早う御座います。あの、昨日はお邪魔したのに、突然帰ってしまってすみません」
芽衣は昨日のことが心に引っかかっていたのだろう。周囲に聞こえないよう声を潜めつつも、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、お気になさらず。それよりも、ウチの馬鹿な弟が失礼しました。申し訳ない。次はもう少しちゃんと話をします」
私が朝、少し彼を責めたことが効果あったのか、高遠は目を伏せて頭を下げた。
そうそう、そうやって素直に聞いてくれればいいのだ。
「あ、いえ……あの、私の方こそ……」
高遠に謝られて恐縮した様子の芽衣が首を横に振る。
「それより高遠先生、化学科に新しい先生がいらっしゃるんですか?」
「ええ、どうやらそのようですね。僕も最近、聞いたばかりなんですけど」
私が訊くと、高遠は頷いて答えた。
「――それが、物凄い美人ってウワサですよ?先生方」
私達の会話を聞きつけたらしく、ハキハキした声音が間に割って入る。
振り返ると、Tシャツにジーンズスタイルから覗く、日に焼けた肌の色が健康的な男性が、其処に立っていた。
「川崎先生……お早う御座います」
口々に彼に挨拶を交わすと、芽衣が川崎先生の言葉に食いついた。
「美人――ってことは、化学科なのに、女性の先生なんですか?珍しいですね」
「そう、珍しいですね。何でも、ここ数年は海外に居たらしいですよ。英語ペラペラなんだそうです。
校長は、最初は英語の先生かと思ってたらしいですね」
「ふーん、そうなんですか」
川崎先生の話を聞きながら、私は今朝すれ違ったあの色っぽい女性を思い出していた。
あの人が化学科の非常勤講師?いや、でもまさかね―――。
彼女が化学科っていうのは、イメージ的に意外すぎる気もする。
それにあのスーツに、スリットの入ったスカート。そもそも教師にすら見えないっていうのに……。
考えながら、直ぐ後ろに居る川崎先生を見遣る。
「どうしたんですか?千葉先生」
私の視線を感じたのか、明るい笑顔で応える川崎先生。そうか――彼だって例外中の例外だったことを忘れていた。
マリンスポーツが好きな彼は、ほぼ一年中肌が焼けている。ファッションだってTシャツにジーンズというラフすぎる格好。
こんな川崎先生は、技術科でも保健体育でもなく、国語科の先生なのだ。しかもメインは古文。
これを意外と言わないワケにはいかない。
「いえ、川崎先生も最初お会いしたときは、国語科の先生って気付かなかったものですから」
私がクスクスと声を立てて笑いながらそう言うと、
「千葉先生……まぁ、よく言われますけどね。生徒にも、もっと教師らしくしろって」
と、苦い顔をする。
「川崎先生、その新しい化学科の先生って、何処の高校からいらっしゃるのかご存知ですか?」
今度は高遠が川崎先生に訊ねる。川崎先生は首の後ろを掻きながら、
「それが、俺も詳しいことはよく解らないんですよね。全部、さっき小宮先生に聞いた話ですから。
でも、今、校長とご挨拶されてるそうですし、そろそろ職員室に顔見せにいらっしゃるんじゃないでしょうか」
「そうですか……了解しました」
高遠は、ふうっと小さく息を吐きながら言った。
「あら、喜ばないんですか?高遠先生。美人と一緒に働けるっていうのに」
何だかおっくうな仕草を見せている高遠に、私は嫌味のつもりで言った。
「女性は苦手なんですよ――特に同じ科目となると、一緒に授業に当たることもあるでしょうから、嫌われないといいんですけどね」
「そんな、高遠先生なら好かれることはあっても、嫌われることはないですよ」
芽衣が言うととても説得力がある。どうやら高遠は珍しく不安がっているようだ。
表面的には社交的な良い子ちゃんの癖に、変なの。美人って聞いたからって、変に意識してるのかな?
……そう思うと、何か面白くない。
「そうですよー、ねえ?芽衣。高遠先生は優しいから、好かれ過ぎて困ることはあるかもしれないけどねー?」
「まぁまぁ、千葉先生、抑えて抑えて」
教師の中では唯一、芽衣のほかに私と高遠の関係に気付いているらしい川崎先生は、
私のささやかな嫉妬に気付いたらしく両手を振って制する。後で私と高遠が揉めないように気を遣ってくれているんだろう。
彼は本当に優しい同僚だ。
「そういえば、さっきシューズボックスの所で会った人も、凄く美人だったよね?」
「ああ――そうだね」
私が思い浮かべたけれど、敢えて話題に出さなかった人物について、芽衣が人差し指を立てながら言う。
「へぇ、そうなんですか?」
「校長室を探してたみたいなんですけど……やっぱりあの人なのかな……」
「ちなみに、どんな人だったんですか?」
川崎先生が興味深そうに訊いてくる。
「えーと、生徒の親御さんにしては若いねって話してたんですよ。多分、私達とさほど変わらないくらいで、
雰囲気があるっていうか、大人っぽくて目を惹く美人さんだったんです。スーツも、セクシー系で」
「でも、あんまり教師って感じの雰囲気じゃなかったんだよね」
主な説明は芽衣に任せて、私はついさっき目に焼き付けた彼女の姿を思い返した。
昼間の学校よりは、夜の繁華街が似合う――そんなイメージ。
「そんなに綺麗な方なら、お会いするのも楽しみな気がしてきました」
芽衣がちょっと興奮気味に話すのを、高遠は笑みを交えながら冗談っぽく返す。。
冗句を言う事で気分が晴れたのか、小宮先生から受け取ったプリントをパラパラと捲り始めた。
「それ、どういう意味!」と口を尖らせたくなった時、
「先生方、ちょっといいですか」
職員室の扉が開く音と共に、其処から招集をかける声が聞こえてきた。
その空間に居る教師が一斉に扉へと身体を向ける。扉の前には校長が居た。
「正式なご挨拶は来週、と思っているのですが、今いらっしゃる先生方だけでもお先にご紹介いたしますね。
さ、長谷川先生、中に入ってください」
校長が扉の外に向かってそう促すと、廊下から室内へ、女性のシルエットが足を踏み入れた。
「あ……!」
やっぱり、私の勘は外れていなかった。
華やかな顔立ち、何処と無く艶っぽい雰囲気。
つい先ほど、シューズボックスの前で会った、匂い立つような美しさを持つ女性。
長谷川先生と呼ばれたその女性が艶然と微笑んだ。
「皆さん、初めまして。長谷川彩(はせがわ あや)と申します。化学科の非常勤講師として働かせて頂くことになりました」
深々と頭を下げると、胸が開いたスーツから、インナーのキャミが覗く。
高遠のヤツ、よもやそんなところを凝視してるワケじゃないだろうな――と、彼の表情を窺ってみる。
………?
高遠の表情は、イヤラシいことを考えているどころか、凍り付いていた。
え、何? 怖いものでも見たような、予測もしない事態に陥ってしまったような――少し、怯えたようにも見える顔。
そんな高遠は初めてで、挨拶をする彼女ではなく、様子のおかしい彼の方へ気が行ってしまう。
「同じ化学科の高遠先生、長谷川先生は教師生活が初めてなようなので、色々と教えてあげてくださいね」
そんな高遠の変化に気付くワケもなく、校長が高遠を向いてそう促した。
「…………」
「た、高遠先生」
「あ―――」
目上の人間に反応することすら忘れている高遠。『良い子』である彼らしくない振る舞いは、やっぱりどう見ても変だ。
私が、肩を揺さぶると、我に返ったように目を瞬かせた。
と、長谷川先生がクスリと微笑む。そして、ゆっくり、ゆっくり、確かめるように距離を詰め――立ち尽くした私と高遠の直ぐ横までやってくる。
芽衣と川崎先生は、邪魔してはいけないという意識でも働いたのか、そうする必要もないのに数歩下がって見守っている。
雰囲気的にもその気持ちは解らなくない。妙な空気だった……思わず私も、高遠から距離を開けてしまったから。
「久しぶりね、怜……元気にしてた?」
至極嬉しそうな微笑を浮かべながら、事もあろうか――-。
長谷川先生は、呆然と彼女を見つめる高遠の頬に口付けた―――!
「なっ……!!」
職員室中が、シーンと静まり返る中、高遠の手に握られたプリントが、ぱらりと床へ落ちるのだけが鮮明に聞こえた。
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