Scene.2-1
「久しぶりね、怜……元気にしてた?」
再会の喜びからか、嬉しそうに目を細めた長谷川先生は、
そっと高遠の肩に触れ、背伸びをするような仕草で彼の頬に口付けた―――。
「なっ……!!」
私は叫びにならない叫びを発しながら、その様子を見ているしかなかった。
私だけじゃない。その時職員室に居合わせた者は皆、そうだったろう。
驚きのあまり、高遠が手にしていたプリントが床に乾いた音を立てて落ちる。
それに気付いた長谷川先生が、わざわざ身体を屈めてその紙を拾い上げると、硬直している高遠の目の前に差し出した。
「はい、落ちたわよ?」
邪気の無い、にっこりとした満面の笑み。
「…………アヤ」
微かな、誰も気がつかない程度の声音で、高遠が彼女の名を呼ぶ。
―――――アヤ。
その名前には聞き覚えがある。とても高遠と結びつきが深かったようなその名前。
記憶の抽斗を一斉に開けながら、私は頭の中で必死に『アヤ』という名を探した。
『アヤも怜と結婚するつもりだったんだ』
そして、その名前が意味する人物に当たったとき、私の胸にざわざわとした焦燥が走る。
いつだったか椎名君が話してくれた、高遠の元婚約者との悲しいエピソード。
結婚式の直前、高遠の前から姿を消した――その女性の名前が、アヤさん……!
じゃあ、この人が高遠の元カノ?
「そうよ、怜。何年ぶりかしらね、お互い顔を見て会話をするのは」
高遠が受け取らないプリントを彼の机の上に置きながら、僅かな声音を聞きつけ、長谷川先生――アヤさんは頷いた。
彼女の様子は至って普通。まるで、同窓会でクラスメイトに会った時のような、懐かしさでいっぱい、というような反応。
高遠のぎこちなさを考えると、昔の破談なんて全く気にしていないような彼女の振る舞いは、どういうことなんだろう?
「……驚きましたよ。あんまり綺麗になられたので、一瞬、誰だか判りませんでした」
「ふふ。ありがとう」
おそらく、高遠はやっとのことで紡いだのだろう。言葉は繕っていても、表情はまだ硬い。
それなのに、アヤさんはその賛辞を真っ直ぐに受け止め、満足そうにしている。
「高遠先生と長谷川先生は、お知り合いだったんですかね?」
そのアンバランスな空気を断ち切るように、校長が2人に訊ねる。
「はい。高校、大学時代の友人なんです。ね、怜?」
「……ええ」
笑顔を絶やさないまま答える彼女に促されれば、高遠も肯定するしかないのだろう。
もっとも、人一倍空気を読みたがる高遠だから、事実がどうであれ余計なことは言ったりしないだろうけど。
「ああ、そういうことだったんですね。そうですか……長谷川先生はつい最近まで海外で過ごされていたそうですね。
僕が言うのも何ですが、久しぶりの日本で慣れないこともあるかもしれませんから、公私共に教えて差し上げて下さいね」
校長のホッとしたような言葉と共に、奇妙に緊張していた職員室の空気がふっと解ける。
『海外に居た』――この情報で、周囲の教員は、アヤさんのキスが挨拶だったと解釈したんだろう。校長もそれを狙っての発言に違いない。
でも私は……私は彼女が高遠と最も関わりが深い人だったことを知っているから、
何か意味を持つキスだったのかも……なんて、うっすらと考えてしまう。
「そういうことなの。色々よろしくね?」
高遠の目を見つめながらそんなことを言う彼女。何が、『色々』なんだろうか。私も、『色々』邪推してしまう。
「僕でよければ、どうぞ」
校長や教員が居る手前、高遠は笑顔を作ってそう頷いた。でもそれはあまりに脆く、壊れてしまいそうで胸が痛んだ。
こんなに余裕の無い高遠は初めてだった―――。
「では長谷川先生、まだ諸手続きが残っていますので、引き続き校長室の方にお願いします」
「分かりました」
校長に導かれながら、彼女は最後まで表情を綻ばせたまま職員室を出て行ってしまった。
彼らが居なくなったことで、室内はまたあちらこちらから雑談が聞こえてくるようになる。
「………高遠先生、あの――」
「………」
私が声を掛けたけれど、彼はそれが耳に届いていないようだった。
「ま、真琴ちゃん……」
芽衣が、私の名を呼んで、高遠の様子がおかしい事を目で訴えてくる。
やっぱり芽衣も気付いたんだ――こんな高遠の姿は、やっぱり普段じゃ考えられない。
「本当に美人な先生でしたね。教員やってるのが勿体無いくらい――羨ましいな、高遠先生。お知り合いなんでしょう?」
川崎先生は、彼女と高遠の間に流れる異様な空気を感じなかったようだ。悪気なく、そんな話題を高遠に振る始末だ。
「…………ええ、まぁ」
高遠は、聞き取りやすい彼の声で我に返ったらしい。少しの間の後頷いてみせた。
「でも高校に大学、勤務先まで一緒っていうのも、面白いですね。人の縁ってわからないなあ」
「そうですね―――あぁ、そういえば、1限は実験でした。すみません、お先に失礼しますね」
「あ、はい、お疲れ様です」
もう応える気力も無かったのかもしれない。高遠は川崎先生の話を適当に流すと、テキストを抱えて逃げるように職員室を出て行った。
高遠……大丈夫かな。突然のことで、かなり狼狽しているのが窺える。
無理も無い。もう何年も前に終わったこととはいえ、言うなれば自分の愛情を裏切って消えた人間が、今になって目の前に現れるなんて。
その時ふっと、昨日高遠の部屋で目にしたマリッジリングを思い出す。
……ううん。アヤさんにとっては終わったことでも、高遠の中ではそうじゃないのかもしれないし――。
「あの、真琴ちゃん、私達も、授業……」
黙り込んでしまった私へ芽衣が控えめにそう切り出したので、
「……うん、今用意する」
彼らの事を思い浮かべてしまいながらも頷いて、自分のデスクへと戻ったのだった。
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「それじゃ、次回は出産のビデオを見るので、視聴覚室に集合して下さいね」
チャイムと共に1限目の授業を終わらせたものの、頭の中は高遠とアヤさんでいっぱいだった。
『久しぶりね、怜……元気にしてた?』
私にはアヤさんの感情が全く理解できなかった。
椎名君や高遠からの話しか聞いていないので、アヤさんと高遠の間にある細かい事情は分からないにしても、
結婚直前までいって破談になった相手なのだ。
2人の間に蟠りなんて無かったかのように、あんなに爽やかに――お日様みたいに微笑むようなことができるのだろうか。
高遠と付き合っている立場の私はなおさら、アヤさんに対して否定的な感情を持ってしまうのは仕方が無い。
「はぁ………」
心がモヤモヤして落ち着かない。
私は、次の時間が空きなこともあり、気分転換も兼ね中庭を通って職員室へ戻ることにした。
9月だというのに相変わらずムシムシとした気候が続いている。
今はまだ青々とした樹木が、あと1ヶ月ちょっとすれば徐々に赤みを帯びてくるのだろうか。
私の気持ちとは裏腹に、すっきりと晴れ渡った空を見上げながら、コの字型の校舎の真ん中を横断していると……。
「……あ」
中庭に並ぶベンチの一つで、私の心を苛ませる女性が携帯電話を操作している様子が目に入った。
メールでも打っているのかな。長くて白い足を組み、スカートの中が見えそうだ――何て無防備な。余程、集中しているらしい。
私が少し離れた場所から彼女に釘付けになっていると、気配を感じたらしい彼女がふっとこちらへ視線を向けた。
「あら」
にっこり。お決まりの艶やかな微笑みで私に会釈し、握っていた携帯をハンドバッグの中に仕舞いながら立ち上がった。
「ど、どうも……」
話しかけられてしまえば近づかないワケにはいかない。私も軽く頭を下げながら、ベンチの方へと歩いた。
「先ほどはどうも有難う御座いました。お陰で助かりました」
「いえ、そんな」
シューズボックス前でのことだろう。改めて頭を下げられたから、私は両手を振った。
「そういえば、貴女も教員の方なんですよね?職員室でお見掛けしたので」
「はい、あの――家庭科の、千葉真琴です。どうぞよろしくお願いします。」
「まあ、家庭科の先生なんですね。改めまして、長谷川彩です。実は私、この成陵高校出身なんですよ。母校に帰って来れて凄く嬉しいんです」
そうか――高遠と高校、大学が一緒ってことは……彼女も当然、成陵出身ってことになる。
「そうなんですか。高遠先生の――お友達、なんですよね?」
「ええ、そうなの。怜とはとっても気が合って、大学卒業まで仲良くして貰ってたわ」
……仲良く、か。どの程度仲良く、なのか。寧ろ仲良くっていう言葉に収まるような関係だったのかを問い質したい気持ちになったけど、
私はぐっと堪えて相槌を打った。
「あ、ねぇ?千葉先生、次の時間授業は?」
「いえ、次は空きなんです」
「そうなんですか。もし宜しければ、少し、話し相手になって下さらないかしら?次の予定まで時間があるものだから、暇で暇でしょうがないの」
ね?と上目遣いで訊ねられると、YESと言わなければいけない気がしてくる。
どうせ次の時間は何も無い。一人で居たって、高遠とアヤさんの関係についてアレコレと悩むだけだろう。
それならいっそ、アヤさんの人となりを知るためにも少し話してみるのは悪くないと思った。
「私でよければ」
快くそう言うと、アヤさんは両手を合わせる仕草をしながら、「ありがとう」と笑い、ベンチに座るよう私に促す。
彼女と2人、ベンチに腰掛けながら私が切り出した。
「長谷川先生は、海外にいらっしゃったそうですね?」
「ええ。大学を卒業してから、アメリカの、ロサンゼルスの大学院に留学したの」
「アメリカの院ですか?凄いですね」
「そうでもないわ。就職しないで勉強しようって娘を、親はあんまり良く思わなかったみたい」
「へぇ、そういうものですかね……」
彼女は元々お喋りなのか、日本の大学では理工学部に在籍していたということ、
そしてアメリカの大学院では生物化学を学んでいたこと等を教えてくれた。
「それで、院を出てから少しロスで働いてたんだけど、日本に帰りたい気持ちが強くなっちゃってね」
ホームシックってヤツかしら?と彼女が笑い、目に掛かる髪をベージュピンクの長い爪で掻き分ける。
「両親はきっと、早いところ結婚してほしいって思ってたんでしょうけどね」
「………」
結婚。その言葉を口にした彼女は、妙に遠い目をしていた。
私は数年前の破談を知っているから、余計にそう感じたのかもしれない。
「千葉先生はいくつなの?」
「え?」
「歳よ。今年で何歳?」
年齢って他人訊き辛いものだと思う。それなのに、アヤさんは躊躇うことなく訊ねてくる。
意外に、遠慮ない人なのかもしれない。
「えっと、今年で25になります」
「まだ20代前半か……羨ましいわ」
心底年齢を気にしているとでも言いたげに、彼女が大きくため息を吐いてみせた。
「それ位の歳って、一番女性として輝いてる時だものね。私も戻りたいわ」
「そんな、大して変わらないじゃないですか。それに、長谷川先生は輝きすぎて眩しいくらいですよ。美人だし、スタイルもいいし」
「本当?ありがとう」
彼女は満更でもなさそうに礼を言った。
「キレイな人に言われると嬉しいわね」
「いえ、私なんて、そんな」
「誉められたら素直に受け取っておけばいいのよ。謙遜は日本人のダメなところよね。貴女、モテるでしょう?」
「でも本当、モテるってワケじゃ無くて……」
実際、私はさほどモテる方じゃない。
深い付き合いじゃない人から告白されたことは何回かあり、川崎先生もその中に入る。
でも大抵の場合は私ではなく、私の外見からイメージする『架空の私』を気に入ってくれるだけなのだ。
本当の私は子供っぽかったり、感情が抑えられなかったり、落ち着きが無いところが多々あるから、
そこを許容してくれる人っていうのはなかなか居ない。そう考えると高遠は貴重だ。ありのままの私を好きでいてくれるのだから。
「今、彼氏はいる?」
おそらくアヤさんは何気なく質問したんだと思う。でも、私はどう答えるべきか考えてしまった。
彼女は私が高遠と付き合っていることは知らない筈だ。それに、仮に知っていたとしてもどうということもない。
彼女と高遠との関係は、とっくの昔に終わっているというのに。
「あ、いえ――あの、長谷川先生こそ、引く手数多っていうか、男の人が殺到しそうな感じですけど、彼氏はいらっしゃるんですか?」
「私?」
私が話を逸らしたとも感じずに、アヤさんは彼女自身を指差して首を傾げる。
「今は居ないわ。日本に帰ってくる前に別れちゃって」
ということは、元カレはアメリカ人?なんて、頭の片隅で考えていたけれど。
「けど――こっちで付き合えたらいいなって思う人は、いるの」
彼女の発したその言葉が、やけに重たく鼓膜にこびり付いた。
もしかしてそれは、高遠?なんていう不安が生じて、再び胸の奥がざわめくような感じがした。
「そ、そうなんですか。長谷川先生くらい素敵な人なら、きっと上手く行くんじゃないですかね」
「そうかな?個人的には、あまり自信がなかったりもするんだけど」
「……相手の人って、どんな人なんですか?」
少しでもそれが高遠である可能性を打ち消したくて、私は限りなくサラっとそう訊ねてみた。
「うーん………」
彼女は、恋愛をする女性特有の幸せそうな表情で、相手の男性を思い浮かべているようだった。
「素敵な人よ。頭が良くて、頼りがいがあって、ルックスもよくて、私には勿体無いくらいの人だわ」
「………」
「それにね、何よりも優しいの。そう――優しすぎるくらいにね」
何故だろう。最後のワンフレーズは、寧ろそれを良く思っていないみたいだった。
いやそれよりも――ダメだ。聞けば聞くほど、高遠の姿しか浮かんでこない。
「何だか、高遠先生みたいですね」
口に出そうか出すまいか、唇から零れる直前まで悩んだけれど、結局事実を確かめたいという欲に負けて言ってしまった。
「………」
アヤさんは笑んだまま答えようとしない。その代わり、
「怜は――高遠は、学校ではどんな感じなの?」
「え?どんな感じって……」
「大学時代から化学教師になりたいって言ってたものだから、夢が叶った今、どんな風に過ごしているのか気になって」
「………素敵な先生ですよ。まだ若いのに、2年生の学年主任を務めてらっしゃいますし。他の教師や生徒からの信頼も厚くて」
「そう。じゃあ上手くやってるのね。よかった」
安心した、とばかりに胸を撫で下ろす仕草をすると、彼女はゆっくりと腰を上げた。
「ごめんなさいね、長々と付き合わせちゃって。千葉先生もお忙しいのに」
「い、いえ――」
「実は教員免許を取ってから、教卓に立ったことはないんだけど……此処の先生方は皆若くて、気の良さそうな人たちばかりで働きやすそうだわ。
私、久しぶりの日本で、分からないこともあるかもしれないけど、どうぞよろしくね?」
「はい、勿論、こちらこそ」
言いながら、私は立ち上がって頭を下げた。
「教師としては私の方が後輩なんだから、そんな風に気を使わないで。あと、言葉遣いも堅苦しいのは苦手なの。
向こうは、そういうのなかったから肩凝っちゃって――次はもっと、気軽に接して欲しいわ」
彼女がフランクな言葉遣いになりがちなのは、向こうでの生活の所為だろう。
数年間のアメリカ生活で、すっかりそっちでの作法が身についてしまったということか。
「じゃあね、千葉先生」
彼女はひらりと手を振って、校舎内へと戻っていく。シューズボックスへと向かうのだろう。
私はしなやかで端麗な後姿を、その影が中庭から消えるまで見送った。
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