Scene.4-3




「裏切る?」

 搾り出すような声でそう言うと、間髪いれずに椎名君が訊ねる。

「真琴ちゃんね、私と高遠先生のこと……協力してくれるって言ってたのよ。それなのに」

「『アタシを差し置いて高遠とデキちゃった』って?」

「………どうして、そんな目で見るの?」

 椎名君の視線は相変わらず冷ややかだった。

 どうして私が非難されるの?

 どうして、椎名君は真琴ちゃんの味方をするの?

 突き刺さる視線が居た堪れなくて、逃れるようにかぶりを振った。

「私はっ……真琴ちゃんのこと信じてたのよ。なのに真琴ちゃんは平気で私を裏切って、知らない振りして……」

「平気で裏切ったって、何で解るンだよ?」

 淡々としていた椎名君の口調が、徐々に厳しくなる。

 その切り返しに一瞬言葉を詰まらせていると、彼は小さく息を吐きながら肩を竦めた。

「そりゃオレも面白がって煽ったりして、悪いとは思うけど――真琴先生だって、不本意だったンじゃない?オレはそう思う」

「し、知った風に言わないで」

 丸めた指先に力が篭る。

 何も知らないくせに。

 二人して、私に隠れて……しかも職員室であんな恥ずかしいことしてたこと――知りもしないくせに。

 私がこんなに傷ついているのも、知りもしないくせに!

 さも理解者のように振舞う椎名君の口調に苛立ちを覚えて、そう口調を荒げた。

「勿論知らねェよ」

 椎名君は思いのほかあっさりと認める。

「知らねェけど、怜がすごく真琴センセを気に入ってるってコトと、それを真琴センセが迷惑がってるってコトは知ってる。これで十分じゃね?」

 だから真琴ちゃんにしてみれば不本意だと。彼はそう言いたいのだろう。

 彼から見た彼女はそうなのかもしれない。

 でも、真相は違う。

「真琴ちゃんだって、高遠先生のこと、好きだもの」

「何でわかるンだよ?」

 一瞬、言葉に出すのを躊躇ったけれど、事実を伝えるためには正直に言うしかなかった。

「………カマをかけたの。椎名君は、呆れるかもしれないけど」

 高遠先生が私のことを好きだという嘘を話したとき、

 真琴ちゃんが酷く動揺したのを覚えている。あれが紛れもない証拠。

 褒められたやり方ではないのは解ってる。けど、あの時、そうやって訊くしか確かめる方法はなかったから……。

「フーン。なんだ、相思相愛ってヤツか」

 彼は意外そうに眉を上げて、へぇ、と頷いた。

「だから、わかるでしょ?真琴ちゃんは、私に隠れて……2人でコソコソ会って……」

「………」


「最初は真琴ちゃんも、他の先生が気になるみたいな事を言ってたのよ?」

「………」

「けど、違ってた。いつの間にか、高遠先生のこと、すごく好きになってたみたいなの……」

 あくまで私の勘でしかないけれど、おそらく外れてはないと思う。

 だって、小学生のときから一緒なんだもの。

 彼女の様子からも、何となく分かる気がする。

 今まで私の心に溜まっていた彼女への気持ちが、脈絡なく零れるのを、椎名君は何も言わず、冷静に聞いていた。

「……ごめんね、椎名君。こんなこと、椎名君に言ったりすることじゃないよね」

 私が真琴ちゃん以外に、気持ちを吐露したりすることなんてなかった。

 素直に耳を傾ける彼の様子を見て、それが急に恥ずかしいことのように思え慌てて謝る。

 ……でも、どうしてだろう。この際、彼に話してしまいたい気分だった。

 普段感じていても誰にも言えずにいた、複雑な気持ち……ただの愚痴と言われればそれまでなのだけど。

「別に……」

 椎名君は緩く首を振って、じっと私を見つめたまま、顎で続きを促した。

 ――聞いてくれる、ってことなんだよね?

「ありがとう……」

「あ――ちょい、待って」

 椎名君は何かに気づいた様子で、私の腕を引っ張る。

「……?」

「さすがにココの前じゃ目立つ。場所、変えたほうがいいンじゃない?」

 職員室前の廊下……確かに、他の先生方に見つかってしまう可能性がある。

 彼の尤もな提案に私は頷いた。

 それに――と
椎名君が苦笑いを浮かべる。

「オレも授業サボってるからさ」

「ご、ごめんね。ううん、やっぱり平気」

 私は慌てて両手を振った。

 いけない。私ったら、自分の都合で椎名君を引き止めるようなことして……。

「授業、戻って。気づかなくてごめんなさい……」

 すると椎名君は、ニッと可笑しそうに笑う。

「今更、じゃない? いーよ、話しなよ。芽衣センセだって、このままじゃ授業になンないだろ」

「………」

 教師として、生徒の授業を妨害なんてダメだって、わかってるけど。

 今だけは、彼なりの気遣いに、甘えたい気持ちを抑えられなかった。

 ・
 ・
 ・

 私たちはいつもの教室へと場所を移した。

 音楽室――ここなら、鍵の管理は私だし、一限は確実に空き時間。

 防音のお陰で、外に話しが漏れることはないし、と、都合が良い。

 後ろ手で扉を閉めながら、ため息を一つ吐く。

「私、相談するのはいつも真琴ちゃんだったから……他の人に、しかも生徒にこういう話するの、何か不思議な感じがする」

 グランドピアノと1クラス分の机が並ぶその部屋、教壇に当たる場所へどちらとも無く歩き出す。

 ここは授業内での演奏発表などで、ステージの替わりになるから、階段一段分ほどの高さがある。

 椎名君はそのステージ部分に腰掛けながら私を見上げていた。

 先程と同じように、静かに話を聞いてくれている。

「――真琴ちゃんもね、いつも、相談事は私にしてくれていたの」

 勉強のこと、学校のこと、友達のこと……恋愛のこと。

 なのに、今回に限って、彼女は何も言わなかった。

 それが私の中でどうしても引っかかっている。

 真琴ちゃんにとって、高遠先生は大事な存在になっているんだ――きっと、私よりも。

 ……そう思えて仕方ない。

「真琴ちゃんがどうして裏切ったのか……私、最近の真琴ちゃんが、何を考えてるのかわからない。新学期が始まるまでは、そんなことなかったのに」

「芽衣センセはさ」

 それまで、私のとりとめのない言葉にひたすら耳を傾けてくれた彼が、急に口を挟んだ。

「どっちの方が好きなの?」

「え?」

 唐突な質問の意味がわからず、彼の方へと向き直って、小さく首を傾げる。

 彼は、頬杖をついてはいるけれど、真っ直ぐで鋭い眼差しをこちらへと向けている。

「真琴ちゃん、真琴ちゃん、真琴ちゃん――って、芽衣センセの話、真琴センセが中心みたいだけど。

芽衣センセは、怜と真琴センセと、どっちが好きなの?」

「―――――」

 勿論、二人とも。

 そう思ってはいるけれど、言葉に詰まってしまった。

 彼の意図が、私の苛立ちの正体の核心を突いた気がして。

 目を大きく瞠ったままの私を認めると、椎名君は、結局、と続ける。

「芽衣センセは、真琴センセのが好きなンだよ、きっと」

 簡単なことじゃン、とでも言いたげに、彼は笑った。

「自分と真琴センセ以上に、怜と真琴センセが仲良くなンのが気に入らなかったンじゃね?

なンてーか……怜に真琴センセを取られた、みたいな。そンな風に感じてるから、余計裏切られたって思うンじゃないの」

「あ……」

 まるで、清涼剤を口にして嚥下した時のように――ドロドロした厭な感情が、スッと消えていくのがわかった。

 彼の言うように、本当に簡単なことだったのかもしれない。

 確かに、高遠先生のことは大好きだった。すごく大好きだったし、振られちゃったときも凄く悲しくなった。

 でも高遠先生が好きな相手が真琴ちゃんって知ったときから、私は真琴ちゃんに嫉妬するのと同時に、高遠先生にも嫉妬していたんだ。

 私に隠れて彼と関係を持つほど、真琴ちゃんは彼を好きなんだと――……。

「それにさぁ、裏切ったって一方的に決め付けンの、まだ早いかもよ?」

 彼の淡々として、けれども何時もの飄々とした風な口調で思考から引き戻される。

「相談事、いつも芽衣センセにしてるって言ってたじゃン?」

 ステージに手を付いて立ち上がりながら、椎名君が問いかけた。

 私はこくりと頷く。

「その真琴センセが今回に限って怜のこと、何も言わなかったンだとしたら……言い辛い事情があったンじゃないの?

ま、そりゃトモダチの好きな男といい感じになってるワケだから、そンなの言い辛いに決まってるだろうけど……。そういうことじゃなくて、さ」

 あの人、その辺正々堂々としそうなタイプだし、と付けたしながら、再び私と向き合うような姿勢になった。。

 言い辛い、事情―――

 『千葉先生に落ち度はありません』

 『僕の勝手な衝動で、千葉先生を脅迫して関係した。そういうことです』

「あ―――」

 思わず、声を洩らしてしまっていた。

 私は、知っていたじゃない。

 昨日、高遠先生の口から直接――その『言い辛い事情』を聞いていたじゃない。

 でも聞いた直後は信じることが出来なかった。それどころか、なるべくその事実から目を背けて、考えないようにしていた。

 だって、だってそれは……あまりにも現実味の無い内容で―――

 私は急に、身体から力が抜けてその場に崩れる。

「芽衣センセ?」

 椎名君は慌てた声音で私の元へと駆け寄り、手を貸してくれる。

 屈んだ彼の手にしがみ付き、漸く上体を起こしながら、握る手に力を篭めた。

「私――私、知ってたの……」

「え?」

「私、真琴ちゃんが裏切ってないって――知ってたの。知ってたのに……私が真琴ちゃんを、信じられなかったから……」

 意味が分からない、というように聞き返す彼に、私は震える声で答える。

 私が高遠先生の言うことを信じたら、『私が今まで好きだった高遠先生』を否定することになる。

 それに、『真琴ちゃんが私を頼ってくれなかった事実』を、どうしても認めたくなかった。

 真琴ちゃんなら私を一番に頼ってくれるはず――そんな身勝手な拘りが、冷静さを失わせていたんだ。

「……私が、信じられなかったからっ……」

 今なら――今なら、きちんと整理できる。

 もし仮に……高遠先生の言うとおりなら、真琴ちゃんは望んで高遠先生と関係したんじゃない。

 だからこそ、私に言えなかったんだ。

 真琴ちゃんは優しいから、私にも言えず、高遠先生にも抗えずにいた。

 その真琴ちゃんを信じることができなかったのは……私。

 裏切ったのは寧ろ、私の方なんだ―――

「わ……私、何てことを……」

「芽衣センセ?しっかりしてよ、ホラ」

 椎名君は私を立たせるため、肩を支えて上体を持ち上げようとするけれど、彼のシャツを掴む手が震えて、力が入らない。

 彼は諦めて、私の両肩を支えたまま片ひざをつき、耳元で囁く。

「ねェ、ホント大丈夫?」

「――私、とんでもないことをしちゃった……真琴ちゃんに……高遠先生に……」

 私、どうかしてた。

 裏切られたっていう激情に支配されて、自分自身を見失ってしまっていた。

 しかも怒りに任せて、取り返しのつかないことまで……。

「あ、謝らなきゃ――私……酷いこと言っちゃった……」

 瞳から、また、ぼろぼろと涙が零れてくる。

 でもさっきのそれとは違う。後悔の色をした涙。

 どうしよう。どうしたらいいの……。

 頭の中に、今し方の言葉がリフレインする。

 
『サイッテー』

 さっき椎名君に言われたとおり、サイテーだ。

 私――取り返しがつかない、最低なことをしてしまった―――

「椎名君、どうしよう、私―――」

「――よかった……」

 自己嫌悪に打ちのめされている私の耳に落とされた呟きは、全く予想をしていない台詞だった。

 不意に、支えるだけだった椎名君の手の力が、ぎゅっと力強いものに変わる。

 温かい両方の手のひらが、私の肩を掻き抱く。

 そう、気がつくと、私は椎名君に抱きしめられていた。

「椎名……君……?」

「いつもの芽衣センセだ」

 極々、近い距離での囁きには、安堵したようなニュアンスが含まれていた。

「………?」

 彼に抱きかかえられるままになっていると、少しだけ身体を離す仕草で、私と彼との視線が交わる。

 彼の瞳は微笑っていた。

「―――――……」

 瞬間、まるで矢で射られたように。

 私は、その優しい眼差しに釘付けになってしまった。

 以前にも感じたデジャヴ。高遠先生と同じ……ううん、とても似ているけど違う。

 彼が私に向けてくれる以上に、温かくて、胸が高鳴るような甘くて切ない気持ちが止まらなくなる。

 自分のクラスの生徒なのに――高遠先生じゃ、ないのに。

「オレは、何があったか分からないけど……。真琴センセはずっと仲良しのトモダチなンだろ?」

「……うん」

「それなら、もっかいちゃんと話してみなよ。lトモダチなら、分かってくれンじゃない」

 ドキドキするような高揚感と、彼と居て、何故か湧いてきた安心感に戸惑いながらも、私は確りと頷いた。

 きちんと真琴ちゃんと話をしよう。

 彼女を信じられなかったこと、酷いことを言ったこと、全部謝ろう。

 そして願わくば、前みたいな関係に戻りたい。

 だって真琴ちゃんは、私のたった一人、かけがえの無い親友だから。

「うん……そうする。私、話してみる」

「ン、よくできました」

 そう言いながら、彼はそのままの笑顔で、くしゃりと私の頭を撫でた。