Scene3 封印した片思い



「楓さぁ、それは単にからかわれただけだったんじゃない?」
「そうかなぁ〜……」

 昼休み、3−Cの教室の一角。
 私と長澤葉月(ながさわ はづき)は昼食のパンを頬張っているところだった。
 
「じゃなきゃオカシいじゃん。本気で女の子と会いたいなら出会い系とか行くでしょ」
「うーん、そうだけど……」

 形の良い眉を顰める葉月。
 葉月は可愛らしい見た目に反して、かなりのネット中毒者だ。
 実は私がチャットという存在を知ったのも、学校で一番仲の良い葉月の影響だったりする。
 私は朝コンビニで買ったベーグルサンドを齧りながら首を傾げる。
 ハムとレタスのベーグルはお気に入りでよく買う。
 対する葉月はピーナツバターとチョココロネ。いかにも甘党の葉月らしい組み合わせだ。
 胸焼けしないんだろうか。
 そのピーナツバターのパンをぺろりと平らげた葉月が、ジロっと睨みを利かせる。

「まさか楓、今日待ってるつもりだったの?」
「そんなワケないじゃん」
「だよねぇ。」

 私の答えを聞くと、葉月はけらっと笑って次のコロネを頬張った。
 実のところ、私は少し……ほんの少しだけ迷っていた。
 
『本気で何処かに行きたい?』
 レイジのあの言葉が、ずっと心の奥底に引っ掛かっていたからだ。

「じゃなきゃ、チャット上で頭の良い所アピールしたいだけだったんだと思うよ」
「え?」

 葉月の台詞に、ぼんやりとしていた私はベーグルを持ち直して首を傾げる。

「ほら、成陵はさ、ここらじゃ超有名な進学校でしょ?」
「うん」
「嘘でも成陵だって言われれば、周りは凄いって思うんだよ」
「あー、なるほどね」

 チャット上で自分を持ち上げたいヤツは結構いる。特に、男が多いかな。
 話すこと全部、自分のこれまでの偉業だったりとか、逆に卑屈を装った自慢話だったりとか。
 少し前、あのチャット室で会ったヤツの中で、唐突に偏差値80です!ってヒトが居て、爆笑したっけな。
 まぁ、顔も見えないし年や性別さえ誤魔化せるんだから、殆どがそんな嘘なんだろう。

「そのヒトだって本当に成陵だとは限らないよ。名前に見覚えは?」
「えー……それがさぁ……」

 チャットの中で名乗れるハンドルネームは自由だ。
 けど、私の通うあのサイトの男の子は、自分の下の名前を使うケースが多いらしい。
 それは葉月も知っている。

「何?心当たりあるの?」
「んー、土屋っぽい感じがしたんだよねぇ…」
「土屋って、うちのクラスの、あの土屋?」
「そう」

 私が頷くと、葉月は驚いたというように目を瞠った。
 それもそのはず。土屋はどちらかというとパソコンとかを倦厭するタイプだ。
 っていうか、興味がなさそう。
 恐らく葉月も同じ意見を持ったのだろう。苦笑いを浮かべた。

「まー、ハンネだからね。多分、全然関係ないヒトじゃない?」
「うん、私もそう思う」

 ベーグルを食べ終えた私が、軽く手を払いながら言う。
 と、葉月が食べかけのコロネをじっと見つめ、溜息混じりに切り出す。

「それにしてもさー、そろそろパソコンも遊び納めだよね」
「何で?」
「何でって、受験じゃん。勉強しなきゃ」
「そういや、そうだね」
「そういやそうだねって……随分暢気だね、楓。余裕ってこと?」

 軽く流した私の反応を不思議に思った葉月が、笑みを含んだ表情でそう訊ねてくる。

「まさか」

 私は笑いながら首を振った。
 葉月はきっと、知らない。私が塾をサボっていること。
 模試で志望校全部にE判定を食らったこと。
 夜の時間の殆どをチャットに費やして、其処に逃げ場を作っていること。
 現実の世界を疎ましく思っていること。全部。

「あっ、そろそろ次の時間の準備しないと」

 葉月は不意に携帯の時計を眺めると、残りのコロネを口の中に押し込んだ。
 その言葉に私も、猫の待ち受け画像が可愛い葉月の携帯を覗き込む。
 本当だ。もう予鈴鳴ってしまう。

「じゃーね、楓」

 栗色のツインテールを揺らして葉月が立ち上がる。
 つられるように、私もパンのビニールを片付け始めた。

 ・
 ・
 ・

「……ということで、以上が中和反応の計算方法の――」

 5時間目の授業は化学演習だった。葉月の方は美術のデッサンとか言ってたっけ。
 化学教師の高遠が、黒板に着々と白い面積を増やしている。
 うちの学校はちょっと授業形式が特殊で、3年になると自分の進路や入試科目にあわせて好きな時間割を組む事ができる。
 解かりやすく言うと、3年だけ履修形態が大学みたいになってるってことかな。
 そりゃあ、体育や家庭科なんかの必修科目はちゃんと履修しなきゃいけないんだけど、かなり自由が利く。
 生徒にも親にも人気なこの自由選択システムが、成陵高校最大のセールスポイントだと言われている。
 確かに授業は選べる。でも、親から過度の期待を掛けられる人間にとっては生き地獄に他ならない。
 事実、私は好きでもない理系科目ばかり履修している。
 何故かって、答えは簡単。父親が某超有名大学理学部出のエリートだから。
 高学歴の親の子供が高学歴じゃなきゃいけないなんて、誰が決めたんだろう。
 私は一度だってその大学のその学部に行きたいなんて、言った事がない。
 そりゃE判定も出るわ……私ほど勉強しないで、その大学目指してますなんて人間が居るはず無いんだから。

「…じゃ、確認のため……紺野。今の例題の答えを、口答で」

 高遠が何の前触れも無く、私を指名した。
 やばっ……問題なんて全然聞いてなかったよ。
 慌てて黒板に書かれている内容に集中しようとした。
 が、今日は新しい単元に入ったせいもあり、私にはよく解からない数字やら記号が踊っているようにしか見えない。元々化学は苦手だ。
 どうしよう。問題訊き返すのも何か嫌だし……。

「あ………」

 これくらいの問題、解けて当然。
 高遠は眼鏡越しのそんな目で私を見つめている。
 困った。どうしたらいいかわからない。
 何で私を当てたりしたのよ……高遠の授業は解かり易いし、好きなんだけどこの時ばかりは恨み言を言いたくなる。

「0.3mol」

 私が絶体絶命に陥った時、直ぐ後ろから救いの囁きが聞こえた。

「0.3molです」
「そうですね。ではこの辺りは難しくないので先に行きます」

 すかさず答えた私に、高遠はホッとした笑みを浮かべて教科書に視線を戻した。
 上の空だったことがばれていたのかもしれない。気をつけなきゃ。
 それにしても、助け舟を出してくれたのって……?
 ちらりと後ろの席を見遣る。と、其処に居たのは土屋礼司だった。

「土屋……?」
「感謝しろよな」
「べっ、別に助けてくれなんて言ってないじゃない」

 高遠に聞こえないように、ひそひそ声で会話を交わす。
 でも、新しい分野に入れば其処の説明に集中するし、私達は後ろの方の席だから、多少の私語はばれないだろう。

「…まぁ、そうだけど。問題くらいちゃんと聞いてろよな」
「ほっといて」
「可愛くねェーの」
「うるさいな。ていうか、土屋って化学演習とってたんだ」
「ひでー、1学期ずっと一緒だった癖に覚えてないのかよ」

 土屋がわざと悲しげに眉を下げる。……きもちワルっ。

「こんだけ生徒が居りゃ解かんないじゃん」

 私は教室を見回しながら言った。
 高遠の授業は人気があって、履修登録している生徒が沢山居る。
 加えて座席も早い者勝ちで毎回変わるから、とてもじゃないけど全員なんて覚えられない。

「まーな。でも愛の力で探してくれよv」
「………なぁーにが愛よ」
「ははっ、ジョーダンジョーダン。言ってみただけ」

 毒気の無い顔で笑う土屋に、心底腹が立ったけど、顔には出さなかった。
 土屋はもう忘れたんだろうか。あの時の事。
 ……忘れたんだろうな。きっと。

「それより土屋。アンタの相棒は?」
「相棒? あぁ、椎名のこと?」
「うん」
「どーせまたサボりじゃね? この授業とってるハズなのに、居ないし」
「あー、やっぱりね。単位平気なの?」
「さぁ。でもアイツもアホじゃないから、数えてるンじゃん?」

 椎名っていうのは、椎名隼人(しいな はやと)。土屋の親友。
 類は友を呼ぶらしく、容貌は土屋に似た明るい茶髪の遊んでそうなお兄ちゃんって感じ。
 別名、ウチのクラスの『遅刻魔』。主な活動は遅刻、加えて早退、欠席等々。
 私以上に不真面目なのに、理系科目は成陵でもトップクラスっていう希少価値のついてる人間。
 そういうトコ不公平だなって思うけど、彼のお陰で私のサボリが目立たなくて、その点ではとても感謝していたりする。
 また休みなんだ。全く、そろそろ単位危なくなってきてるハズなんだよ。
 さりげなく椎名とも授業被ってたりして、数えてるんだから…ヤツの欠時。

「私の心配するより、相棒の心配してやりなよ」
「あ?」
「結構ヤバいんじゃないの。必修の授業とか、欠席多いし」
「あぁ。でも大丈夫だよ」

 私がそういうと、土屋は事も無げに首を振った。

「何言ってるの、幾ら頭良くても単位足りなきゃ進学どころか留年だよ」
「そりゃそうだけど、アイツ最近更正してきてるから」
「は?何で?」
「んー…誰にも言わないって約束できるか?」
「うん」

 こっくりと頷く私に、土屋が余計に声を潜めた。

「椎名のヤツ、月島センセと付き合いだしたって」
「!?」

 嘘、と叫びだしそうになるのを両手で口を塞ぎ慌てて堪えた。
 椎名が、あの担任の月島先生と!?

「あ、あはは……ま、まさか」
「嘘のようなホントの話。しかも1年越しの片思い」
「誰が?」
「椎名が。去年月島センセが着任した時から狙ってたんだぜ。世の中って解かンないよな」
「………」

 あまりのことに、言葉が止まってしまう。
 だって、だってよ?
 まず教師と生徒が付き合うっていうのがオカシいでしょ。
 それに月島先生って言ったら、大人しそうで気弱そうで優しそうで、いかにも守ってあげたくなっちゃうようなタイプなのに、
 対する椎名は遅刻魔で、寧ろ……

「担任を困らすタイプじゃない。どうして、月島先生は椎名なんか……」
「『なんか』って、お前なぁ……」
「あ、ごめん、つい本音が」

 いやいや、別に椎名を否定してるワケじゃない。
 でもさ……20代前半の若い先生とはいえ、わざわざ自分のクラスの生徒を、それも問題児を選ばなくたって……。

「まぁ、あれだな。俺が思うに、好きな子を苛めるって感覚に近いンだろうな」
「っていうと?」
「構って欲しいっていうアピールみたいなモン? 月島センセはマジメだから、個人面談とかもしただろうし」
「……馬鹿じゃないの。小学生じゃあるまいし」

 土屋が額に掌を当てるのは、考えている時の癖。
 そうやってヤツが導いた結論を、私はバッサリと斬った。
 厳しいねー、なんて笑ったけれど直にその笑顔が土屋の表情から消えた。

「それより心配なのはお前だよ。アレで現役合格は無理だろ」
「だろーね」

 アレっていうのは多分、昨日の模試のことだ。
 向けられる真剣な眼差しを避けるように、私は俯く。

「だろーね、じゃねェだろ」
「だってどーせ浪人するだろーし」
「それ言いワケにして、授業出てないのか」
「……」
「お前、そんなンでいいと思ってンのか?」
「土屋には関係ないじゃん、黙っててよ!」

 人間は誰でも、それに触れられたら平静でいられなくなるようなスイッチを持っていると思う。
 土屋は今、私のスイッチを押した。それも、思いっきり。
 思わず口調が荒くなって、黒板でリンの酸化物の説明をする高遠の声と被ってしまう。

「紺野と土屋。静かにしなさい」

 その言葉に私も土屋も黙り込んだ。

「もう直ぐ夏休みだからって気を緩めないで下さい。土屋、暇なら前に出て赤リンの燃焼反応の化学反応式を書きなさい」
「え? 何で俺だけなンですか?」
「紺野にはさっき当てましたから」

 舌打ちして席を立つ土屋に、周りの生徒達がケラケラと笑い声を立てる。
 文句を言いながらもきっと土屋はこの問題を解くことができるんだろう。
 ちゃんと予習してるんだもんね。
 ……けど、私の事に口出す余裕はないのに。
 知ってるんだから。土屋が薬学科目指してるけど一番行きたい所には届かないってこと。
 家庭の事情で浪人はできないってこと。それでも妥協はしたくないんだってこと。
 あぁ……ホント背、伸びたなぁ。
 黒板で反応式を書くアイツをぼんやりと眺める。中学の時はもっと小さい方だった。
 180cm近い高遠と並んで同じくらいってことはこの3年で凄い成長したんだろう。
 容姿だって、そうだ。中学の頃は典型的な良い家の息子って感じの、可愛いタイプだった。
 何を間違ってあんな――決してギャル男ではないんだけど、茶髪ピアスな不良兄ちゃんになったんだろう。
 もう中学生の時の土屋じゃないんだ……。
 そう思ったら、心に冷たい隙間風が吹き込んだような気がした。

 私は昔、土屋が好きだった。
 何がきっかけとかそういうのは覚えてないけど、乱暴でガサツな男子が多かった中学時代のクラスで、
 何ていうのかなぁ……清楚っていうか、行儀がよかったっていうか。良い意味で、珍しかったんだよね。
 そりゃあ言葉遣いや態度なんかは今と変わらないんだけど、そういう意味じゃなくて。
 ……例えば箸の持ち方が綺麗、姿勢が良い、掃除当番の時に作業が丁寧etc……。
 とにかく、コドモっぽい男が嫌いだった私にとって、土屋は誰よりもカッコよく見えた。
 その気持ちは年が経つほどに強くなって、中3の夏休み。忘れもしない、7月28日の補講授業の後、ついに私は土屋に思いを打ち明けた。
 結果。

『ご、ごめん。紺野のこと、そういう風に見たこと無い』

 正直、凄くショックだった。
 確かに、メチャメチャ仲良いとかそういう間柄じゃなかった。でも、よく話す方だったし、悪印象を持たれてると感じた事もなかった。
 周りの友達も応援してくれていて、風の噂で土屋が私の事を好きだとまで聞いていた。
 早い話、両思いは確実だと思ってたワケだね。傲慢なカン違いに今でも思い出すと笑えてくる。
 よくよく考えてみれば解かった話なんだ。
 私は特別可愛いワケでもスタイルが良いワケでもない。優しくもないし、ユーモアもない。
 取り柄と言えば、教育熱心な母親譲りの勉強くらいで。
 そんな頭でっかちな女の子を好きになってくれるような男の子が、居るはずないのに。
 積み重ねてきた中学時代の片思いは、あっさりと終わった。
 なのに運命というのは意地悪で、冬の願書提出で土屋と第一志望の高校が同じだと発覚。
 難関校の成陵に2人揃って合格したときは気まずいのなんの。
 けど合格発表の日に鉢合わせた土屋は、目をあわそうとしない私にキッパリと言った。

 『俺、高校に入っても紺野と仲良くしたいんだけど、紺野は嫌か?』

 私と会わないようにコソコソしたり、無視したりするような男じゃなくてよかったと思った。
 そう、こういう真っ直ぐな土屋が好きだったんだ。私は。

 『いいよ』

 その日から、私は土屋の友達になろうと決めた。
 決心してからは実に楽だった。自分の気持ちに板ばさみとか恋愛小説みたいな展開にはならないし、
 寧ろ告白する前より仲良くなれた。それでよかった。
 あの頃の気持ちはもう引きずっていない――と言いたいところだけど、土屋の何気ない一言に殺意を感じるところ、そうでもないみたいだ。

 『でも愛の力で探してくれよv』

 絶対、アイツは私が告白した事を忘れてる。
 じゃなきゃそんな冗談、気まずくて言えやしない。
 ずるい。ずるいよ。こっちは忘れたくても忘れられないのに。

 
『それより心配なのはお前だよ。アレで現役合格は無理だろ』

 次々、土屋の台詞がリフレインして―――イライラする。
 心配だって?私が?

 
『それ言いワケにして、授業出てないのか』

 だったら何だって言うの。
 それでアンタに迷惑かけてる?
 黙ってよ。私の事なんて放っておいて。

 
『お前、そんなンでいいのかよ』

 どうして、今になって私に構うの。
 それなら何故、あの時振り向いてくれなかったの――……。

 
『好きな子を苛めるって感覚に近いんだろうな』
 『構って欲しいっていうアピールみたいなモン?』


 さっきの椎名の話を思い出した。
 違う。私はそんな愚かな事はしない。
 そんな風に土屋の気を引こうなんて思ったりしない。
 アイツに無気力な風に振舞うのは、心配して欲しいからじゃない。

 
 
『……馬鹿じゃないの。小学生じゃあるまいし』


 自分で放った言葉にちくりと胸が痛んだ。
 そう、馬鹿は私。
 未だ好きなアイツに真っ直ぐ好きだと言えず、強がることだけ一人前で。
 小学生みたいに稚拙な愛情表現しかできない大馬鹿者なんだ。