Scene.2-2




「じゃあ、長谷川先生って、昔、高遠先生の彼女だった人なの?」

「うん。そうみたいなんだけど……」

 昼休みの定番は、職員室でお弁当――だったのだけど、

 どうしてもアヤさんのことを話したかった私は、誰もやってこないだろう被服室に芽衣を誘った。

 芽衣も芽衣で高遠の事を気にしていたらしく、特に嫌がることなく付いて来てくれた。流石は私の親友だ。

「なーんか色々腑に落ちなくて、さ」

「うーん……確かに、長谷川先生と高遠先生って、美男美女なんだけどイメージが合わないっていうか……」

 芽衣はお茶の入った小ぶりのペットボトルを卓上に置き、ランチボックスを開けつつ考え込むような仕草をする。

 言われてみれば、纏っている空気は似ていない。

 学校公認の『良い子』である高遠に対して、長谷川先生は少し話しただけでも自由奔放な人柄が伝わって来た。

 他人からの評価を気にするタイプと、気にならないタイプ。そういう意味で言えば、二人は正反対だ。

「勿論それもあるんだけどね……」

「他に何かあるの?」

「うん、実はさ、高遠って昔、アヤさんに結婚直前で逃げられてるんだよね」

「え!?」

 驚きのあまりなのか、芽衣は珍しく大きな声を上げた。

「結婚直前って……高遠先生と長谷川先生、結婚しようとしてたってこと?」

「うん。式の一週間前ってところだったらしいんだけど」

「………」

 芽衣は目を瞠り、言葉を無くしていた。

 私だって最初聞いたときは、悪い冗談?って思ったくらいだから、仕方が無いだろう。

 正直、全然現実味の無い話だ。

「つまり何が言いたいかって言うとね。二人が別れた後、初めて会ったのが今日の職員室だったんだと思うけど、

アヤさんの反応、あんまりにも明るくないかなぁ、と」

「……そ、そうだね。私は普通に、仲の良い友達の一人かなって思ったもん。それくらい、自然だった」

 やっぱりそうか。芽衣の感想を聞いて、私は机にベタっと片方の頬を付けるように突っ伏した。

「アヤさんの反応さ、絶対変だと思うんだよね。私だったら、そんな悲惨な別れ方した相手に、笑顔で堂々と『久しぶり!』なんて言えないよ……」

「うん。高遠先生の気持ちを考えたら難しいし、それに、相手に対する罪悪感とかもあると思うから、

時間が経ったからって何も無かったようには出来ないよね」

 漸くランチボックスの中身と対面できた芽衣が、スプーンを取り出しつつ、ふと思い出したように、

「そういえば真琴ちゃん、お昼は?」

 と訊ねる。私が持参したのは、飲みかけたレモンティーのペットボトルだけだ。

「今日、朝慌しくて。用意できなかったからカフェテリアで買おうかと思ったんだけど――そんな気分でも無くなっちゃってね」

 高遠やアヤさんのことを考えると、食欲なんて後回しになってしまう。

 わざと力なく笑って見せると、芽衣が心配そうに眉を下げる。

「えぇ……?ちゃんと食べなきゃ身体に悪いよ」

「一日くらい大丈夫。芽衣は気にしないで食べて? その間、私に喋らせてくれたら気が済むから」

 とにかく、彼女の事を誰かに話したくて仕方が無かった。

 私を気遣う優しい彼女ともう一往復くらい同じ応酬をしてから、私はさっきアヤさんと中庭で会ったことに触れた。

 芽衣は、スローペースでお弁当のオムライスを口に運びながら、その話に相槌を打って聞いてくれる。

「長谷川先生って才女だったんだね。こんな言い方したら失礼かもしれないけど、意外だなあって思っちゃった」

「わかる。だよねぇ……あの外見なのに、中身はガッツリ勉強熱心なタイプみたい。

まぁ成陵から名門大学の理工へっていう学歴だけ見たって明確なんだけどね」

 アヤさんの出身大学は、高遠の出身大学でもある。

 以前高遠から何かのついでに、大学の話を聞いたことがあった。

 彼の事、首尾よくやってるだろうとは思っていたから驚かなかったけど、勿論、誰もが知ってる名門私立大学だった。

 ……天は二物も三物も与えるんだな、と悪態はついてやったけど。

「それで、大学卒業してからロサンゼルスにある大学院に行ったのね」

「そう。その院を無事卒業して、就職したみたいなんだけど、寂しくなって日本に帰って来たってワケ。ああ、それに……」

「それに?」

「……日本で付き合いたい人がいるって話もしてたから、その人に会うためっていうのも理由の一つなのかも」

「日本で付き合いたい人――つまり好きな人ってこと?」

「そういうことじゃないかな」

「そっか……」

 私は脱力したように机へ預けていた身体を起こして、盛大にため息を吐いてから、今一番気に掛かっていることを口にした。

「芽衣、私ね……勘なんだけど、それが高遠なんじゃないかなって気がしてる」

「高遠先生?」

 私の予想は芽衣にとって、思ってもみないことだったらしい。

 わざわざスプーンを止めて聞き返していたから。

「どうして? だって、高遠先生の前からいなくなったのは長谷川先生の方でしょう?

だとしたら、長谷川先生の心変わりが理由で、高遠先生と別れたんじゃないの?」

 その意見はもっともだ。普通、自分がこっ酷く振った彼氏と復縁したい――なんて考える女性が居るとは思えない。

 でも、理屈じゃない。説明できないけど、そんな気がしてしまうのだ。

「……そうだけど、アヤさんの高遠への接し方を見て、上手く言えないけどそう思っちゃったの」

 高遠を見つけた時の、アヤさんのあの顔。

 とても嬉しそうだった――数年前、酷い別れ方をしたなんて思えない位に。

 それに、彼女は『付き合いたい人って、高遠先生みたいですね?』っていう問いかけにも答えなかった。

 本当にただの友人関係って思っているなら、誤解されるのも嫌だろうから『違う』って言ったっていいのに。

「考えすぎだと思うけどなぁ……あれ、じゃあ、長谷川先生って今は誰かと付き合ったりはしてないの?」

「ロスにいたときは居たみたいだけど、帰ってくる時に別れたって」

 もしかしたらアメリカ人だったかも、なんて投げやりな冗談を交ぜると、芽衣は小さく笑った。

「でもさー……別れてまで帰ってくるってことは、もしかしたら、日本にいる、その好きな人へ対する気持ちが強いのかなー、とか」

 よく言うじゃない?別れてから相手の大切さが分かるとかって。

 私はそんな恋愛をしたことが無いけど、そういう人が居たっておかしくない。

 彼女は――アヤさんは、高遠を取り戻しに日本へ帰って来たんじゃないか、という考えが、なかなか頭を離れてくれない。

「真琴ちゃん、まだアヤさんの好きな人が高遠先生って確定したワケじゃないんでしょう?」

 だんだん暴走していく私の思考を感じ取ったのか、芽衣が宥めるように言う。

「そうだけど……限りなく黒に近いグレーじゃないかなあ」

「真琴ちゃんはそう感じるのかもしれないけど、話だけ聞いている私は、そんな風には思わないよ」

「そうかなぁ……」

 不安げに落ちていく声音の私に、芽衣が近くに置いたお茶を一口含んでから、

「結婚式の一週間前に、周りも吃驚するような別れ方をしてるんだよ?

長谷川先生は、そんな方法を取らなきゃいけないほど高遠先生と別れたかったってことだよね」

「うん、多分……」

「そこまでした相手ともう一度付き合いたいとか、好きっていう気持ちが湧いてくるとは――私は思えないな」

「………」

 彼女の冷静な意見を聞くと、そうだよね、とも思えるのだ。思えるんだけど……。

 根拠なんか無い。はっきりした理由も無い。過剰反応してるだけかもしれない。

 それでも―――私の本能が警笛を鳴らしている。

 アヤさんを高遠に近付けてはいけない、と。

「とにかく、様子を見た方がいいんじゃないかな。高遠先生とも、話してみたらいいと思う」

 芽衣はそう言うと、まだ半分も食べてないランチに蓋をしてしまう。

「うん、そうする――ていうか芽衣、もう食べないの?」

「私も、あまり食欲ないの。でも、お母さんが作ってくれたから、持っていかないっていうのも出来なくて」

「芽衣……」

 そうか。今日は自分のことで頭がいっぱいだったから、あまり彼女を思いやってあげられなかったけど……。

 芽衣は芽衣で、椎名君のことが気になって仕方ない筈だ。

「ごめんね、私、自分のことばっかりで……。芽衣だって、気を揉んでるのに」

「ううん、そんなことないよ。私も高遠先生の様子、どうしたのかなって思ってたから」

 芽衣はゆっくりと首を横に振って、ランチボックスを片付けながらそう笑った。
 
「昨日から今日にかけて、椎名君、何か言ってきたりしたの?」

「……ううん」

 芽衣はもう一度、首を横に振った。そして、酷く寂しげな瞳で、

「椎名君、もう私のこと、本当にどうでもよくなっちゃったのかもしれない」

 と呟いた。無理に笑おうとしている表情が痛々しい。

「何も言ってくれないんだもん。私も、どうしていいのかわからないし」

「芽衣……」

「だからもう、私のことはいいの。真琴ちゃん、また何でも相談してね? 高遠先生と真琴ちゃんには上手くいって欲しいから」

 まるでもう自分達はダメみたいな言い方だ。

 芽衣がそう思い込んでいるだけの可能性もあるけど、今の状況じゃ椎名君の気持ちが変わったと勘違いするのも無理は無い。

「私だって、芽衣と椎名君には上手くいって欲しいよ。私も、出来ることあったらするからね」

「……ありがとう」

 私達は互いにそう慰め合いながら、午後の授業へと気持ちを切り替えたのだった。

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「お疲れ様です、お先に失礼します」

「あ、お疲れ様です」

 デスクの近くを通りかかった先生に挨拶を返しながら、私は椅子の上でぼんやりと、ひたすら時間が経つのを待っていた。

 6限の授業が終わると、職員室の人口は一気に減る。

 ホント、ここの先生方はプライベートが忙しいと見えて、仕事が済むと一目散に帰っていってしまうのだ。金曜の夜ともなればなおさらだ。

 私もそんな風に帰ってしまってもいいんだけど――。

 ちらりと視線を部屋の廊下側へ向ける。其処には、自分のデスクで実験レポートのチェックをしている高遠の姿があった。

 サッカー部の顧問は大変だ。週のほとんどは練習が済むまで残ってなければいけない。

 でも、今日は私も彼の仕事が終わるまで、此処で待っているつもりだ。

「珍しいな」

 何クラス分だろう。そのレポートが山のように積んであるデスクから、会話が投げられる。

 直接顔が見える角度ではないけど、呼吸や声の調子なんかで感情は伝わる範囲。

「何が」

 私も椅子から動かないままに、声だけ彼の居る方へ飛ばして応える。

 今、この空間には私と高遠しかいない。だから、彼も気を抜いて、オウチモードで話しかけてくる。

「今日はサッカー部の練習が終わるまで待ってる、なんて」

「……いいじゃない、別に」

 いつもだったら、他の先生や生徒の目があるから、何処か外で時間を潰したりするんだけど、

 今日は何がなんでも高遠を待って、高遠と一緒に帰りたい気分だった。

 それで、アヤさんのことや、アヤさんのことや、アヤさんのこと――あぁ、結局アヤさんのことだけど、

 とにかく高遠がアヤさんのことをどう思っているのかを、直接聞いておきたかったから。

「妙な気まぐれだな。結構、待つことになると思うけど」

「別にそれはいいの。わかってるから」

 高遠は、そんな私の気持ちに感付いているのかいないのか。それとも自分の動揺を隠すことに精一杯なのか。

 それ以上訝しがることも言われなかった。

 アヤさんと数年ぶりに再会しただろう今日の朝、彼が強く戸惑う様子を見せたのは明らかだ。

 でも、5、6時限目の共同授業――例の、私と高遠が一緒に持ってる授業のことだ――の時には、

 すっかり普段どおりの彼に戻っていた。

 今朝のショッキングな出来事なんて忘れたかのようで、私が拍子抜けしてしまったほどだ。

 けど甘い。普通の人ならそれで誤魔化せるかもしれないけど、私は高遠の表も裏も知ってる希少な人間。

 良い子ぶりっこな高遠は、そうやって取り繕うことを身体で覚えてしまっている可能性がある。

 あれだけ動揺していた癖に、実は何でもありませんでしたなんて方がおかしいのに。

 ……私は高遠の彼女なんだから、私には思ってることを話して欲しい。

 そう願うのは、罪じゃないはずだ。

 あんな痛々しい姿の彼を見ているのは、私も辛い。

「あの、さ」

「どうかした?」

 聞き出すなら今がチャンスかもしれないと思った。

 こういうデリケートな話題って、いきなり顔を合わせてするのは勇気が要る。

 距離が開いていた方が、息が詰まらない分、高遠も思っていることを曝け出してくれそうな気がした。

 幸い今は誰もいないから、私的な話をしたって問題ないし……。

「えっと、長谷川先生のことなんだけど……」

「―――ああ」

「長谷川先生って、下の名前、アヤさんだよね?」

「……そうだけど」

 高遠の声が若干不機嫌になった気がする。それでも怯まずに、私は続けた。

「昨日、部屋にあったマリッジリング……長谷川先生のものになる予定だったんでしょ?」

「………」

 レポートを添削するサインペンのサラサラとした音が不定期に聞こえてくるけれど、直ぐには返事が帰ってこなかった。

「実はね、言ってなかったかもしれないけど……私、椎名君に、アヤさんとのこと、一通り聞いてるの」

「彩とのことを?」

 説明を求めるような口調で訊ねられ、私は更に、

「そう。アヤさんと貴方が付き合ってたこと。結婚しようとしたこと。それに――式の直前に貴方の前から姿を消したこと。

結婚の話がダメになってしまったこと……全部、1学期のうちに聞いてたのよ」

 高遠は普段から、弱みを見せようとしないばかりか、自分の事をあまり話したがらない。

 だから私の方から、彼の過去やパーソナリティについて詳しく追及することは、一度も無かった。

 アヤさんとのことだって、ゴールデンウィークの泊まりの件で椎名君と揉めたりしなければ、耳にすることもなかっただろう。

 椎名君も決してお喋りなタイプではないし、何より、無闇にそうされるのを高遠自身が嫌がるだろうことを、

 弟である彼は判っているんじゃないか。

「アイツ、余計なことを喋って……」

「余計なことなんかじゃない。大事なことだよ」

 呆れたような嘆息に、私はつい、ムキになって返した。

「アヤさんとは7年間も付き合ってたって聞いてる。結構モテたのに、その間はアヤさんだけを見てたってことも」

「俺は、二股掛ける気力なんて持ち合わせてないだけだよ」

 変に話を逸らそうとする高遠に苛付きながら、彼から見えもしないのにかぶりを振った。

「そういうことを言いたいんじゃないの。7年間も同じ人を好きで居られるって、私はやっぱり凄い事だと思う。だから結婚を決めたんでしょ?」

「………」

「そんなに好きだった人が再び目の前に現れたら、その……心が動いたりしないのかな、とか思ったワケで」

「嫉妬?」

「え?」

 高遠は作業を止めないまま、普段の冗句のように私を軽く揶揄する。

 ただでさえまともに取り合ってもらえない感じがしていたから、彼のそのノリが段々腹立たしく感じ、

 元々張り詰め気味な頭の神経がプツっと切れそうになる。

「私は真面目に話してるの! ちゃんと聞いてよ」

「……ごめん。そんなに怒るとは思わなかったから」

 高遠は可笑しそうに声を立てて笑っている。それが更にムカついて、大きな声を上げてしまいそうになるのを理性で制した。

 だめだ。これじゃ朝の繰り返しじゃないか。通勤の時に反省したばかりなのに。

 私は気持ちを落ち着けるため一度深呼吸をしてから、少し声を張って言った。

「――怒りたいワケじゃない。ただ心配なの」

「心配って、どうして」
 
「言わなくたって分かるでしょ?」

「………」

「今日、アヤさんと顔を合わせた時、凄く……驚いてたみたいだったから」

 まさか無自覚だとは言わせない。今まで彼の余所行き顔が崩れかけたことなんて一度もなかったのに。

「驚くに決まってるだろう。昔、一方的に縁を切られた相手が、何の前触れも無く現れた上に『友人です』なんて言われたら、真琴ならどう思う?」

「……それは、やっぱり複雑、だけど」

「驚くなと言う方が無理な話だ」

 高遠の言うとおりだ。そんな経験は勿論したことがないけど、きっと驚いて、気が動転してしまうに違いない。

 でも、私が話したいのはそういうことじゃなく、その先の話だ。

「……驚いただけ、なの?」

「どういう意味?」

 出来るだけ冷静に問おうと、私は意識して硬い声を作った。

「私には、貴方が驚いてるっていうより――怯えてるみたいに見えたの。アヤさんの顔を見て、心が乱れたように見えた」

 私がそう言うと、耳にくすぐったいようなペンの摩擦音が止んだ。

 ――図星、なんだろうか。

「だから、心配なの。貴方が……傷ついたんじゃないかって」

「………」

「それにね、色々考えちゃうの。貴方がまだアヤさんのことを想ってるんじゃないかとか、

今じゃなくても、そのうちアヤさんに気持ちが移っちゃうんじゃないかとか……」

「………」

 どうして応えてくれないんだろう。

 いつもなら、「都合悪いからってまた黙るの!?」なんて訊いたりできるけど――。

 今は彼の気持ちを聞き出すのが恐ろしい気がして、訊けないよ……。

「………」

「………」

 やっぱり反応はない。

 私からまた何か言った方がいいかも、と思うものの、彼の本心を聞くのが怖いという気持ちと、

 考え無しに発した言葉が彼にとっての地雷で、余計黙らせることになったら困るという思いが、それを阻んだ。

 そうして……彼も私も、お互いに無言を貫き、その重苦しい空気に耐えられなくなってきた時、

 きっちり3回、職員室の扉をノックする音が聞こえた。

「……はい、どうぞ」

 誰かが職員室にやってきたということだ。私は高遠の彼女から教師に戻り、扉の外に聞こえるように告げた。

「失礼します、高遠先生っていらっしゃいますか?」

 扉を開けたのは男子生徒――おそらくユニフォームからして、サッカー部の子だろう。

 その声は勿論、廊下側のデスクにいる彼にも聞こえており、立ち上がりながら、

「ああ、鍵ですね。今行きますから待っててください」

「ありがとうございます」

 室内からそう告げると、律儀にも男子生徒は頭を下げて廊下を引き返していった。

 もう練習が終わる時間帯だったんだ。高遠と真面目な話をして神経を使っていた所為か、時間の流れの速さに戸惑った。

 確認するために窓を向く――そういえば外も暗くなってきたな。

 蛍光灯の明かりで全然気が付かなかったけど、もうすっかり夜と呼べる時刻だ。

「……部室に行って来るよ。もう少し此処で待ってて」

「――わかった」

 私は素直にそう頷くと、彼が廊下に出て行くのを見送りつつ、その姿が普段と変わらないものであることをちぐはぐに感じていた。





「――じゃあ、そっち乗って」

「うん」

 高遠は通用門に出した車の窓から、私を助手席に促す。

 彼の家は成陵に近いはずなんだけど、朝、間に合わないとでも思ったのか、わざわざ車を出したらしい。

 普段、学校の後デートをする時にはそんな日もあるけれど、今日は別段そういう話があったワケでもないから、きっと。

 助手席に座って、私がシートベルトを締めたことを確認すると、高遠は早速発進しようとする。

「ちょっと待って」

 それを制すると、彼は不思議そうに首を傾げた。

「あのね、さっきの話なんだけど、中途半端なところで終わっちゃったから……」

「………」

「――アヤさんのこともそうなんだけど、貴方が考えてる事とか、思ってることを話して欲しいって思うのは、いけないことかな?」

「………」

 高遠は相変わらず、この話題になると相槌すら打つ気配はない。

 いや、そもそもちゃんと聞いているのかさえ不安になる反応だ。

 それでも私はメゲずに続けた。

「貴方があんまり自分の事を話すのが好きじゃないのも知ってる。でも、私、貴方の恋人でしょ?」

「………」

「……私には、貴方の話を聞いたりすることしかできないけど、できることなら何でもしてあげたいと思う」

「………」

「だからね、もし辛いなら……何でも言って。それだけ」

 今日はまだ突然のことで、アヤさんのことを言いたがらないというなら、無理強いするつもりはない。

 それならそれで気持ちを整理した後、少しでも私を頼ってもらえるような言葉を掛けたつもりだった。

 と、私の言葉を聞き届けたらしい高遠が、車を急発進させる。

 それも、彼のマンションが有る方向じゃない。繁華街方面にハンドルを切った。

「……ちょ、ちょっと……動かすなら動かすで、一言っ……」

 変だな、とは思ったけど、食事にでも行くつもりなのかと別段指摘することもなく、

 運転が乱暴であることだけを非難した――のだけど。

「―――だろう?」

「え?」

 運転のためか、高遠は真っ直ぐ前を見据えながら何かを訊ねた。

 聞き取れなかった私が訪ね返す。

「『できることなら何でもしてあげたい』……だろう?」

「え、あ……うん」

 その言葉に嘘偽りはない。私の本心だからだ。

 でも――高遠の、淡々とした無機質な声音にゾクリと寒気がした。


「だったら、真琴の望みどおりにしてもらうよ」

 
 言いながら、彼は静かに笑った。 

 ……知ってる。私はこの表情を知っている。

 天使のような仮面の下に隠れた、悪魔の笑顔。

 ほんの数ヶ月前に否応無く覚えたその顔を、忘れるはずが無かった――。