Scene.2-3




 私は理由も分からないまま、スプリングの利いたベッドの上に放り出されていた。

「ちょっと、ど、どういうつもりっ――」

「好きだよ、真琴。愛してる」

 答えになっていない愛の言葉は、限りなくフラットな声音。

 普段、そういう甘いフレーズを気安く口にしない彼なのに……何かが変だ。

 何かがおかしい。


 
『だったら、真琴の望みどおりにしてもらうよ』


 彼はそう言うと、メイン通りから外れた、ネオンだけが煌くホテル街に車を入れた。

 そして今、その中の一つに押し込められるように連れて来られたワケなんだけど―――。

 高遠は上着を脱ぎ捨てると、ブルーのネクタイの結び目を緩めながらベッドに乗り、私の身体に覆い被さってくる。

「真琴がそんなに俺を気遣ってくれるなら、甘えさせて貰おうと思って」

 しゅるり……と、布擦れの音がして、彼の襟元からネクタイが外れた。 

「わ、私、別にそういうつもりで言ったんじゃ……」

「『何でもしてあげたい』って言ったろう? 今更だ」

「きゃ―――」

 そう薄く笑いながら、彼は無防備な私の両手首を掴み、頭の上で組まされると、あっという間にネクタイで縛り上げてしまう。

 ――手首に巻きつくネクタイ。それは、私が彼の援助交際を見つけた『あの日』のことを思い出させた。

 彼はあの時もこんな風に私の自由を奪って、私を辱めたのだった。

 でも今は違う。今の私たちは対等な立場な筈。

 何よりも以前と違うのは、私と高遠は愛し合っているということ。

 それなのに―――。

「いい格好だな」

「やだ、こんなっ、何で……」

 両手の自由が利かなくなった私は、替わりに首を振りながら目の前の彼に訴えた。

 その視線に気付かない振りをしながら、私のスーツやシャツのボタンを一つ、二つと外していく。

 まさか高遠、このまま……?

「ね、ねぇ。シャワーとかまだだし! せめて浴びて来たいなー、とか」

 私は、変に緊張したこの雰囲気を崩すように、わざと茶化したような口調で言ってみせる。

「必要ないよ。直ぐに真琴が欲しい」

「そ、そんなことっ……」

 出会ったばかりの頃はともかく、付き合い始めてからは必ずそういう時間をくれたのに、

 そんな暇も惜しいとばかりに私を求めてくる。

 高遠ったら、何をそんなに焦っているんだろう?

「や、やっぱり、私、シャワーを―――」

「必要ないって言ったろう?」

「んぁ―――……」

 まるで私を黙らせるように、拘束した手首を強く押さえながら、私の耳朶に口付けてくる彼。

 もともと触れられるだけでも反応してしまう部分だから、啄ばんだり舐められたりされると、大きく身体が跳ねてしまう。

「ん、ぁあっ――ふ、あっ……」

 ダメ、頭の神経を直接、愛撫されてるようで、全然力が入らない。

 少しでも抵抗しようと手首に込めていた力は、あっさりと抜けてしまった。

「耳、凄く弱いんだったよな」

「ん――ぁ、あ」

 合間の、からかうような囁きでさえ、蜂蜜みたいに甘い刺激となって快楽に変換される。

 ダウン照明の薄暗い室内。私はびくびくと身体を震わせながら、ふと壁際を見遣った。

 壁……じゃない。見え辛くてよく判らなかったけど、これは鏡だ。

 ベッドに接している部分は全てそういう仕様になっていて、直ぐ隣に、私をベッドに押さえつける彼の姿が映っていた。

 勿論、切なげに眉根を寄せる私の姿も。

 そう意識したら、急に身体の内側から熱いものが溢れてくるような感覚に囚われた。

 いつもと違う場所、いつもと違う彼。

 ――だから、だろうか。

「真琴、もう興奮してる……? まだ触ってないのに、此処――ぐちゃぐちゃだ」

「……ぁあ、あ」

 いつの間にか片手をスカートの中に滑り込ませていた高遠が、下着越しに秘裂に触れ、言った。

 彼の言うとおり私のそこは、期待によって溢れた液体で濡れそぼっていた。

「触って欲しい?」

 その場所を往復するように撫で擦りながら、高遠はまた耳元でそう訊ねる。

「…………」

 恥ずかしさに無言でいる私に、『そうか』と小さく呟いた彼は、続けて

「答えないなら、触らない」

 と短く言い、首筋に噛み付くようなキスをする。

「ああぅっ……」

 そんな乱暴にされたら、跡が残っちゃうじゃない!

「ちょ、ちょっと……も、も少し優しくっ……!」
 
 オーバーヒート気味の高遠を少しでもクールダウンさせようと声を荒げてみるけど、全く無意味だった。

 寧ろ私が嫌がれば嫌がるほど、高遠の熱はどんどん上がっていくような気さえする。

 『貴女の嫌がることが、俺は好きなんですよ』

 以前、確かにそんなようなことは言ってたけど、今日のは何か違う。やっぱり、今日の高遠は変だ。

「ど、したのっ……どうしたって、いうの――」

 首筋から喉、鎖骨へと、高遠の唇が降りてくる。

 彼が何を考えているのか、どうしたいのかが分からなくて、私はそう訊ねた。

「……真琴、彩のことが聞きたいって、そう言ってただろう?」

「え……?う、うん……」

 彼は片方のブラのカップの中に手を差し入れ、私の胸の膨らみを撫ぜながら私の双眸を見つめた。

「そんなに知りたいなら教えたっていい――何が聞きたいんだ?」

「…………」

 高遠の瞳は鋭かった。まるで、私がまだ高遠に弱みを握られ、甚振られていた時のような――。

 あの、突き刺さりそうな程の冷酷な視線。私が一番嫌いだった彼の表情。

 私を辱め、蔑む時の顔だ。

 どうして――どうしてそんな顔をするの?

 心の中が不安でいっぱいになる。

 もうその関係は終わったのだ。私と高遠は、もう気持ちが通じ合っていると、そう思っているのに――。

 彼のその目に耐えられなくて、私はさっき職員室で投げた質問をもう一度口にする。

「……彩さんのこと、今は……どう思ってるの?」

「どう思ってるって、決まってるじゃないか。恨んでるんだよ」

 高遠は表情を変えないままにそう言うと、親指と人差し指で胸の頂を摘み上げて、やんわりと押し潰す。

「ふ――ぁ」

「真琴の言うとおり、何年も一人を愛し続けられるっていうのは、凄いことなんだと思うよ。

俺は、彩と居るときだけ、気持ちが落ち着いた……楽になれた」

 周囲で『良い子』を演じていた高遠が、唯一心を癒せた場所――それが、彩さんだったということなのだろうか。

 本当に気を許せる相手というのが少なそうな彼にとって、彼女の存在はとても大きかったというのが伝わってくる。

「だからずっと一緒にいたいと思って、結婚をしようと……でも」

 高遠が摘んだ指の力を強めると、生じる痛みに思わず声が洩れる。

「つっ――」

「彩は直前になって俺を裏切った。男と駆け落ち……それも、俺の研究室の教授と――」

「―――!?」

 高遠の研究室の教授?

 椎名君は確か、20歳くらい歳の離れた男って言ってたけど、それって……。

「結局、彩にとって俺はその程度の存在だったってことだろう。でもそれも、終わった話だ」

「ぁ、う……」

「まさかもう一度顔を合わせる機会があるなんて、思ってもみなかったけどな」

 そう言うと、彼は胸の頂を口に含んで舐め上げる。ころころと転がすように舌を動かされると、また身体が跳ねた。

「わ、たしっ……今日……」

「何?」

「今日、アヤさんと……二人で話す機会があって……」

「そう」

 まるで無関心、という風に高遠が頷きながら、私のスカートやストッキングを脱がせ、それをベッドの下に落とした。

「アヤさんね……日本で、付き合いたい人が居るって言ってたの」

「………」

 彼の手の動きがぴくりと止まるのが分かった。

 やっぱり、彼女のことが気になるの?

「『高遠先生のことですか?』って訊いたら、はぐらかされちゃったけど……」

「どうして俺なんだ? 俺はとっくの昔に、彩に見限られているのに」

 高遠は自嘲的に笑い、吐き捨てるように言った。

「だって、職員室で貴方を見つけたときの彼女の顔、見たでしょ?」

 
『久しぶりね、怜……元気にしてた?』

 彼女の、心底嬉しそうな笑顔が脳裏に蘇り、心がざわめく。

 あの笑顔には、何か特別な意味があるのかもしれないと――彼女は、未だ高遠を想っているのではないかと、勘ぐってしまう。

「彼女もいい大人だ。表面上だけでもあんな風に振舞えたって不思議じゃない」

「じゃあ貴方は? 貴方だっていつもなら……相手がアヤさんじゃなければ、当たり障り無く接することができるじゃない!」

「…………」

 私の口調が責めるようなものに変わり、高遠が一瞬たじろいだ。

 違う、高遠を問い詰めたいワケじゃない。

 ただ不安なの。高遠が彩さんを憎んでいたとしても、アヤさんは高遠に気持ちがあるかもしれない。

 その可能性が0だと確定するまでは――どうしても、疑ってしまう。

「貴方の話をするアヤさんが嬉しそうで、怖いの。もしかしたら彼女は、

貴方ともう一度出会うために海外から帰って来たんじゃないかって――……んっ!」

 そう紡いでいる途中、高遠の唇に遮られる。

 いつもみたいに蕩けるようなロマンチックなキスじゃない。

 本当に、私の唇を塞ぎたかっただけのかもしれないと思えるほどの、荒々しくて衝動的なそれ。

「ん―――んんっ……」

 高遠のキスは、いつも心地よかった。

 頭の中が優しく痺れるような、甘美なものだったのに……。

「っ、う………く、るし……!」

「――――っ!」

 呼吸さえ出来ず、私が堪らず彼の唇に歯を立てると、高遠は漸く私を解放した。

「はぁっ――はぁっ……」

 必死に胸を上下させていると、彼は口元を掌で拭いながら私を見下ろしている。

「ごめ……私っ……」

 力を加減する余裕なんてなかったから、唇が切れてしまったかもしれない。
 
 故意ではなかったので、浅く呼吸を繰り返しながら謝ると、彼は私の身体に跨りながら汗ばんだ頬に触れる。

 そして、あの冷たい眼差しで私を見据えた。

「俺に触れられるのが嫌なのか?」

「ち、違うっ……!」

 私は慌てて首を振った。
 
「そうじゃない……でも、変だよ――いつもの貴方じゃない」

 彼が私より優位だった時も、関係が対等になったときも、いつだって高遠には腹立たしいくらいの余裕があった。

 いつも近くに居る私が思うんだから間違いない。今の彼は、平静さを失っている。

 何だかちょっと――怖いくらいに。

「……ああ、変なのかもしれないな」

 高遠は悪びれることもなく、切れた唇の端をぺろりと舐め、『だから』と続けた。

「今日は―――今日だけは、真琴をめちゃくちゃにしたい」

「っ……!」

 彼はそう言うともう一度、力尽くで私の唇を奪った。

 唇だけじゃなく、私自身さえも支配しようとするようなキスを受けながらも、抗おうと足掻いてみる。

 けどそんな試みも無駄でしかなく、弱点である耳を甘噛みされるだけで易々と捻じ伏せられてしまう。

「ふ、ぁあっ……」

 最早、条件反射のように嬌声を零してしまいながら、もがいているのは私ではなく、高遠の方なのではないかと、そんな気がしていた。

 彼が何かを忘れようとするために、行為に没頭しているような……。

 こんな高遠を見ているのは私も辛い。

 そうすることで救われるのなら、したいようにしたらいいし、受け入れてあげたい。

 それが私に出来ることなのだと思った瞬間、抗うことを止め、彼の強引な愛撫に身を委ねた。