Scene4 私を助けて!



 全てが憂鬱だった。
 家では親の期待が重く圧し掛かり、学校では土屋が私をイラ立たせる。
 もう少し経ったら夏休み……なのに休みは返上。夏期講習で塾と家を往復の日々が待っている。
 塾では殆ど一日中、クーラーの効いた寒い教室に閉じ込められて、嫌いな化学や数学を中心とした授業を受けなきゃならない。
 そんなの苦痛に決まってるけど、流石に講習をサボるとバレてしまうから通わないワケにもいかない。はぁ……。
 全ては将来のためだと、お母さんは言う。
 お父さんやお兄ちゃんと同じように、あの大学に入れば就職は楽なんだから。なんて。
 どうせその就職先も、兄が勤める一流企業と比べられるだけだ。兄より優秀にはなれそうもない。
 第一、大学に入れたとして、私は何をすればいいの?学びたいものなんて何もない……私が選んだ大学じゃないんだから。
 先にある未来を糧に頑張ろうと思っても、無駄だ。そうしようとする努力にさえ反吐が出る。
 私の望むモノなんか其処には無い。そんな事、今現在でも解かりきっているというのに。

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 レイジ>本気で何処かに行きたい?
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 授業が終わってからずっと、レイジのことばかり考えてた。
 何処かへ行ってしまいたい。誰にも干渉されない所へ。
 成陵高校正門前で18時。レイジが指定してきた場所と時間。
 携帯のウインドウで時計を確認すると、17時33分。18時まで、あと30分弱。
 気が付けば、こうやって図書室の椅子の上で時間を潰している。
 レイジが約束を守るとは思わない。チャット上での軽い口約束だし、本気にするヤツも少ないだろう。
 『なら引っ掛かってあげるよ』なんていう馬鹿げた気持ちと、見ず知らずの人間にも縋りたいほどの依頼心に、
 私はこうしてレイジとの約束の時間を待っている。
 あと少し。
 あと少し、待ったら。
 何かが変わるかもしれない。







 指定時刻5分前に、私は正門へと到着した。
 まだ其処には誰の姿も無くて、コンクリの壁に寄り掛かる。制服のブラウス越しに伝わる熱が、冷房浸りの体に心地よい。
 7月にもなれば夕暮れでも充分に明るいし、この時間になっても残っている生徒なんて殆ど居ないから、目を凝らさずとも周囲の人影を確認できる。
 まぁ、元々成陵は大通りに横断歩道を一本渡した見通しの良い場所に建っているのだけれど。

「あー……」

 段々、都心特有の排気ガス交じりで蒸し暑い空気に嫌悪を感じ、コンクリから背中を離した。
 アブラゼミのジリジリと鳴く音が余計に気分を不快にさせてくる。
 ………。
 やっぱり、来ないのかな。

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レイジ>明日、待ってるから。
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 アレはきっと、冗談だった。
 そうに決まってる。
 でも別にいいもんね。塾をサボる理由にはなってくれたんだから。
 最初から期待なんてしてなかったし。逆に来られても若干恐いくらいで――

「……あっ」

 その時、目の前の横断歩道を渡る男性が視界に入り込んできた。
 胸の鼓動が高鳴るのと同時、明らかな不安が私を襲った。
 遠目でも解かる。赤茶けた長めの、真ん中分けの髪。黒いタンクにダメージジーンズ。
 口元には煙草。どう見ても所謂『コワい人』だ。
 もしこのヒトがレイジだったら、どうする?
 緊張にごくりと唾を飲み込む間に、男の人はどんどん此方へと近づいてくる。
 彼のほうも、誰かを待っている様子の私を見つけると少し目を瞠りながら足を速めた。
 ヤバい。
 このヒトはきっと……。

「アイちゃん?」
「………」

 決定的なダメージを受けた私は、言葉を返すことも忘れてその人をまじまじと見上げた。
 咥えた煙草を噛み潰して、軽薄な笑いを浮かべている彼。
 葉月にしか教えていないはずの、仮初の世界での名前を知っているということは。

「……『レイジ』?」
「そう、初めまして」

 レイジが頷いて左手を差し出してくる。
 何これ、握手しろってこと?よく解かんない。
 恐る恐る手を伸ばして、彼のそれに触れる。
 おそらくついさっきまで涼しい場所にいたのだろう、ひんやりと冷たい感触を残してすぐにその手は離れていった。

「少し遅れたかも。まさかホントに来るとは思わなくて」
「わ……私も、本当に来るなんて、思わなかった………デス」

 手首につけていたのはシルバーアクセだと思っていたけど、腕時計だったみたい。
 彼は時間を確認して少しすまなそうな顔になる。よくよく見るとキレイ系なんだな。
 見た感じ私より2,3歳は年上だ。
 ていうか、こういう時ってどうするんだろ。タメ語じゃだめかな、丁寧語にすべき?
 そう思って慌ててつけたした言葉に、レイジはケラケラとおかしげに声を立てて笑った。

「いーよいーよ、タメで。チャットではそうだったしね」
「………あ、うん」

 中性的で整った顔に不似合いな幼い笑いに、私は素直に頷く。
 ……あれ?不思議。
 彼の風貌から感じた恐いっていう思いが、どんどん薄れていく。
 ヤバい人って、見ただけで「もうダメ!ゴメンナサイ」って思ってしまうし、実際さっきまではそう思っていたんだけれど。
 レイジと接してみて、そういう危機感みたいなものは無くなった。
 どうしてなんだろう。

「それで、顔も知らない俺との約束守りに待ってたってことは、さ」
「あ、あの……」
「何?」

 レイジがじっと見つめて話を切り出そうとするけど、私には確認しなきゃいけないことがあった。

「本気ですか?」
「何が?」
「昨日の言葉は、本気なんですか?」

 もしかしたら、ただのナンパのつもりだったのかもしれない。
 いや、寧ろナンパでもよかった。私を今の状態から助けてくれるのなら。
 けど一応聞いておきたい。レイジの本当の目的を。

「連れて行ってあげるよ。アイちゃんが本気で行きたいなら」

 レイジは私の言葉を聞き、瞳を伏せると淀みなく言い切った。

「此処に呼び出したのは、アイちゃんの気持ちを確認しておきたかったからなんだ」
「私の気持ち?」
「そう。アイちゃんが本当に俺の『助け』を必要としているのか、どうか。でも、アイちゃんの気持ちは今のでわかった」

 車道からの生温い風に、レイジの陽に透けた赤茶の髪が揺れる。
 目に掛かるその前髪を耳に掛けて、彼が続けた。

「望むなら今すぐにでも連れて行ってあげられる」
「…………」

 とても、遊びに誘っているような口調じゃない。
 彼は知ってるんじゃないか。心の奥でずっと私が悲鳴を上げ続けていた事。
 勿論そんなことはありえない。ありえないけど、そう思ってしまうほど、彼はまさに今一番欲しい言葉を投げてくれた。

「いきなり言われても、現実味湧かないかもしれないね。」

 私が黙っていたのを、レイジは戸惑いとして受け取ったらしい。
 なら、と彼は人差し指を立てた。

「1時間、俺は此処で待つよ。その間考えてやっぱり俺の『助け』が必要だと思ったら、19時までに戻ってきて。それでいい?」

 1時間。一瞬、短いなと思ったけれど、そんなことはない。
 時間いっぱい迷いに迷って決まらないのなら、このままの生活を続けるのが良いに決まってる。

「……わかった。」

 そう頷いて、私はゆっくりと踵を返した。





 ただ漠然とあった何処かへ行きたいという思いが、急に具体的なものになり、私は少なからず混乱していた。
 行き先なんて定めていないのに、私の足は歩みを止めない。

 
『1時間、俺は此処で待つよ。』
 『俺の『助け』が必要だと思ったら、19時までに戻ってきて。』


 レイジの言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
 今更ながら私は迷っていた。
 私はレイジとチャットで会話をして、彼を知っている。でもたった一度だけだ。
 いくら何処かへ行きたいからって、初対面の彼について行っていいものなんだろうか?
 レイジが良いヒトかどうかはわからない。でもきっと、悪いヒトじゃない。
 だって、チャットでたった1度会っただけの私を『助け』てくれようとしている。
 けど、逆に言えば何でそのたった1度、目にしただけの私を『助け』るなんて気になったんだろう。
 そこにはシタゴコロっていうか裏があるんじゃないか……うーん。
 頭の中は疑問だらけで混線している。
 私はどうするべきなんだろう。どうしたらいいの?
 こんなこと、誰にも相談なんて出来ないし……。
 結論を出せないまま、いつの間にか自宅の前へと辿り着いていた。
 家から成陵まで徒歩で約10分ちょい。通学の便利さという点においては、私はかなり恵まれた環境で暮らしていると思う。

「………結局、このままで良いってことなのかな……」

 無意識に家に帰って来てしまったということは、幾らかこの生活に愛着か未練があるのかもしれない。
 それが解かっただけでも、レイジとのやり取りには意味があったような気がする。
 このままで良い。今のこの生活だって、小、中学生の頃から苦労して築き上げてきたものだもん。
 友達と遊びたいのも我慢して、毎日のように塾へと通って。
 お兄ちゃんみたくなりなさいっていうお母さんの言う事を聞いて、殆ど顔を会わせることのないお父さんの期待に応えようと頑張って―――。

「ただいま……」
「あらっ、楓!?」

 玄関の扉を開けると、お母さんの驚く声が聞こえる。
 今日が塾の日だからだろう。
 廊下からスリッパの音が響いて、玄関へとやってくるのがわかる。
 そんなに慌てなくたって、いいのに。

「今日は塾の日でしょう?如何して休んだりするの?具合でも悪いの?」
「そうじゃなきゃ休んじゃいけないの?」

 事も無げに靴を脱いで中に上がりこむ私を、まるで凄く悪い事をしたみたいにお母さんが問い詰める。
 それが酷く私の神経をイラつかせて、心の中に蓄積されたヘドロのような感情を刺激する。
 そして、自分でも意外なくらい挑戦的な言葉が唇から零れた。

「いけないのって……もう高3の夏なのよ?そんな悠長なこと言ってると――」
「『お兄ちゃんやお父さんの入った大学には入れないのよ?』って?」
「楓?」
「何よ、受験受験って目くじらたてて。それが私のためだとでも思ってるの?」
「楓、どうしたの?」

 私の口から吐き出される言葉に、お母さんが困惑した表情を浮かべる。
 もっと困れば良いんだ。私は今まで何倍も辛い思いをしてきたんだから。
 一度煽られた感情にセーブなんてききやしない。反発する言葉は、止まらない。

「私、お母さんたちの言う大学なんて行きたくない」
「え!?」
「行きたいなんて思ったこと一度もない。だって理学部なんて興味ないもん」
「ちょっと、今更何を…」
「今更も何もない、私の成績じゃ入れるわけないのに!」

 生まれて初めての自己主張。の、つもりだった。
 私がそう言うと、お母さんは何故かホッとしたように小さく笑った。

「何?楓、不安になってるの?今から頑張れば大丈夫よ。あなたなら間に合うわ」
「……?」
「お母さんもお父さんも、お兄ちゃんも応援してるわ。ね、頑張りましょう」

 崖の下に突き落とされた気分だった。そのまま転がり落ちて、擦り剥けた心がヒリヒリ痛い。
 何てことなの。
 お母さん、違う、そういう意味じゃないの。

「解かるわ。お母さんもね、受験生の頃はわけもなく不安になったりしたものよ」
「……違う」
「楓?」
「そうじゃない!お母さんは何もわかってない!!」

 私は叩きつけるみたいにそう叫ぶと、走って2階への階段を駆け上がる。
 目頭が熱いと思ったら、あぁ、なんだ、涙が出てる。
 自分の部屋へと辿り着くと、扉を背に閉じこもって、そっと耳を済ませた。
 ……何の音もない。静寂だけが響き渡っている。
 お母さん、追いかけてきてもくれないんだね。
 どうせ大したことじゃないと思ってるんだ。
 はは、馬鹿みたい。言っても無駄だって解かってたじゃん。

「……うっ……ひっ…く」

 堪えようとしても口から嗚咽が零れる。
 何も悲しいことなんてないじゃない。解かってたんだから。
 多分こうなるってことも、私に味方なんて居ないってことも―――……。
 

 
『俺の『助け』が必要だと思ったら、19時までに戻ってきて。』


「…………な……んだ、居たじゃん」

 たとえ初めて会ったヒトでも、いいじゃない。
 18年間一緒に暮らしてきても、私の事なんて何も理解してくれてないヒトだっている。
 連れて行ってよ、レイジ。
 此処じゃない所だったら何処でもいい。
 悩んだり傷ついたりするのは嫌だ。もうそんなのは要らない。

 
 お願い、私を『助け』て。